石破政権というのは、衆議院解散総選挙をやるためにある。石破政権自体は、短命だよ。石破政権が長く続くということはありえない。
貧乏リタイア生活続行中です。節約生活をしています。脱力系です。 趣味は語学学習やアニメなど金がかからないものです。 普通の人のリタイア生活とはほど遠いものがあります。
2024年9月29日日曜日
だるい。
じつは、頭にダメージが残っていて、なんか、つまっている感じがする。なんていうのかな? 痛さは感じないんだけどなぁ。けど、いたさは感じないと書いたけど、これって、うすく痛いということなんじゃないかなという感じがしてきた。ともかく、体調が、最悪。
だるい。
眠っても、よくなる感じがしない。それに、なんか、半分夢を見ているようなときに、超細かいことを思い出すんだよな。これ、まあ、トラブルかなぁ。友だちの、お姉さんがアルバイトしているところに行ったとき、友だちのお姉さんが、かき氷をおごってくれるということになったんだけど、ぼくがそれを、「お姉さんがアルバイトをしているのに、そのアルバイトのなかから金を出すということだから、おごってもらわずに、自分で金を払ったほうがいのではないか」と思って、わりと、こばんだんだよね。で、友だちの言い分としては、「そういうのは、うけっておいたほうがいい」ということで、けっきょく、おごってもらったんだけど、なんか、俺が、何回か、ことわったので、はじをかかせたというようなことになったみたいなんだよね。友だちのお姉さんは、そう感じたみたいなんだよ。けど、アルバイトって時給の世界じゃない。「時給で働いている人に、数百円のものをおごってもらうというのは、悪い」という感じがしたんだよなぁ。あれも、やっぱり、おごってもらって、うれしがるというのが、よかったんだろうなぁ。なんか、友だちの話だと、友だちのお姉さんからの俺に対する評判は、悪かったらしい。こばんだから。 ずーーーっと、何十年間も忘れていたことなのに、すぱっと、思い出した。
* * *
さっき、ネットスーパーの注文を出したのだけど、キャンセルした。キャンセルは、別に、あっち側の負担にはならない。ともかく、だるい。どのみち、近いうち、買わないとだめだ。めんどうくさい。だるい。なんか、このあいだの、ダメージが残っている。
まあ、食欲はあるから、いいか。
* * *
もう、ずんだもん動画もおもしろくないし、見るものがなくなってしまった。あれも、旧Twitterとおなじで、おすすめに出てくるものには、意図があるんだよなぁ。まあ、俺の市長履歴から、おすすめの動画を出しましたということになるんだけど、意図はある。
なんか、悪いずんだもんをたくさん見て、ずんだもんがにくたらしくなってきた。ずんだもんは、キャラとしてかわいいと思うけどね。あとは、声は、ほんとうに、かわいい声で、聴きやすい。いつも、二倍速で見てるよ。だから、声がいいと言っても二倍速の声がいいということだ。
* * *
その、「アルバイトだから」というところで、ぼくが、お姉さんをバカにしているように(お姉さんは)思ったらしいんだよなぁ。お姉さんというのは、友だちのお姉さんのことね。けど、そういうことではなくて、自分のことを考えると、アルバイトでかせいでいるカネのなかから、人におごるって、あんまなぁ……。まあ、ぼくの感覚は、ずれているのかもしれないけど。
そういえば。とーーーいむかし、そんなことがありました。けっきょく、おごってもらったわけだけど、何回かことわらずに、おごってもらえばよかったなぁ。おごってもらったものは、かき氷だね。
2024年9月28日土曜日
別枠の対処
言っておくけど、条件の格差について「別枠」をつくって対処をすることは、問題をつくりだしていることになり、問題を解決することにはなってない。
たとえば、女性が少ないので、女性用の「別枠」を用意して、対処しようとするのは、むだなことであり、有害なことだ。条件に格差があるということが指摘され、条件の格差について対策をしようとすると、別枠を用意して、対処することになるのだ。
これは、意味がないばかりか、有害だ。ゆがんでいる制度のなかに、もっとゆがんだ部分つくって対処しているようなものだ。
たとえば、医学部進学の問題についてのべたけど、ほんとうは、大学時代の生活費と、大学の授業料やその他のすべての費用を援助するというのであれば、いちおうは、医学部進学の格差については、格差を縮小することができる。
そういう状態なら、公平なので……おカネによる足切りがなくなるので、おカネもちで医学部に進学した人も、無意識的な「うしろめたさ」をもたなくていいということになる。
別枠の対処というのは、あっち側の人がつくった制度のなかで、あっち側の人が、「対処したように見せかける」ためのものなんだよ。実際には、ゆがんだ部分が増える。まったく、役に立たない。
おカネはおカネなのだから、おカネの格差には、対処できるんだよ。ほんとうは、対処できる。学費だけではなくて、学生であるあいだの生活費も保証しなければならないのだけど、それも、おカネの問題だから、おカネで対処できる。
学費や生活費を保証して、やっと、格差に対処したということになる。
しかし、それは、とりあえずの「おカネの格差」について対処しただけなのである。現実的な格差というのは、おカネの格差だけではない。
ほんとうは、勉強のやりにくさ、勉強のやりやすさという格差がある。家族がきちがいで、ものすごい騒音を出し続けるような家族だと、その家族にやられた人は、勉強がやりにくくなる。生活がしにくくなる。格差だ。
ものすごい格差だ。
家族の格差がある。
「自分の成功はカネによるものではない」
たとえば、医学部に進学するということを考えた場合、親がカネ持ちであることは、有利なことなんだよ。おカネで、医学部に進学する権利を買ったということだ。
そして、医学部に進学したなら、おカネで、医学部に進学するという幸福を買ったということだ。
もちろん、医学部に進学する権利があるだけで、試験に落ちたら、進学できない。
だから、おカネは、第一段階の「あしきり」になる。ある人は、いいけど、ない人は、だめだ。けど、こういうことを言うと、おカネがあるから、第一段階の足切りに引っかからなかった人が、「おカネがなくても、進学した人はいる」というようなことを言う場合がある。ようするに、「おカネがなくても、医学部に進学した人がいるのだから、おカネがあるかどうかは、医学部に進学できるかどうかとは関係がない」というようなことを言うのだ。本人が、おカネもちで、医学部に進学した人だと、そういうことを言う場合がある。「おカネがなくても結婚はできる。おカネと結婚は関係がない」という理論とおなじだ。まず、例外を出して、可能だと言うのだ。そして、可能であれば、関係がないと言うのだ。もう、すでに述べてきたことだから、くわしくは書かないけど理論的な問題がある。これ、理論の問題なのである。まあ、理論がおかしいと(こっちが)言えば、「嫉妬をしているから、そういうことを言っている」とまた、おかしなことを吹っ掛けてくる。どれだけ、自分が支離滅裂なことを言っているか、わかってない。ともかく、こういう人たちにとっては、おカネと幸福は、関係があってはならないのだ。自分は、おカネをもっているけど、おカネは、幸福とは関係がないのだ。そういうことにしておかなければならない。いやーー。関係あるでしょ。なんで否定するかな? まあ、否定したい気持ちがあるんだろうな。まあ、どうして、否定しなければならないのかということについても、わかっている。けど、これは、無意識的な内容について、ふれなければならないから、おこる人もいるだろう。まあ、これ、無意識的な「うしろめたさ」と関係している。そして、無意識的には「自分の成功はカネによるものではない」ということを言いたいという気持ちと、関係している。
まったくなにも見えてない。
やったーー。石破政権誕生。おもしろくなってきましたね。まあ、全部、芝居だけどなぁ。NYダウは、さがらなかった。137.89ポイントのプラス。それにしても、鈍感なやつが多いなぁ。
いいかげん、気がつけ。
まあ、だから、芝居をする必要があるんだけど、それにしても、鈍感すぎる。まったくなにも見えてない。
しかし、高市に期待しているやつらも、ほんとうになにもわかってないんだなぁ。
「まったくなにもわかってない」というのが、よくわかる。こんなやつぱかっりだからなぁ。ほんとうにこの世は、いやだなぁ。
2024年9月26日木曜日
雑感
じつは、今日、また、地域新聞のにおいをかいでしまった。あのにおいにやられた。今日は、なまゴミの日だったので、郵便受けのなかにある「やばいもの」をすてるつもりで、ビニール袋に入れたのだけど、そのとき、ちょっと、においが出た。基本、使い捨て手袋と、中ぐらいのビニール袋と大きなビニール袋で対処しようとしたのだけど、中ぐらいのビニール袋に入れたやつを、大きなビニール袋に入れて、大きなビニール袋の口をしばるときに、やられた。しかも、これ、室内でやってしまったので、問題がある。さらに、すてられない郵便物があり、それにも、においがうつっていたので、問題がある。すてられない郵便物に、最初から、ワク臭?がついていたという可能性は否定できない。けど、地域新聞からすてられない郵便物ににおいがうつった可能性も否定できない。両方とも成立している場合もある。
ともかく、大きな袋に入れるときに、においがついた空気を吸ってしまった。中ぐらいの大きさのビニール袋に入れたけど、口はしばってない。どうしてかというと、口をしばるだけの余裕はないからだ。基本、中ぐらいのビニール袋に入れて、ビニール袋をおれば、原因となる物質が、そんなに出ることはないだろうと思っていのだ。けど、においは出た。大きなビニール袋の口をしばるときに、においを感じた。あれ、口をしばるというのは、なかの空気が出てくるということだから、やばいんだよな。まあ、だいじょうぶだろうと思っていたんだけどなぁ。
おカネは量であらわすことができる。けど、しあわせは量であらわすことができない
おカネは量であらわすことができる。けど、しあわせは量であらわすことができない。また、しあわせ感は、量であらわすことができない。これは、重要なことだ。おカネとしあわせについて語る場合、量であらわことができるものと、量であらわすことができないことについて、語っているということになる。これが、そもそも、無理な話なのだ。だから、まあ、しあわせを主観的にあらわしてもらい、それを量に変換して、量であつかうようにしなければならなくなる。ところが、まず、しあわせは、主観的に表現するしかないものだということが問題だし、量に変換するという問題がある。だって、量に変換できないわけだから……。そういう問題が、横たわっているということについては、常に意識しておかなければならない。
* * *
量と量の関係は、明確に語ることができるけど、量と量ではないものの関係は、明確に語ることができない。おカネは量であり、幸福は量ではないものだ。だから、おカネと幸福の関係は、明確に語ることができない。また、おカネは量であり、幸福感は量ではないものだ。だから、おカネと幸福感の関係は、明確に語ることができない。
「おカネは量である」というのは、おカネの場合は、量で表現できるものだということだ。おカネ自体が量であるということを言っているわけではない。幸福も幸福感も、量で表現できるものではないのである。量で表現しようとすると、「ものすごくしあわせ」とか「普通にしあわせ」とか「ちょっとしあわせ」とかいった表現になるけど、そういう表現に変換された時点で、質が抜け落ちてしまうのである。ある人にとって「ちょっとしあわせ」だと表現できる出来事があったとして、それが、その人にとって「どういうふうにちょっとしあわせ」なのか、ぜんぜんわからない。ある人が、「ちょっとしあわせ」と表現したことと、別のある人が「ちょっとしあわせ」と表現したことは、まったく別のことなのである。たぶんだけど、ある人が「ちょっとしあわせ」と表現したときの「ちょっとしあわせ」だと感じた出来事の内容と、別のある人が「ちょっとしあわせ」と表現したときの「ちょっとしあわせ」だと感じた出来事の内容は、ちがう。まあ、おなじ場合もあるかもしれないけど、完全におなじだとは言えないだろう。似ているようなケースだというような場合にかぎられる。まあ、どっちかが「おなじだ」と表現しても、おなじなのかどうかはわからない。だいたい、おなじような出来事であったとしても、出来事の内容は、厳密に言えば、ちがう。
* * *
おなじ川に、二度はいることはできない……。川が流れているので、そのときの水の状態は、瞬間瞬間でちがう。なので、おなじ川に、二度はいることはできない。まあ、ヘラクレイトスが、考えたことだ。これは、事実だ。たしかに、そういう意味では、おなじ川に、二度はいることはできない。
「おカネは、幸福感とは関係がない」
ある貯金額で上位1%以内に入る人を想定して、その人が、こう思っているのではないかと、ぼくが思っているという言い方だったので、話が複雑になった。
なので、とりあえず、貯金額で、上位1%以内に入っているAさんが、こういうことを思っているという設定で、言いたいことを書くことにする。言いたいことは、前回言ったこととおなじだ。繰り返しになる。
Aさんは、生まれたときからカネ持ちで現在もカネ持ちだ。おカネがあるときに求婚して、結婚した。おカネがあるので、子どもに、いろいろなことを体験させてやることができる。いろいろなところに連れて行ってやることができる。
そういうAさんが、以下のようなことを言ったとする。
「おカネじゃしあわせは買えない」「みんな、おカネおカネと言っているけど、おカネはそんなにたいせつなものじゃない」「おカネなんかよりもっともっと、たいせつなものがある」「みんなは、それに気がついてない」「世間のおカネおカネと言っている人たちは、おカネよりもたいせつなことがあるということに気がついていない」「自分は、おカネよりも達成なことがあるということに気がついている」「おカネは、幸福感とは関係がない」「おカネがなくても、幸福感を感じる人はいる」「たとえ、おカネがかかる体験を、子どもにさせることができないとしても、工夫次第で、おカネがかからない体験を子供にさせることができる」「収入は、幸福感とは関係がない」「工夫次第で、収入とは関係なく、幸福感を感じることができる」「おカネがなくても、しあわせな生活をすることができる」「おカネは、しあわせな生活を保障しない」「みんな、おカネがしあわせな生活を保障しないということがわかってない」
これ、いろいろと問題がある発言なのである。だいたい、おカネがないと言っても、どの程度おカネがないのかはっきりしない。
おカネがあると言っても、どの程度おカネがあるのかはっきりしない。なので、ここらへんのことを、最初に定義する必要がある。けど、この定義が、むずかしいのだ。
そして、だれもが、「おカネがない」とか「おカネがある」という言葉を使っているにもかかわらず、そこで想定されている「おカネがない」状態や「おカネがある状態」には、ちがいがあるのだ。
おなじ人でも、言う場面によって、「おカネがない」の「おカネがない程度」がちがうし、「おカネがある」の「おカネがある程度」がちがう。おなじ人でも、時間によってちがう。
そのときは、あるおカネがある状態を想定して、おカネがあるということについて語り、別のときは、別のおカネがある状態を想定して、おカネがあるということについて語る。
語るのが普通だ。
おカネというのは、金額であらわすことができるものなので、定義をしようと思えば、定義ができる。けど、その定義に、ほかの人がしたがうとはかぎらない。
そして、やっかいなのが、全体について語っているのか、全体のなかの一部について語っているのか、語っている人が、認識していないという問題だ。
たとえば、「おカネで、しあわせが買えない」のか「おカネで、しあわせが買えるとはかぎらない」のか、言っている本人が、わかってないところがある。
しかも、本人は、じゅうぶんに、理論的に話しているつもりなのだ。
このちがいを無視して、理論的に話すなんてことはできない。
好きだからどうしてもやっちゃうやつと、好きじゃないけど努力してやるやつ
才能がおなじなら……好きだからどうしてもやっちゃうやつと、好きじゃないけど努力してやるやつと、どっちが勝つかといったら、好きだからどうしてもやっちゃうやつが、勝つ。もう、決まっている。スキにも程度があって、「努力をしている」と感じるような「スキ」の程度と、「努力?しているわけではない」と感じるような「スキ」の程度がある。努力していると感じているゃっは、努力しているわけではないと感じているやつに、まける。その分野では、まける。才能がおなじなら……というのは、ちょっときびしい設定で、現実的ではない。現実を考えると、じつは、総合的な才能なんて推し量ることができない。対戦するようなものだと、勝ったやつのほうが、総合的な才能があるということになる。
才能がおなじならという設定には、無理がある。そとから見て、だいたいおなじ程度の才能があるなら、好きでやっているほうが勝つ。「努力をしている」という主観あるなら、それは、どこかでむりをしているということだ。「やりたくない」と感じているのに、それをおさえこんでやっているということだ。「やりたくない」と感じているのにやっているやつと、「やりたくない」と感じないで、やっているやつ。「やりたくない」と感じないでやっているやつが、勝つ。
「なんでも感謝感謝」
「なんでも感謝感謝」などと普段は、言っているのに、おこりやすい人というのがいる。たとえば、「なんでも感謝感謝」といっている人が、自分の理論を否定されたとする。そうすると、おこる。「自分の理論を否定してくれて、ありがとう」と感謝するべきだ。こういう人たちは、自分の行動に関するサーチ能力が欠落している。おこっているときは、おこっているときで「感謝感謝」なんて、まったく関係がないことになっているのだ。そのときの「自分の感情」がたいせつなのだ。「なんでも感謝感謝」と言っているときは、そういう気分なのである。時間的に、両立しないことがあっても気にしないのである。(本人が)矛盾した行動をしても、(本人は)気にしないのである。この、「自分の矛盾は気にしない」というところは、一貫してたもっている。
「自分の理論を否定してくれて、ありがとう」に関して、ちょっと付け加えておく。たとえば、言霊理論は、まちがっている。Aさんが、言霊主義者で、なおかつ、 「なんでも感謝感謝」などと普段は、言っている人だとする。そして、Bさんが、言霊理論はまちがっているということをAさんに言ったとする。この場合、Bさんがあっている。Bさんの言っていることが理論的に正しい。なので、「なんでも感謝感謝」と思ってなくても、感謝するべきなのである。ところが、実際には、Aさんは、おこる。「単純なのが正しい」「言ったことが現実化する。これは、まちがってない」と言って、認めない。あるいは、自分のほうが立場が上なら「なまいきなことを言うな」と言っておこるかもしれない。ともかく、怒りの反応があるのである。相手が言っていることが正しい場合は、Aさんは、ただ単に、いやな人になってしまう。もしかしたら、こういう反応をがあるいうことを織り込んで、宗教家は「なんでも感謝感謝」などと言っているのかもしれない。まあ、そこまで自覚があるかどうかわからないけど、最初に考え付いたやつは、そこまで考えているかもしれない。「なんでも感謝感謝」というのは、『いやな人製造装置』なのだ。たいていは、自分の理論を否定されたらおこる。おこるという反応がある。だから、普通は、「なんでも感謝感謝」という言葉で想定されている「気持ち」は完全に、やぶられることが決まっている。「なんでも感謝感謝」という理論?は、日常生活なかで、破綻することが決まってる理論なのである。
そんなのは、まもれるやつがいないのだ。「なんでも感謝感謝」という標語みたいな言葉を、「なんでも感謝するべきだ」という理論だとする。そして、この理論に人は、したがうべきだとする。ようするに、理論であると同時に戒律であるとする。この戒律は、まもられないことが決まっている戒律なのである。宗教家だって、実際にはまもってないよ。宗教家自身だって、感謝しないで、おこるという反応をかえす場合がある。日常生活のなかでは、「なんでも感謝感謝」という戒律を人に語っている宗教家だって、普通に、おこったりする。感謝しないでおこったりする。
感謝できないことには感謝してないのである。それなら、普通に、感謝すべきことには感謝するけど、感謝するべきではないことには感謝するべきではないと言えばいい。これは、「すべてに感謝するべきだ」という理論とはちがう。
まあ、相手が言っていることが実際にまちがったことなのであれば、おこっても、それは、ゆるされると思う。けど、相手が言っていることが、理論的には、あっている場合は、ただ単に、矛盾だらけのいやな人になってしまう。
自分の理論を否定した相手の理論がまちがっている場合と、自分の理論を否定した相手の理論が正しい場合だ。「なんでも感謝感謝」と言っている人は、「なんでも感謝感謝」と言ってない人よりも、『いやな人』になる確率があがる。そういう場面が多くなってしまうのである。もともと、まもれないことが決まっている理論・戒律なので、矛盾した行動をすることが多くなるのである。反応をかえすというのも、行動の一種なのである。なので、日常生活のなかで、その戒律を破ることが決まっている戒律なのである。
自分は守っていると思っている人は、ただ単に、自分の行動に関するサーチ能力が低いだけだ。自分が「なんでも感謝感謝」と思っているときの感情と、相手に腹がたつことを言われて怒っているときの感情が、むすびついてないだけなのである。感謝せずに、おこって言いかえしたということがあるなら、感謝せずにおこって言いかえしたということを、認識して記憶しなければならない。そして、自分は「なんでも感謝感謝」と言っているけど、それを自分は守っているわけではないということに、気がつかなければならない。ところが、自分の行動に関するサーチ能力が低いと、気がつかずに、矛盾したことを言って、暮らせるのである。
* * *
ちなみに、相手の理論がまちがっている場合であってなおかつ、相手の理論が正しいとは思わず、自分の理論が正しいと(本人が)思っている場合は、その人は普通の人だ。
相手の理論がまちがっている場合も、相手の理論がまちがってない場合も、ともかく、「なんでも感謝感謝」と言っている人が、おこってしまったら、「なんでも感謝感謝」と言っている人は矛盾した行動をしたということになる。感謝してない。相手が言っていることが正しい場合は、(相手にとって)いやな人になり、神様の視点で見ても、いやな人になる。相手が言っていることがまちがっている場合は、普通の人だ。相手にとっては、いやな人になるかもしれないけど、神様的な視点では、普通の人だ。
* * *
「なんでも感謝感謝」という理論は、一見よさそうな理論に見えるけど、「なんでも感謝感謝」ということが正しいと思った人が、ほかの人に「なんでも感謝感謝で暮らすのがいい」と言うと、「なんでも感謝感謝で暮らすのがいい」と言っている人が、トラブルを起こす機会が増える。「なんでも感謝感謝で暮らすのがいい」と言ってないときよりも、「なんでも感謝感謝で暮らすのがいい」と言っているときのほうが、(他人と)トラブルを起こす確率があがる。
* * *
自己責任論の場合は、あきらかに、悪意があるのである。設計者に悪意がある。「なんでも感謝感謝」という理論の場合は、どうなんだろうなぁ? 設計者に悪意があるのかどうか、わからないなぁ。だいたい、「なんでも感謝感謝で暮らすのがいい」という理論は自己責任論よりは、はやらなかったからなぁ。影響力が小さい。宗教的な人が、言いそうなことだしなぁ。けど、設計者に悪意があって、(設計者の協力者によって)はやらされた可能性は否定できない。かなりの確率で、設計者に悪意があったと考えるべきだ。
* * *
あとは、単純に、行政がなにか悪いことを自分にしたとしても、「なんでも感謝感謝」と言っている人は、悪い行政に感謝することになる。悪い行政が、自分に対して悪いことをした場合でも、感謝しなければならないことになる。行政が悪いことをすることなんてあるの?と思う人もいるかもしれない。あるでしょ。たとえば、ワクチンとか……。
* * *
実際、「NHKがやっと、ワクチン後遺症について、あつかってくれた。感謝感謝」と書いていた人がいたけど、これも、ほんとうはひどい話なんだよ。NHKがどういうことをしてきた考えればわかる。これは、たとえるなら……水銀をまきちらした企業に対して、水俣病患者が感謝をするというような話だ。
いま、ぼくがなにを言っているか、さっぱりわからない人も、そのうちわかってくれると思うよ。まあ、あと2年ぐらいかかるかな。まあ、NHKと水銀をまきちらした企業のちがいはある。NHKがやったことと、水銀をまきちらした企業がやったことには、ちがいがある。だから、おなじではない。だから、「たとえるなら」と書いておいた。
* * *
悪意がある複合体が、悪いことをしようとしたとき、一般市民が「なんでも感謝感謝」と考えていてくれたほうが、なにかと、都合がいい。
2024年9月25日水曜日
「おカネのほうが、家族とのしあわせな暮らしよりもたいせつだ」
「おカネじゃ、しあわせは買えない」といっている人は、たぶん、「おカネよりも、もっと、たいせつなものがある」と言いたいのではないかと思う。
「みんな、おカネおカネと言っているけど、ほんとうは、おカネなんかよりも、もっともっと、たいせつなものがあるんじゃないか」とほかの人に、言いたいわけである。
けど、本人が、上位1%のなかに入るおカネもちなのである。さらに、生まれたときから、上位1%のなかに入るおカネもちなのである。親が上位1%のなかに入るおカネもちだからだ。
だから、「おカネよりも、もっと、たいせつなものがある」と主張する本人は、ずっと、おカネにみたされて暮らしてきたわけ。
下位10%の人の暮らしを知らないわけ。下位50%の人の暮らしを知らないわけ。上位1%以内の人がもっているおカネに関する考え方と、下位10%以内の人が思っているおカネに関する考え方はちがう。
おカネに関係した経験もちがう。
おカネで苦労をしたことがない人が、「おカネよりも、もっと、たいせつなものがある」「おカネよりも、もっと、たいせつなものがある」と言ったって、言われたほうは、しらけてしまう。
だいたい、「おカネよりももっと、たいせつなものがある」といっているけど、その、「おカネよりも、もっと大切なもの」が、ある程度は、おカネによって維持されているものなのだ。
家族とのしあわせな暮らしのほうが、おカネよりも、もっと大切だとする。
別に、「おカネのほうが、家族とのしあわせな暮らしよりもたいせつだ」と言いたいわけじゃない。
まあ、上位1%以内の人は、ほかの人が「おカネのほうが、家族とのしあわせな暮らしよりもたいせつだ」と思っていると(ぼくは)思う。ほかの人は、「おカネのほうが、家族とのしあわせな暮らしよりもたいせつだ」と思っているから、ほかの人は「おカネおカネ」と言うのだろうと、上位1%以内の人は、思っていると(ぼくは)思う。上位1%以内の人はそう思っているところがあると(ぼくは)思う。
まあ、どれだけ意識的なのかはわからないけど、ともかく、そういう前提も、ちょっとは横たわっている。ようするに、上位1%以内の人が、どれだけ意識的に、他人がそう思っていると思っているか、わからないけど、ある程度は、そういうふうに考えているところがあるんじゃないかなと(ぼくは)思う。
けど、「おカネじゃしあわせは買えない」ということについて、反論している人は「おカネのほうが、家族とのしあわせな暮らしよりもたいせつだ」と言いたいわけではないのである。「その、家族とのしあわせな暮らしを維持するために、おカネが必要なんじゃないか」ということを、言いたいのである。
2024年9月24日火曜日
「おカネと結婚は関係がない」「おカネがなくても結婚はできる」
たとえば、9ブロックの人が、おカネもちで、結婚していたとしよう。その人が、「おカネと結婚は関係がない」と言ったとしよう。
けど、おカネがあるほうが、おカネがないほうより、結婚において有利なのだ。
だから、おカネと結婚は、関係がある」と言うべきだ。
たとえば、1ブロックの人が、結婚していたとしよう。1ブロックの人たちは、おカネがない人たちだ。けど、特別にルックスがよくて、1ブロックのAさんが、結婚できたとする。
そして、9ブロックのBさんが、Aさんを例にして「おカネと結婚は関係がない」「おカネがなくても結婚はできる」と言ったとする。
「おカネがなくても、結婚ができる」という発言の、背景には「おカネがあると、結婚しやすい」「おカネがないと結婚しにくい」という考え方がある。だから、背景にある考え方は、「おカネと結婚は関係がある」というものなのだ。
背景というのは、ようするにメタ的な背景だ。その発言がなされる背景にはどういう考え方があるのかということを考えたほうがいい。関係があると思っているから、特殊な例をあげて、関係性を否定したいのだ。
ところで、1ブロックのAさんは、結婚できたけど、ほかの1ブロックの人は、どうだろうか。
たとえば、9ブロックの成人は90%が結婚しているけど、1ブロックの成人は10%としか結婚してないという場合について考えてみよう。
これは、仮定の話だ。9ブロックの90%が結婚していて、1ブロックの成人が10%としか結婚してない場合、おカネがどの程度あるかということは、結婚するかどうかに関係があるということを意味している。
おカネをより持っていたほうが、結婚しやすいということだ。
9ブロックのBさんは、自分が1ブロックの90%よりも、結婚において有利だということを、無視しているのである。そして、1ブロックの結婚できたAさんを例にして、 「おカネと結婚は関係がない」「おカネがなくても結婚はできる」と言うのだ。
そりゃ、事実Aさんは結婚している。
けど、1ブロックのなかで結婚している人は例外なのだ。少数派だ。少数派を例に出して、一般的な関係、あるいは、一般的な関係性について語るというのは、フェアじゃない。
事実Aさんは結婚していると書いたけど、もちろん、仮定の話のなかの、事実だ。
「人に親切にすると運がよくなる」
もともと、親切な人が、人に親切にしようとすると、過剰な親切になってしまうので、よくない。トラブルがしょうじやすい。特に、「もともと、親切な人」が、悪い条件でわるい立場である場合、トラブルがしょうじやすい。「人に親切にすると運がよくなる」というようなことを言う人がいるけど、それはまちがっている。だれでも、そうなるわけではないのだ。「なんか、法則性があるようなことを言うな」と言いたくなる。
* * *
もともと、親切な人に言っておきたい。もともと、親切な人が気にすることと、もともと、そんなに親切ではない人が気にすることは、根本的にちがう。最初から、基準がちがう。だから、もともと、親切な人が、さらに親切にしようとすると問題がしょうじる。あるいは、問題がしょうじやすくなる。ともかく、ほんとうに、最初から、気にしていることがちがう。ちがいすぎる。
最初から気にしていることがちがうのに、「人に親切にすると運がよくなる」と一般化してしまうことには、問題がある。もともとの性格というものを考えなければならない。もともとの性格がちがう人に「人に親切にすると運がよくなる」と言うと、問題がしょうじる。人によって性格がちがうということが前提にあるのだから、「人に親切にすると運がよくなる」というのは、不適切な発言だ。「人に親切にすると運がよくなる」と言っている人は、もともとの性格のちがいというものを、無視している。
急に、すずしくなった。
ネズミとの戦いに、つかれた。もう、つかれたなぁーー。きちがい親父が俺に強いたものというのは、でかい。あんなハンディがなければなぁーー。
* * *
急に、すずしくなった。これはこれで、やっかいだ。起きたとき、ちょっとさむかった。なんかもう、つかれた。もう、つかれたなぁ。9月1日あたりから、徐々に気温がさがらなければならない。徐々にさがるというのが、必要。急に、さがるからなぁ。急激な温度変化は、くるしい。
秋の虫がないている。急に、秋。
2024年9月23日月曜日
家の条件
しかし、どうするかな? アパートを借りた場合、どの程度、シェディングをうけるかな? あれ、いろいろと問題なんだよ。そして、見えないしね。こっちの家は、こっちの家で、ダニ問題がある。これ、ほんとうに、肌も歯も、ぴったりよくなる技術が開発されるのかね?
まあ、そのうち提供されると思うんだけどね……。ともかく、じゃあ、この世のくるしみはどうでもいいかというと、そうではないのだ。
まあ、この世というのは、ほんとうに悲惨な世の中なんだよ。悪いカードを持って生まれたら、どれだけがんばってもだめなんだよ。ところが、宗教家たちや裕福な人が、とても妄想的で、とても現実的ではないことを言う。ようするに、嘘を言う。そうすると、低階層のキョロ充も含めて、「宗教家たちや裕福な人たちが言うことがただしい」という攻撃をしてくる。これは、攻撃だ。「攻撃」と言っていい。ところが、まあ、「攻撃」ではないだろうと思う人たちは多いと思う。けど、これは、攻撃だ。
ともかく、悪い人がいる家に生まれてくると、めちゃくちゃな目にあうことが決まっている。ふんだりけったりだ。不可避的。不可避的。回避できない。回避不能。次から次へと不幸なことがおそってくる。これでもかと、おそってくる。条件が悪いと、家の人にやられるわけで、家の人にやられると対外的にもこまるのである。常識的なことを言うやらつは、絶対に、助けてくれるわけではない。常識的なことを言うやつらは、相手が弱っていたら、攻撃をする。しかも、攻撃だと思ってないんだよ。これが……。 そいつらは、ぼくよりは、「家の条件」がいいのである。
これも、書いちゃうと、めちゃくちゃに人気が落ちるのだけど、これは、ようするに、悪い人たちがいる家に生まれてこなかったやつが多いからだ。キョロ充の世界ではそうなのである。頭がおかしいレベルで、悪いやつがいる家に生まれてきたら、悲惨なのである。けど、これが、ほかの、めぐまれた人たちにはわからない。
2024年9月22日日曜日
スチーム洗浄機
どうするかなぁ。スチーム洗浄機というのを、むかしかったんだけど、ずっと、ほったらかしにしておいた。いじる気力がなかったのだ。けど、このあいだ、箱をあけて、なかみをとりだしておいた。けど、そのときは、なかみを使ってみるつもりがなくて、また、放置しておいた。けど、今回、使ってみた。思った以上に、強力で、スチームをはきだす力が強い。あまりにも、強いので、風で、やばい感じがする。スチームの力でダニを退治しようと思ったのだけど、なかなか、うまくはいかない。けど、まあ、使えないことはないかな。いちおう、期待しているのだけど、湿気が残るので、またダニが発生するかもしれない。だいたい、全部の面をうまく、スチームにあてるということが、できない。それは、こっちのつごうだ。けど、全部の面にあてて、ダニを殺すということができない。まあ、直撃をくらったところにいたダニは、死ぬだろう。ともかく、スチームをはきだす力が強すぎて、狭いところでやると、逆流してくる。
まあ、ゲロをはいた床は、きれいになったよ。
2024年9月21日土曜日
そーーとーーに、だるい
そーーとーーに、だるい。全部が、いやだ。どうするかな? まあ、すべてが、色あせている状態なんだけど、なんとか、チカラをふりしぼれば、自分でご飯を食べられる状態だからなぁ。だいたい、タイプできるし……。これ、打っているし……。まあ、時間の問題でよくなると思うのだけどなぁ……。吐き気が残っている。これは、予想外だ。やばい感じがある。
親父のネズミと、ネズミの糞と、ダニとネズミ対策に、やられている。そう、ネズミ対策にやられている。どれだけ、不愉快なことがしょうじたか。どれだけ、やらなくていいことがしょうじて、やった結果、ボロボロになったか。元気がもともとないのに、親父がネズミを導入しなければ、やらなくてもよかったことをやって、ボロボロになっている。
体がだるい
体がだるい。吐き気がすこし、残っている。まあ、残っているというか、新たにしょうじたのか。このあいだから、つながっている感じもあるけど……。
ともかく、なんか、いやだなぁ。
人に親切にして、きらわれたことを思い出した。これ、へんなものを読まないで、普通の状態だったら、やってない行為なんだよなぁ。「人に親切にしよう」と思ってやったことは、全部失敗。俺は、普通に、普段から親切だから、意識的に「人に親切にしよう」と思っているときは、過剰に親切になってしまっている。人に親切にすると運がよくなる系の本って、不親切な人と、普通の人向けの本なんだよ。 親切な人が読むと、過剰に親切にすることになる。それは、やはり、自分の親切にした気持ちにふりまわされることになる。だから、まあ、結果的には、人に迷惑をかけたことになる。これが、不思議なプロセスなんだよなぁ。
いまさっき、なんか、夢を見ていて、起きたときに、実際にあった「親切にしようとして、傘にいれたら、あとできらわれた事件」を思い出して、へこんだ。
* * *
「それは、親切にするしかたが悪いんだ」「それは、親切にする方法がまちがっていただけじゃないか」と思う人がいるかもしれないけど、こういう人は、普通の人だ。こういう人と、もとから親切な人の構造がちがう。もう、感覚がぜんぜんちがう。「それは、親切にするしかたが悪いんだ」「それは、親切にする方法がまちがっていただけじゃないか」なんて言うやつらは、きらわれたことに気がつかないやつらなんだよ。相手が、どう思ったかということに、常日頃から、鈍感なやつらなんだよ。うらまれることをしたあとも、「いいことをした」「親切にした」と思っているようなやつらなんだよ。ぜんぜん、感覚値がちがうから、こういう人たちの影響をうけないほうがいい。もちろん、「それは、親切にするしかたが悪いんだ」「それは、親切にする方法がまちがっていただけじゃないか」と言う人たちは、「人に親切にするといいことがある」「人に親切にすると運があがる」と普段から言っている人たちだよ。「だから、人に親切にしてあげればいい」と言っているやつらだよ。こいつらの感覚と、もとから親切な人の感覚は、ぜんぜんちがう。こいつらの感覚で、こいつらはものを言っている。ぜんぜんちがう、初期値。ぜんぜんちがう、感覚。
パーソナリティーとしては、宗教の勧誘をして、いいことをしたと思っているやつらだ。あるいは、恵まれすぎていて、感覚的にのぼせあがっているやつらだ。
* * *
抗がん剤というのは、問題があるものなのだ。だから、医者は、自分には抗がん剤なんて打たないと決めている。自分の家族にも、打たせないだろう。ところが、自分の患者には、ガンガン抗がん剤を打ってなにも感じないような人なのだ。こういう感覚が成り立っている。「人に親切にするといいことがある」「人に親切にすると運があがる」と言っているのだけど、抗がん剤を(他人に)打つことにまったく抵抗がない人がいる。こういう感覚なんだよ。信じられないけど、こういう感覚。
2024年9月20日金曜日
宗教
邪悪な宗教を信じている人に言いたい。わざわざ、悪いことを言うわけがないでしょ。表面的には、いいことを言うんだよ。けど、裏がある。宗教の上層部はそれについて知っているけど、中層部や下層部は、知らない。そして、中層部や下層部が、じつは、悪いことをするようにしむけている。だまして、ほんとうは悪いことをさせている。けど、中層部や下層部の人はもうすでに、洗脳されているので、それが悪いことだとは、気がつかない。いいことをしていると思っている。こういう構造は、むかしからある。
寄付金なんて、いいことに使われるわけがない。みんな、ちゃんと、悪いことに使われる。表面的な目的とは、正反対の目的のために使われる。人を助けるために使われるのではなくて、人をくるしめ、殺すために使われる。「そんなことはない」と思うかもしれないけど、これが現実だ。
袋
ネットスーパーで買い物をしたんだけど、今回はじめて、袋をいじっているとき、手にかゆみを感じた。これ、ダニじゃない。ダニとはちがう、かゆみなんだよなぁ。湿疹のでき方もちがう。いま、じつは、この部屋にもってきて、いじった袋で再確認した。あの袋がやばい。あの袋に手を突っ込むと、かゆくなる。これは、地方新聞とおなじやつ。今回、はじめてだ。いままで、ネットスーパーの買い物で、こうなったことはなかったのに……。ついに、ネットスーパーの買い物でも地域新聞と同じ問題が発生したか。地域新聞とおなじところに入れられた郵便物をいじると、もやもやっと、指がかゆくなるのだけど、これは、ダニのかゆさとはちがう。これ、独特のかゆさなんだよな。
身体的なボロボロ感が、ひどい
このあいだ、ゲロをはいてから、身体的なボロボロ感が、ひどい。重装備で、部屋片づけはむりだ。そんなのもう、できない。ともかく、生きているだけで、けっこうくるしい。ともかく、時間をかせぎ、徐々に復活するのをまつしかない。
ちょっとずつなら、拭き掃除もできる。けど、拭けるところを拭いても、いいことがないんだよな。まず、片付けないとやばい。
風呂に入った。しかし、つかれた
風呂に入った。しかし、つかれた。足首がかゆいので、爽快感はない。
ともかく、つかれた。
どうするかなぁーー。買い物に歩いていくべきか? それとも、ネットスーパーで注文するか? まようなぁ。トランスミッション(シェディング)がなければいくのだが……。しかし、買うものも、ある程度汚染されているんだよなぁ。どっちにしろ……。
自分で買いに行く場合、ほしいものがすぐ手に入るので、気をもむ時間が短い。しかし、服も体も、ナノ粒子にさらされる。よくない。
2024年9月19日木曜日
それは、すなわち、おカネで、しあわせを買っているということなのである。
たとえば、おカネもちだけど、不幸な人たちがいるとする。まあ、これも、おカネがある家に生まれて、破滅的な性格が災いして、おカネがあるのに、不幸な人のタイプと、普通のうちに生まれたのだけど、宝くじが当たって、不幸になったタイプの2タイプがある。
宝くじが当たったタイプは、じつは、おカネがなくなって、不幸になるわけで、不幸になった時点では、おカネもちではなくて、貧乏人だ。
だから、おカネがあるのに不幸な人ではなくて、おカネがなくて不幸な人になっている。けど、宝くじが当たったタイプの話も、「おカネじゃしあわせは、買えない」という話の例としてよく出てくる話なのだ。
高額当選で、人が不幸になっていくプロセスというのは、だいたい決まっている。いままでの人間関係がくずれてしまうのである。
そして、新しい人間関係は、その人ではなくて、その人のカネを見て集まってくる人間との関係になるので、これも、もともと、不幸な人間関係なのである。あるいは、不幸が約束された人間関係なのである。ようするに、詐欺の専門家が、いろいろなところから近づいてきて、けっきょくは、おカネをなくしてしまうという話になる。
けど、じゃあ、おカネじゃしあわせは買えないかというと、そうではないのである。おカネでしあわせ体験を買っている人はいっぱいいる。
おカネで、しあわせな生活を維持している人はいっぱいいる。しあわせな生活を維持するのに、おカネがかかるのだから、おカネで、しあわせな生活を買っていると言える。
それは、すなわち、おカネで、しあわせを買っているということなのである。
話を、もとにもどそう。 おカネもちだけど、不幸な人たちがいるとする。この人たちだけを思い浮かべて、自分の頭のなかで、おカネと不幸との関係について考えると、おカネがある集合と、不幸な人の集合が一致してしまうのである。
集合が一致していれば、「おカネがある→不幸」という関係や、「おカネがある←不幸」という関係が成り立ってことになる。おカネがあれば不幸であり、不幸であればおカネがあるということになってしまのである。
集合が完全に一致しているので、右矢印の関係も左矢印の関係も成り立つということになってしまうのである。
けど、これは、不幸な人たちであって、おカネもちである人を……思い浮かべたから、そうなっているだけだ。
おカネがあるけど幸福な人がいる。おカネがあるけど、不幸な人もいる。だから、最初から、左辺の集合が、現実の集合とはちがうのである。
* * *
「おカネがあるけど不幸な人がいる」と「おカネがあって、不幸な人がいる」は、文が発言される前に想定されているものがちがう。「おカネがあるけど不幸な人がいる」と「おカネがあるから不幸な人がいる」とでは、意味は、おなじではない。まったくちがう。ちなみに、「おカネがあって、不幸な人がいる」と「おカネがあるから不幸な人がいる」とでは、もみは、おなじではない。まったくちがう。
ひさびさに、卵焼きを食べた。うまかった
ひさびさに、卵焼きを食べた。うまかった。しかし、頭にダメージが残っている。それから、動きたくない時間が長い。ほんとうに、動きたくない。なんとか、生活しているけど、なんか、ボロボロ限界生活なんだよね。ゴミをすてるというのが、一大事業だ。ネズミがどうなったかわからないんだよなぁ。それも、頭がいたい。一階に置いてあるネズミシートにひっかかってくれればよいのだけど。あとは、むかしの小さな失敗がうかんでくる。ゲロをはいていたときは、それどころではなかったので、むかしの小さな失敗が、ぼくをくるしめることはないのだけど、からだのくるしさが半端じゃなかった。死ぬかと思った。どれだけ呼吸しても、息がくるしくてくるしくて、死ぬかと思った。
2024年9月17日火曜日
まだ、頭にダメージが残っている
まだ、頭にダメージが残っている。ほんとうに、やばい状態だった。よく、復活したよなぁ。けど、まだ、頭にダメージが残っている。けっこう、しんどい。
あとは、まだネズミが家のなかにいそうな感じがするので、それも気になる。
頭も体もくるしいので、ちょっと横になるわぁ。じゃあーー。
2024年9月16日月曜日
雑感
たぶん、ピレトリン中毒なのだけど、ひどい目にあった。しかし、ゲロ処理をしているとき、足の甲をダニに刺されてしまうって、どうよ?
もともと、蚊取り線香はダニ処理とネズミ処理のために、たいたものだ。
あの、兄貴の部屋の左ふすまと内階段のあいだの部分を通って、ネズミが兄貴の部屋に入ったと思われるので、その部分に、ネズミシートをおきたかったのだけど、うまく置けなかったので、ネズミシートをたてかけるように置いた。煙がいやになって、ネズミが出てくるとなると、あそこを通る。基本、兄貴の部屋の左ふすまの裏に、本箱がある。兄貴の部屋の左ふすまを開けると、本箱の裏側が見えるのだ。だから、本箱の裏側が(こっちから見て)一番奥ということになる。こっちから見ると、内階段の手すり→ふすま(ふすまのレール含む)→本箱の裏という構造になる。
本箱の裏側に、ネズミシートを(縦にして)置いた。ほんとうは、これで、ふすまを閉めたかったのだけど、ふすまがネズミシートにあたって、閉められないので、ネズミシートを撤去して、ふすまを閉めようとした。そのとき、どうも、足の甲をダニに刺されたみたいなのである。トイレで刺された可能性もある。たぶん、ふすまを閉めようとしたときに、刺されたのだと思う。
そりゃ、俺だって、ゲロの処理なんかしたくない。ネズミの糞の処理なんかしたくない。ダニに刺されたくない。
* * *
想像しにくいと思うけど、左ふすまをしめたとしても、ネズミが通れる隙間がある。左ふすまと、右ふすまのあいだに、ネズミが通れる隙間がある。こっち?から見て、あきの部屋側(本箱の裏側に)ふすま全体がずれている。側面から見ると、左ふすまが、縦方向にななめになっている。
* * *
右ふすまには、到達できない。どうしてかというと、右ふすまに到達するには、ダニ危険エリアを通らなければならないからだ。ここを通るには、かなりの重装備が必要になる。
2024年9月15日日曜日
雑感
これ、けっきょく、ダニ対処でネズミ対処なのである。ネズミが入ってこなければ、そして、ネズミ経由のダニが大発生しなければ、蚊取り線香なんてたいてないよ。そして、いま、はいたものの処理をしたのだけど、足の甲を、ダニに刺されたみたいなのである。兄貴の部屋の、ふすま・左を、閉めておこうかと思って、閉めたのだけど、そうしたら、ふすまの表面の紙が、だらんと、落ちてきたので、それをなおしたら、そのとき、ダニに足の甲を刺された感じがする。あとは、風呂とトイレで作業をしたわけなんだけど、もし、トイレのなかで、ダニに刺されたとしたら、これは、これで、また、なんらかの対処が必要になる。階段の下・付近(トイレの前)で、蚊取り線香をたいて、その煙のにおい?で、ぼくが……。
雑感
いまも、ちょっとだるいのだけど、省略したかたちで、書いておく。
蚊取り線香の煙にやられて、めまいがして、ゲロをはいた。立てない状態で、ゲロをはいたので、髪の毛にゲロがついた。移動するときに、浄水器などをたおして、浄水器が床に落ちて、浄水器の水が、床にしみた。けど、そのときは、そんなことはかまってられる状態じゃなかったので、放っておいた。さいわい、浄水器のなかに水が、ほんのちょっとしか入ってなかったので、ちょっとしか、床に、こぼれていない。
シンクのところと、シンク付近の床に、まだ、ゲロが残っている。これから、処理しないといけない。めまいは、まばたきするたびに、視界が、反時計まわりに15度ぐらい、せりあがるというものだった。こんなの、いままで、経験したことはない。今回はじめて経験した。まばたきするたびにリセットされるけど、反時計まわりに15度ぐらい回転する。右側が、せりあがるような感じ。
ものすごく、息苦しくて、ぜーぜーいってた。マラソンで、呼吸があがったときよりも、はるかに、くるしい状態で、呼吸をしていた。「これ、なおるのか?」と不安に思っていた。何回も、ゲロをはいた。シンクのところまで、いって、ゲロをはくつもりだったんだけど、床にゲロがこぼれた。シンクのところではいたあと、シンク付近で、座り込み、たてなくなり、しばらくすごしていたけど、座っているのもつらくなり、シンク付近で横になって、そこでも、はいた。なので、髪の毛や頬に、ゲロがついた。痙攣して、動けない状態になり、しばらく、横になっていた。
「きれいな空気を吸いたい」と思って、布団付近までもどることにして、たしょう動けるようになったあと、布団のほうに動いたけど、うまく動けず、とりあえず、中間地点の、この椅子に座った。座ったといっても、うまく動ける状態ではなくて、しばらく、椅子に座っていた。椅子に座るときに、浄水器(ボトル)をおとした。けど、そんなのは、かまってられなかった。救急車を呼ぼうかな」と思ったけど、「ともかく、きれいな空気がすいたい」と思って、布団付近まで戻ることにした。布団の横に、窓があるので、窓を全開にして、横になっていた。煙のにおいがしない、空気を吸いたいという気持だけだった。ともかく、ぜーぜーいって、過呼吸状態になった。
しばらく横になっていると、また、ゲロが口のなかにこみあげてきたので、なんとか、シンクのところまで行って、はこうと思ったのだけど、途中で、ちょっと、床にこぼれた。
そんなことを、3回ぐらい繰り返して最後に横になったとき(布団の上で横になったとき)眠ったようだ。眠れてよかった。
今現在、視野は正常。まばたきしても、視界がずれることがない。「後遺症になったらいやだな」と思ったけど、なんとか、正常な状態にもどった。吐き気は、ほんのちょっとだけあるけど、胃袋のなかにはなにも残ってないと思う。食べる気持ちはない。
ともかく、いちおう、めまいもないし、動ける状態になったので、シンクと床のゲロを処理しなければならない。正直言って、やりたくない。
* * *
もと兄貴の部屋に、ネズミが入った可能性がある。これ、ちょっと説明しにくいのだけど、ともかく、もと兄貴の部屋には、入れない。ダニ関係のことで入れないし、じつは(むかって右側の)ふすまがうまく動かないのだ。ともかく、ふすまの溝のところに、新しいネズミの糞を10個ぐらい発見したので、これを処理しなければならなくなった。蚊取り線香というのは、ネズミとダニの関係で、たかなければならなくなった。階段付近で、蚊取り線香をたいても、こっちには、煙は、ふつうは、とどかない。けど、うちには、いろいろと隙間があるので、室内の引き戸をしめて、階段付近で蚊取り線香をたいても、ガスは、こっちの部屋にも来る。ようするに、煙が見えるような感じではないのだけど、においはする。そのにおいをかいでいたら、上記のような状態になった。においはするけど、煙が、この部屋のなかで見えるような濃度ではないのだ。だから、これはおかしい。まあ、蚊取り線香に火をつけるとき、煙をちょっとは吸った。
ともかく、むかしのからだだったら、こんなことになってないと思う。ぜーぜーいいながら「俺は、むかし、煙に強かった」などと思った。過呼吸なんだけど、どれだけ息を強く吸っても、空気がたりない感じがした。ともかく、においがついてない、きれいな空気を吸いたいと思った。
* * *
親父がつくった内階段ともと兄貴の部屋の位置関係を説明しないと、よくわかってもらえないと思うのだけど……。ネズミの糞は、もと兄貴の部屋の、むかって左側の隙間の部分にあった。もと兄貴の部屋と内階段のあいだに、わずかな隙間がある。この、左側のふすまから、きちがい兄貴の部屋に入ることはできない。ともかく、左側のふすまレール部分と、親父がつくった内階段のあいだに、10センチぐらいの隙間がある。そこに、ネズミの糞が落ちていた。でっ、蚊取り線香を階段付近で、たきながら、ネズミの糞を、(捨てるつもり菜箸)でつまんで、トイレットペーパーを切ったものの上に置くという作業をしていた。このときは、煙を吸っていたけど、まったく異常がなかった。
雑感
このさきどうするか、ほんとうに、まよっている。どうするかな~~。どうすればいいんだ?
まあ、外部環境がどのくらいかわるのかということが、でかいなぁ。個人的には、高くてもいいから、近所の貸家をかりるべきなんだろうな。けど、それだと、カネがかかりすぎる。生活費を圧迫する。だいたい、この後のことが、さっぱりわからない状態なんだよね。
関係ないけど、ネトゲ廃人のYouTube動画を見ていた。医者の子どもで、おカネがある環境なんだよ。でっ、まあ、コメント欄で、社会人?の人がいろいろと言っていたけど、これは、別にいいんじゃないかと思う。ようするに、カネがある状態で、いちおう、熱中できることがあるというのは、しあわせなことなんじゃないかと思う。けど、社会人の人たち?は、まあ、「このさきどうなるかわからないだろ」ということを言うわけだ。まあ、みんな、わからないけどね。
「としをとったとき、どうなるかわからない」……。まあ、ニートやネトゲ廃人の動画のコメント欄には、こういうことが書かれることがある。けど、言っているほうだって「としをとったとき、どうなるかわからない」ということは、成り立っている。おなじだ。わからないよーー。そんなのーー。会社が倒産してしまうかもしれない……。そんなのは、わからない。
* * *
まあ、あれにかかわった医者が……今後、地獄を経験するとは思うけど……。
こころただしき医者は、ほんとうに苦難の時期を経験したと思う。
* * *
まあ、文化の発展ということを考えると、おカネをもうけることができないことに、熱中する人がいるというのは、いいことなんだよ。文化の発展ということを考えればね……。
* * *
「おカネじゃしあわせは買えない」と何回も言う、もと医者の息子で、現医者である人は、まちがったことを言っていると思う。何度も言うけど、「おカネじゃ、しあわせは買えない」と「おカネで、しあわせを買えるとはかぎらない」では、意味がちがう。ところが、本人は 「おカネで、しあわせを買えるとはかぎらない」という意味で「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているのだ。本人が、わかってない。
いっぽう、親のカネで、ネトゲをしている人は、別にそういうことを言ってない。いや、俺の知らないところで言っているのかもしれないけど、すくなくても、動画の中では言ってない。なので、いちおう、親のカネで、ネトゲをしている人は「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言ってないということにしておく。
2024年9月14日土曜日
ともかく、肌をもとどおりにする技術に期待したい。
ともかく、ダニに刺されて、肌がきたくなっているので、それをどうにかしたい。ダニ刺されはなおるけど、うっすらとあとが残ってしまう場合がある。ダニの種類がちがうんだよな。完全に、肌が元通りになるタイプと、肌がもとどおりにはならないタイプがある。あとが、うすっらとだけど、残るタイプがある。
ともかく、肌をもとどおりにする、医療技術が発達してほしい。そして、まあ、ここからのがれたいなぁ。ここいれば刺されることは決まっているからなぁ。
ところで、アパートではなくて、一軒家を借りるということも考えている。シェディングを(なるべく)さけるためにだ。一軒家は、相当に高いかと思ったけど、アパートとたいしてかわらない感じがする。まあ、月に3万円多く出せば、一軒家を借りられないこともないということがわかった。家賃だけで、6万5千円は高いけど、このままダニ生活をしているよりはいいかな。まあ、そこにダニを持ち込まないように、細心の注意を払うよ。
ともかく、肌をもとどおりにする技術に期待したい。
人間が……うっかりミスをする場合
うちのドアは、もうすでに、こわれているので、内側に強く引っ張らないと、ドアがちゃんとしまらない。地方新聞に気をとられて、内側のに強く引っ張らないと、しめたように思っても、ほんとうはしまってない(しまったと言える状態ではない)ということに、気がつかなかったのだ。ドアの内側に立って、普通にドアが閉まった状態になったら、ドアをしめたと思うだろう。ドアをしめたときの明るさになるのだから。つまり、ドア付近の光景としては、ドアをしめた状態なのである。ちなみに、「地方新聞に気をとられて」と書いたけど、シェディングの可能性に気をとられたのである。そりゃ、危険物をそのままの状態でうちなかに置いておくわけにはいかないので、ビニール袋で封印しないといけないと思った。ドアを内側に強く引っ張らないと、ネズミが入ってくる可能性があるということは、そのときは考えなかったのだ。これは、とりもなおさず、ネズミが入ってくるという暗いことを考えなかったということだ。暗いことを考えなかったのに、ネズミが入ってきた。ネズミが入ってくると考えなかったのに、ネズミが入ってくるという暗いことが発生した。暗いことを考えると、暗いことが起こるということは、この例でも否定される。ネズミが入ってくるという暗いことを考えて、ドアを内側に強く引っ張るべきだったのである。そのことについて、考えなかったから、ネズミが入ってきてしまったのである。
「暗いことを考えると、暗いことが起こる」という文は、「暗いことを考えると、100%の確率で暗いことが起こる」という文と、意味的に等価だ。暗いことを考えなければ、暗いことは起きないのである。ところが、人間が……うっかりミスをする場合は、まさに、暗いことが起こる可能性について考えなかったから、ミスをしてしまったのだ。暗いことが起こる可能性について考えず、その可能性について対処しなかったから、暗いことが起こった。このままだと、暗いことが起こるかもしれないと、暗いことが起こる可能性について考えをめぐらさなかったから、あとで、ミスをしたということに気がつくのだ。
* * *
人間がミスをした場合は、過去のある時点で、自分がミスをしたということに気がつかなかったということなのだ。なので、暗いことを考えなくても、暗いことは起こりえる。さらに、自分がミスをしたことに気がついたとしても、「このくらいなら、だいじょうぶだ」と思って、ミスをしたことを無視した場合、それは、「このくらいなら、だいじょうぶだ」と明るい見通しをもったということなのである。けど、あとで、重要なミスだということを指摘された場合、あるいは、重要なミスだということが発覚した場合、明るい見通しをもったのに、暗いことが起こったということになる。ようするに、明るいことを考えたのに、暗いことが起こったのである。
* * *
だいじょうぶだ」と過去の時点で思って、実際にだいじょうぶだったということもある。だから、だいじょうぶだと明るいことを思ったら、実際に、暗いことが起こらなかったということもある。しかし、だいじょうぶだと明るいことを思ったのに、実際に暗いことが起こったという場合もある。なので、「明るいことを思うと、明るいことが起こる」とは言えない。そして、「暗いことを思うと、暗いことが起こる」ということも、言えない。明るいことを思ったのに、暗いことが起こる場合もあるし、暗いことを考えたのに、明るいことが起こる場合もある。どうして、「明るいことを思うと、明るいことが起こり、暗いことを思うと、暗いことが起こる」と言うのか? 自分の経験を考えれば、明るいことを思ったのに、暗いことが起こる場合があるということがわかるだろ。自分の経験を考えれば、暗いことを思ったのに、明るいことが起こる場合があるということがわかるだろ。
100%詐欺をしているということに、いいかげん気がつけ。
「明るいことを思うと、明るいことが起こり、暗いことを思うと、暗いことが起こる」なら、うっかりミスをすることなんてないんだよ。
* * *
自分で味噌汁をつくって食べたら、味付けが濃すぎて、まずかったということがあったとする。その場合、みそ汁をつくっている時点では、味付けが濃すぎるということに、気がついていなかったのである。ミスをしたのに、ミスをしたと気がつかなかった。あとで、実際に食べたとき、味付けが濃すぎたということに、気がついたわけだ。うまい味噌汁をつくったつもりなのに、まずい味噌汁ができあがってしまったのである。気がつかなかったということは、まずい味噌汁をつくっているのではないかという可能性について考えなかったということだ。暗いことが起こる可能性について考えなかった。しかし、暗いことが起こった。味噌汁の味付けに関しては、あとで、修正が可能なときもある。濃すぎたなら、お湯や水で薄めればいい。しかし、このことは、別に「暗いことを考えなかったのに、暗いことが起こった」ということを、否定しているわけではない。すでに、暗いことが起こったあとのことだ。暗いことが起こらなかったわけではない。ある時点で、対処可能だから、対処が可能だと思っただけだ。「明るいことを考えれば明るいことが起こるので、暗いことが起きたとしても、それは関係がない」ということではないのだ。
もちろん、みそ汁の味付けが濃すぎたということは、たいしたことではない。しかし、ミスをしたということに気がつかなかったということは、「暗いことを考えなくても、暗いことが起こる」ということを意味しているのである。大きな事故につながる場合も、ミスをした時点でミスをしたということに気がつかなかったということが多い。もちろん、ミスをした時点のすぐ後の時点で、ミスをしたということに気がつく場合もある。気がついたけど「大きな事故にはつながらない」と明るいことを考えたので、あとあと、大きな事故につながることがある。何度も何度も言うけど、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」ということは、まちがっている。妄想的な信念だ。何度も何度も言うけど、「暗いことを考えれば、暗いことが起こる」ということは、まちがっている。妄想的な信念だ。現実を見て、現実について考えたほうがいいぞ。ミスをした直後に、ミスをしたということに気がついて、ミスをなおすということだって可能な場合がある。ミスをなおすというのは、ミスについて適切な対処をするということだ。対処可能なら、暗いことが起こる可能性について考えて、対処しておいたほうがいい。それこそ、暗いことが起こる回数を少なくしている。暗いことが起こる確率をちいさくしている。
『自分で無意識・100%詐欺の人』……多すぎる。
「だいじょうぶだと思ってやると、失敗することがある」
「たぶんだいじょうぶだろう」「このくらいだいじょうだろう」……そんなことを思ってやると、失敗することがある。これは、やはり、「明るいことを思うと明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということを否定している。
手首を見て、きれいだなと思って、あのタオルはきたないタオルじゃないから、袋をもっている手が接触しないタオルのダニにやられることはないだろうと思ってやったら、刺されまくった。しかも、なぜか、右足まで刺された。たぶん、ダニが落ちたのだと思う。
「明るいことを思うと明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と言っている人だって、ほんとうは、あまい見通しでやったら、いたい目を見たということがあったはずだ。経験としてあったはずだ。けど、それは、無視しているのである。100%詐欺をするな。『自分で無意識・100%詐欺の人』……多すぎる。
* * *
もちろん、「たぶんだいじょうぶだろう」「このくらいだいじょうだろう」と思ってやったら、だいじょうぶだったということは、ある。別にそういうことがあるということは否定しない。けど、「明るいことを思うと明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というのは、これまた100%の話なのだ。「明るいことを思うと、100%の確率で、明るいことが起こる」という文と「明るいことを思うと明るいことが起こる」という文は、意味的に等価。「暗いことを思うと、100%の確率で、暗いことが起こる」という文と「暗いことを思うと暗いことが起こる」という文は、意味的に等価なんだよ。
しかも、このままだと、暗いことが起こる確率が非常に高いときに、「このままだと暗いことが起こる」と注意喚起している人を、暗い人だと考えて、攻撃をするなんてことはあってはならない。そうやって、口を封じようとするということが、どれだけ、暗いことが起こることに貢献しているのか、わからないのか?
2024年9月13日金曜日
2024年9月12日木曜日
「しあわせ体験」をカネで買っているんでしょ
「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているAさんは、おカネで、しあわせをかえる場合があるということを認めていない。
けど、本人は、そういうことを認めていないのだけど、子どもをスキーに連れて行って、子どもとしあわせな時間をすごしたことについては、まったく考えてないのである。
子どもとしあわせな時間をすごすための費用(おカネ)についてまったく考えてない。
「けっきょく、カネがかかってんじゃないか~~」と言いたくなる。
ところが、こういうことをAさんに言うと、「そういうこともあるかもしれないけど、おカネじゃ、しあわせは買えない」と言う。
いや、あるかもしれないのではなくて、あるんだよ。
自分はカネで、子どもとのしあわせな時間をつくっているのに、あたかも、その幸せな時間と、おカネが関係がないようなことを言う。
この人は、めぐまれすぎて、「ない場合」のことが、ほんとうにわかってない。「ない場合」というのは、「おカネがない場合」のことね。Aさんの頭のなかで、おカネがない状態というのが、想像できないのである。リアルな状態を想像できない。
なんか、童話のなかで聞いたような「おカネのない状態」や、ニュースで見た「おカネがない状態」しか、思い浮かばないのである。
だから、本当は、たっぷりあるおカネで、自分が、常日頃(つねひごろ)から、しあわせを買っているのに、それに気がつかない。
ネズミが出ない家に住んでいる。ダニに毎日やられてない。それだって、おカネがあるかできることだ。おカネがなかったら、そういう状態から抜け出せなくなる。
もっとも、おカネがあっても、ぬけだけない場合もあるんだけど、それはまた、別の話だ。
ほんとうは、常日頃(つねひごろ)から、「おカネ」でしあわせな時間を買っている……。
これに、Aさん本人が気がついてないのである。
妻や子どもとのしあわせな時間ということを考えた場合、妻や子どもに、意識が集中してしまって、妻や子どもとのしあわせな時間に「おカネがかかっている」ということは、ガン無視してしまう。
はっきり言えば、しあわせな時間を維持するのに、おカネがかかっているのだけど、Aさんは「おカネがかかっているという事実」を無視している。そして「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言い続ける。
ちなみに、こういう人……Aさんに、こういうことを言うと、「おカネがなくても、妻や子どもと、しあわせな時間をすごすことは、可能だ」ということを言いだすのだ。
けど、本人は、おカネをたっぷりもっている。
結婚にだって、おカネがかかっているはずだ。子どもの生活にだって、おカネがかかっているはずだ。
そして、そういうさまざまな費用を、ほんとうに、まったく問題なく、負担できる人なのだ。Aさんはおカネをたっぷりもっているので、そういうさまざまな費用を問題なく、負担できる。それは、おカネをたっぷりもっているからだ。おカネで、妻や子どもとのしあわせな時間をつくっているのである。そういう人が、「おカネじゃ、しあわせは買えない」「おカネじゃ、しあわせは買えない」と何回も何回も主張する。
はっきり言って、おカネがない人は、しらけてしまう。
おカネもなく、妻もいないし、子どももいない人が、「おカネじゃ、しあわせは買えない」という言葉を聞いてどう思うか?
しあわせの要素をすべて持っている人が「おカネじゃ、しあわせは買えない」と主張する。全部、もっている人だ。特に、おカネに関しては、おカネもちと言えるほど、おカネをもっている。Aさんの場合、子どものときから、おカネもちなのである。
子どものころ、おカネをもっているのか、おカネをもってないのかというのは、その後人生に影響をあたえる。たとえば、医者の子どもは、おカネもちだから、自身(子どものほう)も医学部に行ける。親がおカネもちというのは、医学部進学という点において、有利なのだ。
もちろん、親が金持ちでも、本人が医学部に進学を希望していても、医学部に進学できない場合も、少しはある。
けど、おカネがなくて、医学部に進学できない人よりも、おカネがある人は、有利なのだ。だから、おカネがあるかどうかは、医学部進学に影響をあたえる。プラスの影響だ。
ところが、医者の子どもであるAさんが、「おカネとしあわせは関係がない」と言うのだ。自分が、医学部に進学するとき、おカネをもっていたということが、どれだけ有利なことなのか、まったく自覚がない。
医学部進学が、その人にとって「しあわせ感」をもたらすことだとする。おカネがあるということは、医学部進学というしあわせ感をもたらすものに、プラスの影響がある。
おカネがあるのに、医学部に進学できなかった人がいるとする。なら、おカネは、医学部進学に関係がないことなのか?
ちがう。関係はある。
「例外がいるから関係がない」と言う人は、勘違いをしているのである。
それぞれ、例外がいるので、「……は可能だ」「……がなくてもできる」と言える状態になる。だから(関係がないということが)あっているような感じがしているだけだ。
おカネと医学部進学は関係があり、おカネがあるほうが、進学しやすいのである。
ちゃんと、関係がある。
けど、おカネがなくても、医学部に進学した人がいるので、おカネがなくても医学部に進学はできると、関係性を否定する発言をする人がいる。
けど、「おカネがあるほうが……進学しやすい」ということは、かわりがないのである。
* * *
例外を考えなければ、おカネがある人という集合のなかに、医学部に進学する人という集合があるのである。医学部に進学する人という集合のなかに、おカネがある人という集合があるわけではない。おカネがあるということは、医学部に進学するときの(基本的な条件)になるものなのである。基本的な条件を満たした人が、医学部に進学できるのである。
しかし、奨学金でもなんでもいいけど、例外があるとする。例外は、例外だ。例外となるものは、一般的な傾向とは、ちがう傾向をもっているということだ。
例外を考えなければ、おカネがあるということは、医学部に進学するときの(基本的な条件)なのである。
Aさんは、自分がおカネをもっていたので、「おカネは関係がない」「おカネでは、医学部進学は買えない」「おカネがあるということと、医学部に進学することでえる幸福感は関係がない」「おカネがあるということと、医学部に進学することでえたしあわせな生活は関係がない」と言っているだけなのである。
* * *
たっぷりカネをもっているということを利用して、さまざまな「しあわせ体験」をしているのに、口を開けば「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているやつって、なんなんだ?
「しあわせ体験」をカネで買っているんでしょ。
自分がどれだけ恵まれた状態で生きているのか、ぜんぜんわかってないなぁ。平均よりずっとおカネもちのうちに生まれたということも、まったくわかってない。カネがあるという優位さを最大限に利用して、さまざまな「しあわせ体験」を買ってきたのに、まったく、わかってない。
ほんとーーに、このさき、どうなるんだ?
ほんとーーに、このさき、どうなるんだ?
かゆいのは、たしかだ。それから、眠たいのに眠れない状態だと、状態そのものが長期騒音時代の状態だから、長期騒音のことを思い出して、不愉快な気持になる。はっきり言って、めちゃくちゃ腹がたつ。で、ぼくの人生というのは、いったいなんだったんだろうと思うわけ。
まあ、このさき、世界は大きくかわるよ。鈍感な人たちの感覚が、わからない。どうして、そこまで、鈍感になれるんだ? こんなの、簡単にわかると思うけどなぁ。
もう、つかれたなぁ。寝るーー。
もう、つかれたなぁ。寝るーー。
ゴミを出してきた。
ものがくさりやすい。あたためるというか、100度ぐらいにすれば、もつかなぁーーと思ったけど、眠って、起きたら、くさってた。わかめと肉のスープをつくったんだよ。一回目は、ちゃんと食べた。頻繁に、熱をくわえれば大丈夫かなと思ったけど、そうではなかった。この夏、早く終われ。暑い日が長すぎる。暑い日なら、夏。暦の上でなんだろうが、暑ければ、夏。
* * *
もう、すべてがめんどうくさいのだけど、引っ越したい。ここは、解体するから、特にきれいにしなくてもいいんじゃないかと思う。けど、引っ越しのときに作業員が刺されるかな?
ダニに刺された
じつは、腕と足を、せーーだいに、ダニに刺された。腕だけで40カ所ぐらい、足だけで30カ所ぐらい刺された。腕は両腕を刺された。足は、なぜか、右足だけ刺された。腕は、片腕20カ所ぐらいかな。じつは、いま刺されたわけじゃなくて、このあいだ刺された。これ、じつは、作業員のことを考えて、下の部屋に置いてあったタオルをビニール袋で、封印しようとしたことがはじまりなのだ。封印しようなどと考えないで、そのまま、そーーーーっと、市のゴミ袋の下のほうに入れて、うえから、フタをするように、いろいろと入れればよかった。じつは、この作業をやるまえに、長袖手袋をしていたのだけど、どうしても、じゃまになってとったのだ。ともかく、夏は、しんどい。これも、秋冬であれば、長袖のトレーナーの上に、上レインコートを着て、やれるんだよなぁ。レインコートの袖の上にきつめの使い捨て手袋をすれば、手首の長さのやつでもだいじょうぶだ。長袖手袋のサイズがひとつのサイズしかなくて、めちゃくちゃにでかいのである。でっ、これが、いやなんだよ。そして、暑いから、手袋のなかがむれる。ともかく、まあ、「長いゴミばさみを使って、入れれば、だいじょうぶだろう」とあまく見たのが失敗だった。ゴミばさみは使ったのだけど、ビニール袋が案外小さくて、うまく入れるのに手間がかかった。で、その作業の前日にも、じつは、両腕をダニに刺されているのだ。これも、片付けようとしてやられた。いじらなければ、ほとんど刺されないのだけど、いつまでもいつまでも、おなじところに置いておくのは問題があると思って、いじると、やられるんだよね。ともかく、寒くなるのをまつかな?
「そんなにいるはずがない」とあまく見たのが失敗だった。見た目は、すごーくきれいなタオルだからね。
「おカネがないから、しあわせとはかぎらない」
「おカネがないから、しあわせとはかぎらない」と言われる機会よりも、おカネがあるからしあわせとはかぎらない」と言われる機会のほうが多いと、個人的には思う。ぼくの経験の範囲では、そうだ。
なので、「おカネがないから、しあわせとはかぎらない」と言われる機会よりも、おカネがあるからしあわせとはかぎらない」と言われる機会のほうが多いという前提で、このことについて考えてみることにする。
どうして、「おカネがないから、しあわせとはかぎらない」と言われる機会が少ないのか?
それは、人々の頭のなかで、おカネがないという状態が、ふしあわせな状態と結びついているからだ。「おカネがなくても、ふしあわせとはかぎらない」という言葉のほうが、通りがいいだろう。
これは、人々がおカネがある状態と、しあわせな状態に強い結びつきがあると考えているから起こることだ。ようするに、「おカネがあるほうが、しあわせなんじゃない」と考えているから、そのような発想をする。
例外的に、おカネがあっても、しあわせではない人がいる。
おカネ自体が、しあわせを運んでくるわけではない。これは、「おカネ自体が、しあわせをかならず運んでくるわけではない」という意味だ。「かならず」という言葉が入っていなくても、意味的には「かならず」という言葉が入っている場合とおなじになる。
おカネ自体が、しあわせを運んでくることのほうが多いのである。
それは、おカネがあると、可能になることが多いからだ。
おカネがあれば、自分がやりたいことが、可能な状態になるとする。
たとえば、おカネがあれば、医学部に進学するということが可能な状態になる。
もちろん、おカネは進学のためのひとつの要素なので、ほかの要素の影響をうけて、医学部に進学できないかもしれない。けど、おカネがない状態だと、医学部に進学できないのであれば、おカネがある状態というのは、おカネがない状態よりも有利な状態なのである。
つまり、おカネがあるということ自体が、しあわせになる確率をあげるのである。
参入できるかどうかということが、おカネのあるなしで決まるとする。おカネがあれば参入できる。おカネがなければ参入できない。
おカネがあれば、参入できるのだから、参入したあとしあわせをえやすくなる。おカネがなくて、参入できないのであれば、参入できないのだから、そのあとのしあわせは、その時点でえられないということが決まってしまう。参入できないのだから、参入したあとにあるかもしれないしあわせの可能性はなくなってしまう。
2024年9月11日水曜日
「足が長いからといって、しあわせとはかぎらない」
それから、 第1要素のおカネ、第2要素の妻、第3要素の子ども、第4要素の仕事、第5要素の友人という要素を考えた場合、「Xがあっても、しあわせとはかぎらない」とは言える。
これは、なにも、「おカネ」だけではないのである。
「おカネがあっても、しあわせとはかぎらない」とだけ言われることが多いのだけど、それは、なにかしあわせにかかわる要素すべてに言えることなのだ。「あっても」が「いても」とか「もっていても」とか「していても」とかわる場合もあるけど、意味はおなじだ。
たとえば、「妻がいても、しあわせとはかぎらない」「子どもがいても、しあわせとはかぎらない」「仕事をしていても、しあわせとはかぎらない」「友人がいても、しあわせとはかぎらない」「いろいろなものをもっていても、しあわせとはかぎらない」というようなことが、言える。
「Xがあるから、しあわせとはかぎらない」という表現は、たいていの場合において成り立つ。「Xをもっているから、しあわせとはかぎらない」という表現もおなじである。「Xだからといって、しあわせとはかぎらない」という表現もおなじである。
たとえば、「手が大きいからといって、しあわせとはかぎらない」「腕が長いからといって、しあわせとは、かぎらない」「足が短いからといって、しあわせとはかぎらない」「顔がでかいからといって、しあわせとは、かぎらない」……などなど。
これらの文は、文としては正しい。「おカネがあるからといって、しあわせとはかぎらない」……文としては正しいと言えるだろう。しかし、その正しさは、ほかの要素……しあわせとなんとなく関係がありそうなほかの要素にも、成り立つ正しさなのである。
まあ、足の短さよりも、「おカネ」のほうが「しあわせ」と関係がありそうだからこそ、「おカネがあるからといって、しあわせとはかぎらない」と言われる機会のほうが、「足が短いからといって、しあわせとはかぎらない」と言われる機会よりも多い。
「足が長いからといって、しあわせとはかぎらない」と言ったほうがよかったかな。
「おカネじゃ、しあわせは買えない」「だから、おカネとしあわせは関係がない」
「おカネじゃ、しあわせは買えない」「だから、おカネとしあわせは関係がない」と言えるかどうかというと、言えない。 「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言ってしまっているのだから、おカネとしあわせは関係があると言っているのとおなじだ。 「おカネじゃ、しあわせは買えない」というのは、おカネと、しあわせに関係があると言っていることになる。おカネとしあわせの関係について 「おカネじゃ、しあわせは買えない」と述べているのである。ぜんぜんわかってない。 「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っている時点で、おカネとしあわせのあいだには、関係性があると言っているのである。どうして、「だから、おカネとしあわせは関係がない」ということになるのか? 関係性についてのべているのに、関係がないとは、なにごとか?
おカネじゃ、しあわせは買えないというのは、おカネでは、絶対にしあわせは買えないということだから、おカネとしあわせの「絶対的な関係性」についてのべている。
「おカネじゃ、しあわせは買えない」と「おカネでしあわせを買えるとはかぎらない」
「おカネがあれば、しあわせになれる」というのは、無自覚な『100%詐欺』が成り立っていて、「おカネがあれば、100%の確率で、しあわせになれる」ということを言っているのである。
すべてのおカネがある状態において、人は、かならず、しあわせになれるということを言っているのである。
けど、実際にはそんなことはない。
おカネは、しあわせを構成するかもしれない重要な要素だけど、おカネがあれば、かならず、しあわせになれるとはかぎらないのだ。
だから、100%の関係は成り立っていない。
なので、「おカネがあればしあわせになれるとはかぎらない」ということが言える。あるいは、「おカネがあれば、しあわせだとはかぎらない」ということが言える。
しかし、おカネだけではなくて、しあわせに関係がありそうな要素すべてにこのことは言える。
たとえば、健康だ。「健康だから、しあわせとはかぎらない」と言える。たとえば、恋人だ。「恋人がいるから、しあわせとはかぎない」ということが言える。たとえば、仕事だ。「仕事をしているから、しあわせだとはかぎらない」ということが言える。
むしろ、ひとつの要素だけを取り上げて、その要素が満たされていれば、しあわせなのだと考えること自体がおかしい。
しかし、たとえば、「おカネがあれば、しあわせだとはかぎらない」と言う人がいたとする。Aさんだする。
ほかの人は「おカネがあればしあわせだと考えている」とAさんは、考えて、そのような発言をするのだ。ほかの人というのは、かなりの多数者なのである。Aさんの頭のなかの設定では、かなりの多数者なのである。
だから、あえて、「おカネがあれば、しあわせだとはかぎらない」ということを言わなければならなくなる。あるいは、言ってみたくなる。
自分ではない「ほかの人」は「おカネがあれば、しあわせだ」と考えているけど、自分は「おカネがあれば、しあわせだとはかぎらない」と考えているということを言いたくなる。
「おカネがあれば、しあわせだおカネが、しあわせを保証するとはかぎらない」ということもおなじで、ほかの人が「おカネが、しあわせを保証すると考えている」と、Aさんが考えているから、Aさんが、そのように言うのである。
また、「おカネじゃ、しあわせは買えない」という場合も、ほかの人が「おカネでしあわせを買える」と考えていると、Aさんが考えているので、ほかの人に対して、そのような発言をするのである。
* * *
おカネでしあわせが買える場合もあるのである。しかし、おカネでしあわせが買えない場合もあるのである。100%じゃない。「おカネでしあわせを買える」というのは、これまた、100%詐欺が成り立っていて、「100%の確率で、おカネでしあわせが買える」ということを言っていることになるのである。
ようするに、「おカネでしあわせをかえる」という文は、「100%の確率で、おカネでしあわせが買える」という文と意味的に等価なのである。
「100%の確率で、おカネでしあわせが買える」という文は、「おカネでしあわせが買えない場合がない」ということも言っているのだ。そして、おなじように「おカネでしあわせを買える」という文も、おカネでしあわせが買えない場合がないということを言っているのだ。
なので、「おカネでしあわせを買えるとはかぎらない」という文が、とりあえずの、正解になる。「おカネでしあわせを買えるとはかぎらない」という文の意味を考えると、「おカネでしあわせを買える場合もある」ということになるのである。
100%じゃない。
「おカネじゃ、しあわせは買えない」という文の場合もおなじで、ほんとうは、Aさんは「おカネじゃ、しあわせを買えるとはかぎらない」と言うべきなのだ。
ところが、Aさんは「おカネじゃ、しあわせを買えるとはかぎらない」という意味で「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているのだ。Aさんが、誤解をしている。
「おカネじゃ、しあわせは買えない」という文と「おカネじゃ、しあわせを買えるとはかぎらない」という文は、意味的に等価じゃない。
ところが、等価だと思って、Aさんは「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているのである。自分で自分が言っていることの意味が、わかってない。
2024年9月10日火曜日
「マイナス(不幸感増大)」「ゼロ地点(幸福でも、不幸でもない状態)」「プラス(幸福感増大)」ということを考えてみよう
たとえば、夏の暑い日、エアコンの冷房をつけられる人と、つけられない人がいるとする。その場合、エアコンの冷房をつけられる人は、おカネで、「清涼感」を買ったということになる。
エアコンの冷房をつけられない人は、おカネがないので、「清涼感」を買えないのである。
清涼感と書いたけど、これは、「快」だ。そして、おカネで、清涼感を買えない状態は、「不快」な状態なのである。
もし、おカネを使うことで、「すずしい状態」を買うことができ、すずしい状態が「快」をもたらすのであれば、おカネを使うことで、「快」をえたということには、ならないだろうか?
なると思う。
そして、不快な状態が続くと、からだに悪い影響が出るので、からだに悪い影響が出ないようにしたということになる。ようするに、おカネで、からだに悪い影響が出ないようにしたのである。
いっぽう、たとえば、おカネがなくて、エアコンを設置できない人は、「すずしい状態」を買うことができず、すずしい状態を買うことができる人よりも、体調が悪くなる確率があがるのである。あるいは、熱中症になる確率があがるのである。
おカネで「不快」な状態になることをさけた。
これは、おカネで「幸福」を買ったのとおなじではないか?
おカネを使って、体調が悪くなる状態をさけたのであれば、おカネを使って「体調を良好な状態にたもつ可能性」を買ったのではないか。
もちろん、エアコンをつけていたって、体調が悪くなることはあるので、ひとつの体調が悪くなる原因をつぶしただけなのだけど、それでも、暑いと感じて体調が悪くなっているのにもかかわらず、それをさけることができない状態よりも、よりよい状態なのである。
ようするに、不調になる確率をさげたのである。
熱によって不調になるということを考えれば、相対的に、「しあわせである状態」を買ったのだ。あくまでも、相対的なことだ。熱ではないほかの理由で、体調が悪くなることはあるので、あくまでも、熱に限った話だ。
それでも、不安な要素をひとつ消したということは、不安な要素がある状態よりも、安心感がある状態なのである。
おカネを使って、安心感を買ったのである。
* * *
おカネによって、不快な状態になることをさけられるのであれば、相対的には、おカネで、幸福感を買ったということになる。
「マイナス(不幸感増大)」「ゼロ地点(幸福でも、不幸でもない状態)」「プラス(幸福感増大)」ということを考えてみよう。
暑い部屋のなかで、暑さに耐えて生きることは、マイナスだ。
まず、からだがしんどい。気分が悪い。ともかく、不快だ。それを、エアコンの設置と、エアコンの運用によって、さけることができたのであれば、ゼロ地点にもどっただけなのだけど、相対的には、プラスなのだ。
おカネがなくて、エアコンを設置できずに、暑さのなかでくるしんでいるよりも、エアコンを設置して、エアコンを運用して、暑さという問題を解消できた状態は、プラス状態なのだ。
これは、不幸になるということをさけたという意味で、相対的に幸福なのだと言っていい。
カネがなくてそもそもエアコンを設置できないということを書いたけど、エアコンはあるけど、電気代を気にして、なるべく、エアコンを運用しないようにする場合も、おなじである。
電気代を気にして、エアコンをつけられないのであれば、それは、相対的にマイナスなのである。不快な状態なのである。一般的には、不快な状態が長く続くと、病気になりやすくなる。病気になると、幸福を感じる機会が減り、不幸を感じる機会が増える。
電気代というのは、おカネではないか。おカネで、不快な状態をさけたのである。これは、おカネが、幸福感に影響をあたえるということだ。
たとえば、頭がおかしい上司のもとで働いているとする。とても、ストレスフルな状態だ。不愉快な状態でいる時間が長くなる。不愉快な出来事が発生する機会が増える。
生活のためにお金をかせがなければならないから、なかなか、仕事をやめられずにこまっているとする。
おカネがあれば、仕事をやめられるとする。
Cさんは、おカネがあったので、頭がおかしい上司がいる職場で働くことをやめて、リタイアしたとする。Dさんは、おカネがないので、頭がおかしい上司がいる職場をさることができないとする。
その場合、Cさんは、おカネで、相対的なマイナスを解消したのである。
これは、ゼロ地点にもどっただけだけど、おカネによって、不幸な状態から離脱することができたのだから、おカネで相対的な幸福感を買ったということになる。
マイナスからゼロ地点にもどっただけで、ゼロ地点は、特に幸福であるわけではないけど、マイナスからゼロ地点にもどっただけでも、幸福感がしょうじるのである。
なので、おカネがあるということは、幸福感に影響をあたえる。
Dさんにくらべれば、Cさんは、幸福なのである。
ただし、頭がおかしい上司のもとで働くというマイナスをさけられたという意味で、幸福だと言っているだけだ。ほかのことでは、DさんのほうがCさんよりも、幸福かもしれないのである。
しかし、Cさんは、おカネで、いやな思いをすることをさけることができたので、その点においては、おカネで、相対的な幸福感を買ったということになる。
* * *
まあ、一時的な幸福感と、幸福は、ちょっとちがう。幸福感を感じることが多く、不幸感を感じることが少ないか、あるいは、不幸感を感じることがない状態で暮らすことができれば、幸福だということにする。
快と幸福感については、人によってちがうと思う。快と幸福感をおなじ意味の言葉としてとらえている人もいるかとは、思うし、快と幸福感をちがう意味の言葉としてとらえている人もいると思う。基本的には、幸福へと向かう予感がある快を幸福感と言っているのではないかと、思う。幸福へと向かう予感がある快を幸福感だととらえている人は、不幸へと向かう予感がある快は、幸福感ではないととらえているので、快と幸福感の内容は一致しない。
2024年9月9日月曜日
現実というゲームがどうしてつらいのかというと、条件が悪いからだ
現実というゲームがどうしてつらいのかというと、条件が悪いからだ。
だから、条件がいい人は、現実というゲームが楽しいということになる。
現実というのは、案外システムに依存しているところがある。
「みんながそう思っているからそうする」という部分がある。「目下のものは、目上のものの、言うことをきくべきだ」ということが暗黙のルールになっているのであれば、その、暗黙のルールを守らないとペナルティーをかされるので、暗黙のルールに従わかなければならなくなる。
けど、目上のものが、いい人なら、それでいいけど、目上のものが、悪い人だと、目下のものは、おもしろくない気分になる。これは、決まっている。
ゲーム内のルールが、現実の「不愉快な感じ」を引き起こす。
条件が悪い人は、いろいろと、不愉快な思いをするようになっているのだ。条件が悪い人は、さまざまな場所で、不愉快な思いをするように、ルールが決まっている。
そういうルールが決まっているゲームなので、条件が悪い人にとっては、「やりたくない」ゲームなのだ。
* * *
「目上のものが、よくないものであったばあいは、そこをやめて、目上のものが、よいところに行けばいい」と思う人がいるかもしれない。
けど、この例は、ただの例だ。条件というのは、無数にあるのである。どれを条件とみなすかで、話がぜんぜんちがってくる。いいうちに生まれたかどうかということも、条件のひとつだ。
けど、この条件は、さまざまな、下位の条件を含んでいるのである。ひとつの条件としてカウントされているものが、ほんとうに、ひとつの条件なのかということは、考えなければならないポイントだ。
職場と生まれの家。
上のものがダメだった場合、どっちのほうが、のがれやすいか?
職場のほうが、のがれやすい。
「自分が動いて目上のものがよいところをさがせばよい」と条件に鈍感な人は言うけど、……生まれの家に悪い「目上のもの」がいる場合は、なかなか、かえることができないというとになるのである。
だから、ゲームの条件が悪いなら、悪い条件をいい条件にかえればいいということは、アドバイスにならない。その悪い条件は、かえられるのかどうかということが問題になる。
* * *
「自分が動いて目上のものがよいところをさがせばよい」というようなお気楽な発言は、しばし、条件が悪い人のこころを傷つける。
こういう発言をする人は、条件のかえやすさ、条件のかえにくさという、条件を無視してしまっているのである。
あるいは、条件の重要性を無視してしまっている。
条件が、どのくらい、「その条件下の人」に影響をあたえるのかということの評価がまちがっているのである。まちがっているから、お気楽な発言ができる。
* * *
難民がきて、治安が悪くなった……とする。お気楽な人は「だったら、安全なところ引っ越せばいい」とアドバイスをする。けど、そのアドバイスは、さまざまな条件を無視したものなのである。そりゃ、おカネがなくて、引っ越せない人だっているだろ。
「おカネを使う行為全体」
「おカネじゃ、しあわせは買えない」というのは、おカネがなにに使われるのか、なにも言及してないという意味で、抽象度が高いのである。
けど、これが、発言者は、おカネがあるのに、不幸な状態を想定して、そういう感想?を述べているわけで、発言の者の頭のなかには、おカネがなにに使われているのかということについて、わりと、具体的で限定的なイメージがあるのである。
そして、抽象度が高いので「おカネじゃ、しあわせは買えない」ということを否定するときに、なんとなく、へんな感じがするのだ。ようするに、内容を限定して言ってくれれば、「そうですよね」ですむのだけど、内容を限定せず「おカネを使うなにか」ということになってしまっているので、否定しにくいのである。
ようするに、具体的な内容が想定されていない、たんなる「おカネ」というのもについて、言及されているために、否定をするとなると、全体的な否定しかできなくなってしまうのである。
全体的な否定というのは、ようするに、抽象度が高い「おカネを使う行為全体」ということについて、否定するしかないというような状態になってしまう。
ようするに、否定するなら……おカネを使う行為全体が、しあわせをもたらさないということになってしまうのである。
否定するなら、……「おカネで、しあわせは買える」というような内容になってしまうのである。
しかし、しあわせは、おカネでは買えないこともある。だから、そこで、問題になっている具体的な内容が、はっきりしないまま、「全体的な否定」しかできない状態になってしまう。最初の発言者が「おカネじゃ、しあわせは買えない」ということを言うので、否定する場合も、全体的な否定になってしまうのである。
もともと、「おカネじゃ、しあわせは買えない」と発言をしている人の頭のなかには「破滅的なおカネの使い方」の具体的なイメージがあるのである。ようするに、具体的な内容が、頭のなかにある。
けど、それは、語られないのである。
もちろん、ひとつ、ふたつの例としては、語られるかもしれないけど、それは、いかにも、しあわせそうじゃないおカネの使い方の例なのである。
たとえば、『紀州のドン・ファン』事件。おカネがたっぷりあったけど、人間関係には恵まれず、妻に殺されてしまう。そういうところを想定して、そういうおカネの使い方を想定して、「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているのである。
紀州のドン・ファンに関する限り、「たしかに、おカネじゃしあわせは買えないよね」と肯定してあげてもいい。
けど、それは、おカネを使う行為全体について、おカネを使う行為全体が、しあわせとは関係がないと言っているわけではないのである。
問題なのは、問題のあるかねもちが脳内で想定されているにもかかわらず、それが、「おカネがあれば、しあわせとは限らない」というように「おカネ」の問題になっているところなのである。一般化するべきではないところで、特殊な例を一般化してしまっている。そして、特殊な例を一般化したということについて、特に言及しないところが問題なのである。
2024年9月8日日曜日
「……みぎもひだりも、ボロボロ」
「 ワクチン接種!みぎ!ひだり!」「……みぎもひだりも、ボロボロ」「いいことナッシング」
ほんとうに、ひどい人たちにかこまれた人生だったなぁ。まあ、ちらほら、例外的にいい人たちがいる。この人たちは、こころがきれいだ。
「おカネを使って、Xをすれば、幸福になる」
おカネを使ってなにをするのかということが、重要だ。しかし、「おカネじゃ、しあわせは買えない」とか「おカネでは、幸福は買えない」と言う場合は、おカネを使ってなにをするのかということが、欠落しているのである。無視されているのである。
「おカネでは、幸福は買えない」とAさんが言うときの、Aさんの頭のなかにある、おカネを使ってやる行為はなんなのかということが、問題になる。
Aさんの頭のなかにあるのは、高級な飲み屋で1日で100万円使うようなことなのである。それならば、一時的な快楽は得られるかもしれないけど、幸福は得られない。
この一時的な快楽を幸福感というのであれば、幸福感なのである。
しかし、その幸福感をえるためにやることが、破滅的な行為である場合は、幸福にはならないのである。
たとえば、覚せい剤で一時期的に幸福感をえられる人がいるとする。これも、別に、覚せい剤で、一時的な幸福感をえられない人もいるわけだから、人によってちがうということになるのだけど、とりあえず、覚せい剤で一時的に幸福感をえる人がいたとする。
この人は、継続的に覚せい剤を打ち続ければ、やがて、不幸になることが目に見えている。
どうしてかというと、覚せい剤の継続的摂取が、脳みそに「破滅的な」影響をあたえるからだ。なので、「おカネでは、幸福は買えない」と言うときの、実際の行為が問題になる。
ようするに、「おカネでは、幸福は買えない」と言うときの、おカネでやる実際の行為は、幸福になれるかどうかに影響をあたえるのだから、捨象するべきではない。
「おカネでは」ということになっているので、文としては、なかなか説明しにくい部分があるのだけど、おカネでやる行為を問題にしてないということは、よくないことなのである。
「おカネでやる行為」というのは、抽象化しすぎなのである。おカネで、幸福は買えないと言うけど、そのおカネでなにをするのかということは、決定的に重要だ。
なので、おカネでやる行為というものを抽象的に考えてはいけないのである。
そりゃ、子どもをスキーに連れて行ってやることだって、子どもに栄養がある食事を提供することだって、本人が覚せい剤を打つことだって、子どもに覚せい剤を打つことだって、おカネがかかることであるから、おカネを使ってやることなのである。
「おカネで、幸福になるとはかぎらない」と言った場合、じゃあ、おカネでなにをするのかという部分が、欠落しているのはよくないことなのである。
「おカネを使って、Xをすれば、幸福になる」と言った場合、Xの部分が、重要なのである。
「Xはなんでもいいけど、ともかく、お金を使ってXをすれば、幸福になる」と言ったって、それでは意味がない。Xの意味内容を特定できないので、話にならない。
「なにかそれ」では、抽象度が高すぎて、最初から、話にならないのだ。
おなじように、「おカネを使って、Xをしても、幸福になるとは限らない」ということも、Xという行為がいったいなんなのかわからないままなのであれば、話にならないのである。
「おカネを使ってXをする」ということを、「おカネで」と言いかえた場合もおなじだ。
「おカネで、幸福になるとはかぎらない」……抽象度が高すぎて、実際にはなにを言っているか、特定することができない。
「おカネを使って、なにかをすることで、幸福になる」「おカネを使って、なにかをすることで、幸福になるとはかぎらない」……。どっちも、抽象度が高すぎて、それらの文言が正しいのかどうか、議論をすることさえできない。
2024年9月7日土曜日
うーーー
「しかし、つかれたなぁ」と感じる。じつは、ネズミが入った形跡がある。これ、2日前からおかしいと思っていたのだけど、入っていると想定して行動しなければならなくなった。ゴミの日に、地域新聞のことで、いろいろとあって、ドアをしめたのだけど、よくしめなかった感じかある。これが、ドアがまた、問題があるドアで、しっかりしめたつもりでも、ときどき風であいてしまうのだ。でっ、鍵をかければ、当然、かっちりとしまるのだけど、地域新聞のことで頭がいっぱいになり、カギをきっちりとかけないまま、眠ってしまった日が、あった。その日、起きたあと、ドアがあいていたことに気がついて、「これはやばい」と思ってすぐにしめた。でっ、見たところ、入った感じがなかったので、「だいじょうぶだろう」と思ったのだ。蚊取り線香のにおいは、もう、だいぶまえに、きれていて、部屋中に蚊取り線香のにおいをつけておくと、いちおうの防御にはなる。けど、蚊取り線香の煙が、ぼくにも、影響をあたえるので、蚊取り線香はやめることにした。ともかく、ネズミが入った疑いがある。もう、いやだなぁ。あーー。また、ふりだしかぁ。
ともかく、つかれた。あとは、まあ、シェディング防御のことはあきらめて、近くにアパートを借りるか、あるいは、引っ越し先を買うしかないなぁ。
むかしは、うちのドアも、ちゃんと、しまるドアだったんだよ。けど、しまったように見えても、じつはしまってないことがあるドアになってしまった。これ、別にカギをかけなくても、普通にしめれば、しまった状態になるドアだったんだけど、いまはちがう。これもかえたかったのだけど、じつは、もう、そういうドアが売ってないので、かえることができなかったのだ。ぐいっと、ひっぱらないと、風であく可能性があるドアなんだよね。むかしは、普通にしめれば、普通にしまって、風であいてしまうなんてことはなかった。
おカネ以外のたいせつなものに、おカネが影響をあたえているということも無視してしまっている
「おカネで、しあわせは買えない」と言っている人は、自分がおカネもちだということを無視して、なおかつ、おカネ以外のたいせつなものに、おカネが影響をあたえているということも無視してしまっている。
おカネがあるうちに生まれて、医学部に通い、医者になった男性がいるとする。この人は、おカネがたっぷりあるわけだ。それは、小さいときもおカネがたっぷりある生活をしていたし、いまも、おカネがたっぷりある生活をしているということだ。
幸福の要素として、(1)おカネ、(2)妻、(3)子ども、(4)仕事、(5)友人というものについて考えてみよう。
この男性は、(1)おカネ、(2)妻、(3)子ども、(4)仕事、(5)友人も「もっている」状態だ。不足してないのである。そして、「おカネじゃしあわせはかえない」と言っている。
おカネをもっているけど、破綻した生活をしている人のことを見て、そのように言っているのだ。
たとえば、結婚できず、歳をとったあとも、カネの力で愛人をつくり、その愛人に殺された人がいたとする。
とりあえず、Bさんだとする。そのBさんのすがたを見て「おカネじゃしあわせは買えない」と言っている。
けど、自分は、すべてもっているのである。まあ、みたされていると言ったほうがいいか。
たとえば、Bさんは結婚できなかったけど、医者になった男性は、結婚をしている。医者になった男性は、そのとき、自分がおカネもちだったということの有利性についてはまったく考えてないのだ。
そして、医者になった男性は、結婚生活も順調で、こどもともうまくやっている。
おカネがあるうちに生まれて、医学部に通い、医者になった男性のことを、Aさんよぶことにする。
Aさんは、(1)おカネ、(2)妻、(3)子ども、(4)仕事、(5)友人というものを、全部、「もって」いる。
「もって」いるという言い方は、要素によっては、日本語として、不自然だ。
まあ、妻がいるし、妻との友好的な関係がある。子どもがいるし、子どもとの友好的な関係がある。仕事をしていて、部下との友好な関係がある。ちなみに、Aさん本人が、医院長だ。社会的に地位の高い仕事をしていて、実際の仕事場では、トップだ。そして、友人がいるし、友人との友好的な関係がある。
ところで、たとえば、子どもをキャンプに連れて行ってやったとする。子どもと、しあわせな時間をすごした。
これは、ただではできない。
子どもをキャンプに連れて行ってやることには、カネがかかる。子どもにカヌーにのるという体験をさせてやったとする。まあ、カヌーに連れて行ってやるという表現が適切なのであれば、カヌーに連れて行ってやったとする。
これも、ただではできない。子どもと素敵な時間をすごした。子どもをスキーに連れて行ってやったとする。子どもと素敵な時間をすごした。
これも、ただではできない。
おカネがかかっている。Aさんは、おカネで、子どもとのしあわせな時間を買っている。Aさんは、おカネでしあわせを買ったのだ。
どうして、そのAさんが「おカネじゃしあわせは買えない」と激しく主張するのか?
Aさんは、おカネで、しあわせを買っているじゃないか。
* * *
とりあえず、妻と結婚したとする。これは、Aさんがカネもちだったということと、無関係ではないはずだ。Aさんが医者の息子で、不自由なく育ち、医学部に入れてもらった。そして、医者をやっている……。
おカネがある。
おカネがあるということは、結婚に影響をあたえる。もちろん、なかには、おカネなんて関係がないと思っている女の人もいる。Aさんの妻も、おカネなんて関係がないと思っているかもしれない。
けど、一般的に、カネがあるほうが、カネがないよりも、結婚するということにおい、有利だ。これは、結婚相談所で、主に、男性のほうの年収が重要な情報になるということと一致している。
もちろん、男性の年収を気にしない女性だっているけど、男性の年収を気にする情勢のほうが多い。男性の場合、年収が高いほうが、有利に話をすすめられる。
結婚したあと、妻との生活に、おカネがかからないわけではない。
妻との友好的な関係を維持するために、おカネが必要であるということは、否定できない。有効的な関係を維持して生活をしている……。おカネは関係がある。
* * *
第1要素の「おカネ」が、第2要素の妻、第3要素の子ども、第4要素の仕事、第5要素の友人に、影響をあたえているのではないか思う。もちろん、おカネがある場合は、プラスの影響をあたえ、おカネがない場合は、マイナスの影響をあたえることになる。
しかし、例外はある。
おカネがあることがマイナスの影響をあたえることもあるし、おカネがないことが、プラスの影響をあたえることだって、あるかもしれない。
ようするに、例外的には、反対のことが起こる可能性がある。
しかし、その確率は低い。おカネがある場合は、プラスの影響をあたえる確率のほうが高い。おカネがないほうが、マイナスの影響をあたえる確率のほうが高い。
ともかく、未成年時代のおカネの影響も含めて、第1要素のおカネが、ほかの要素に影響をあたえるのである。ならば、おカネがあることや、逆におカネがないことは、ほかの「幸福の要素」に影響をあたえるのであって、影響をあたえないのではない。
「おカネがない人は、おカネがないような考え方をしているから、おカネがないのだ」
「おカネがない人は、おカネを憎んでいるからおカネがないんだ」ということが、言われる。
精神世界には、こういう言説がいっぱいある。
ようするに、「貧乏は、その人の、気持ちの持ち方がうみだしたものだから、気持ちの持ち方をかえれば、おカネもちになれる」という意見だ。
しかし、これは、現実を無視してしまっている意見だ。
現実の条件を無視して、「おカネがない人」のせいにしてしまっている。
「おカネがない人は、おカネがないような考え方をしているから、おカネがないのだ」と言っているわけだけど、ほんとうだろうか?
どうして、この人たちは、おカネのあるうちに生まれたとか、おカネがないうちに生まれたというような基本的な条件を無視してしまうのか?
文化的な資本という点でも、おカネがあるうちのほうが、おカネのないうちよりも、ずっとずっとずっと、有利なのだ。
そして、学生時代が長くなった文明では、景気変動の影響をうけるとはいえ、おカネがあるうちの子どものほうが、おカネがないうちの子どもよりも、ずっと有利であることにはかわりがない。
だから、成人するまでの時間というものを無視してしまっていいのかという問題がある。おカネがない人……と言った場合、その時点でおカネがない人は「こうだ」という話になる。
成人するまでの時間はまったく考えてない。
成人するまでの時間に経験したことが、その後の年収に影響をあたえることは、事実だ。
けど、そういう基本的な事実を無視して、「おカネがない人は、こうだ」と言ってしまうのだ。これは、おかしい。
2024年9月6日金曜日
まあ、どうなるか、ほんとうに見もの
さーー。今夜、NYダウがさがるのかどうか、見ものですねーー。もちろん、さがると言っても、暴落するかどうかということでーーす。なぜか、丁寧語。以降、普通の書き方で書く。
まあ、どうなるか、ほんとうに見もの。どうなるか注目すべきイベントだ。
雑感
とりあえず、ネットスーパー商品の受け取りをした。これでもけっこうたいへんだ。今回は、さらに、冷蔵庫のなかを掃除した。この冷蔵庫は中華製の冷蔵庫で、結露した水が、下側に流れるようになっている。なので、庫内の床部分に水がたまるようになっている。で、この水をふいた。ついでに、いろいろとふき掃除をしておいた。
ともかく、いろいろとたいへんなのだ。たいへんだと感じるのは、ネズミ事件や殺虫剤事件の床のことを考えているからである。これが、普通の清潔な床だったら、気分的に楽なのだ。はやく、普通の台所があるうちに引っ越したい。
昨日、外に出て思ったのだけど、体力が思った以上になくなっている。やっぱり、歩かなければならないのだ。ところが、シェディングが気になるので、おちおち買い物にも行けない。当然、散歩も、厳禁だ。
ともかく、住みにくくなった。
まあ、いろいろと買えるので、よしとしよう。
ともかく、鈍感な人は、はやく、気がついてほしい。そして、自主的に解毒してほしい。
基本的に、ちゃんと、問題が内在している
中間層の没落なんだけど、これは、グローバリズム的政策の帰結なんだよ。
まあ、コロナ騒動も、あいつらが引き起こしたことだからなぁ。新型コロナ対策費と、日本国民に対する生活保護費を天秤にかけて、日本国民に対する生活保護費をケチれと言っているような……アホな連中。
まったくわかってないね。
グローバリズム的な政策というのは、まずい問題を、次から次へと引き起こすものなんだよ。基本的に、ちゃんと、問題が内在している。
たとえば、太陽光パネルなんだけど、深刻な公害問題を引き起こす。太陽光パネルを設置しちゃいけないのである。とくに、メガソーラー(大規模太陽光発電)なんて、環境を破壊することが決まっているものなのである。ぜんぜん、クリーンじゃないの……。
電気自動車もそうなんだよ。ぜんぜん、クリーンじゃないんだよ。
最初から、問題が内在している。やれば、問題が噴き出すことがわかっている。
あとで……問題が噴き出すんだよ。
だれも責任なんてとらないよ。とれないのだから。
一度作っちゃったら、どうやって処分していいかわからないような代物なんだよ。将来、自然を破壊することが決まっているものを、クリーンエネルギーのために設置しましょうとすすめるのが、あいつらのやり方だ。
これ、もちろん、「ダメになることがわかっているから」すすめているのである。
だまされちゃっている人は、まるで気がつかない。やられちゃったあとも、ぜんぜん気がつかない。
どんだけ、鈍感なんだよ?
しかし、これしきのことも、「はだ」でわからないとは……
トランプはまともなことしか言ってない。普通に、資本主義と市場経済を維持して、労働者にがんばって働いてもらおう……みたいなことしか言ってないんだよな。
中間層の没落というのは、アメリカでも問題になっているところだ。これは、グローバリズム的な政策の結果だ。グローバリズム的な政策というのは、国を破壊するためのものなのである。
なので、順調に「おかしくなる」。
これ、みんな、ほとんどの人が気がついていないのだけど、普通の政治家というのはまともじゃないのである。なんで彼らの悪意に気がつかないのか。
これ、ほんとうに、フランシスコ・ザビエルみたいなものなのである。
ちゃんと、悪い意図があって、実行している。フランシスコ・ザビエルの言うことを、大名がきいてしまってはいけないのである。まあ、大名というのは、その地域の、トップだよね。領主なんだから……。
はっきり言うと、フランシスコ・ザビエルの布教と現代の移民政策は、かさなるところがある。おなじではない。あくまでも、かさなっている部分があるだけ。
しかし、これしきのことも、「はだ」でわからないとは……。「キミらはほんとうに、鈍感だな」と言いたくなる。ほんとうに、まったくなにも、見えてないんだな。出来事のつながりが見えてないんだなぁ。
2024年9月5日木曜日
かゆさがひと段落したところで、歩いて買い物に行くことにした。
あのあと、自転車をとりに、庭に出ようとしたのだけど、自転車置き場に行くまえに、通らなければならないところに、がんがん、植物がはえていて、植物をぬいたり、おったりしないと、まえにすすめない状態だった。
なので、植物をおったり、ぬいたりした。
この植物というのがよくわからない植物で、なんというのか、わからない。雑草というと、イメージがちがいすぎるので、雑草とは言いたくない。
けど、雑草のたぐいだ。
けど、くさって感じじゃないんだよね。
まあ、一番近いのは、アジサイの花がない、アジサイかな。
けど、茎のところがだんだん、木の枝のようにかたくなるのだ。色も、緑から、茶色にかわる。
ともかく、たおしてたおしてたおして、まえにすすんだのだけど、手を洗いたくなったので、一度、二階にあがることにした。
ほんとうは、これ、突然やる気になったので、やっちゃったけど……ロング手袋をしたほうがいい。手首や腕がかゆくなって、なんかもう、自転車で、外に出る気持ちがなくなった。
というわけで、かゆさがひと段落したところで、歩いて買い物に行くことにした。
でっ、まあ、最初は、「ひさびさにハンバーガーでも食べるかな」と思ったのだけど、店のなかに、たしょうの人がいたので、「まつのは、いやだな」と思って、ハンバーガー屋には入らなかっよ。
ともかく、シェディングをさけなければならないので、「なるべく」人に近づかないようにして、買い物をすませた。
* * *
「おりゃーーおりゃーおりゃーー」と声は出さなかったけど、こころのなかで言って、夢中になって、いろいろと引っこ抜いたり、おったりしたので、つかれた。竹も、細いやつは、おった。植物の成長がものすごい。
自転車
なんとなくだけど、自転車で、まるまる荘近くの、スーパーに行きたい。市のゴミ袋を買いたい。その他、もろもろのものを買いたい。コースとしては、おなじみのコースなんだけど、ずっと、行ってない。
どのみち、つらい、思い出ばっかり、つまっている道なんだよなぁ。行ったって、しかたがない。
頭の横のつまった感じは、ときどき、復活する。ふたつ前の地域新聞のやつだ。いまも、正直言うと、ちょっとある。このうえに、なんらかのシェディング(トランスミッション)をかさねてしまっていいのだろうか。これ、頭蓋骨というのは、隙間があるんだよ。問題がある。
* * *
普通の人とは、だいぶちがった人生なので、なんと言うのかな……。まあ、通じない部分が多いだろうなぁ。もう、家族がちがうんだよな。生まれの家族がちがうということは、でかい。そこでの経験というのは、ほかの人の経験とはだいぶちがうものになる。しんどさのしんどさがちがうんだよね。
けど、なんとなく、自転車であの道を行きたい。どうするかな。
* * *
なんか、ジャンクなものを食べたい気分だ。
後で消す
シェディング(トランスミッション)を気にしなくていいなら、買い物に行きたいのだけど、気にするので、どうするか、まよっている。ほんとうは、こんなのは、いやだ。「もう、いいかげんにしてくれ」と言いたくなる。鈍感な人たちが、あんなことをやってしまったせいで、めんどうなことになっている。
どうして、ナノ粒子に鈍感になるかというと、いろいろなしくみがある。もう、いろいろありすぎて、説明なんてしない。しかし、こまったなぁ。遅効性の毒だというのが問題なんだよなぁ。遅効性ということは、症状が出るまでわからないということだ。けど、着実に、増えていく。体の中であるものが増えていく。上限をこえるまでは、症状が出ないけど、上限をこえると症状が出る。まあ、いろいろ、めんどうなんだよな。
そして、いま、黒のあとを引き継いで、これをやっているのが白なのだ。白には、なんらかの計画があるのだろう。鈍感な人の割合は、じつは白の計画に影響をあたえているのではないかと思う。ようするに、シナリオは、各時点で、いくつか用意されていて、鈍感な人の割合に対応して、柔軟に適切なシナリオを選んでいるのではないかと思える。
けっきょく、いまは、まるで気にしないやつが得をするようにできている。それが、いつまで続くのかわからないけど、鈍感な人が生き生きと暮らしている時代なのだ。まあ、生き生きと暮らしているように見えるだけなんだけど……。
まあ、正直言って、がまんにも限界がある。
2024年9月4日水曜日
「おカネで幸福は買えない」
それを考えると、「裏」が見える。
けど、まあ、「裏」のことは、めんどうなので、ちょっと横に置いておく。
基本的に、おカネをもっている人が、「おカネで幸福は買えない」ということを言う場合と、おカネをもってない人が「おカネで幸福はかえない」という場合はちがう。
そして、おカネをどのくらい持っているかというのが問題になるのだけど、上位5%ぐらいにはいるような感じでおカネをもっているということにしよう。
そして、その人は、こどものときから、裕福だとする。ようするに、お金持のうちに生まれた人だということだ。お金持のうちに生まれて、おカネに不自由しない状態で、生きてきた人が、 「おカネで幸福は買えない」と言う場合と、おカネがないうちに生まれて、おカネにこまっている状態で、生きてきた人が「おカネで幸福は買えない」と言う場合はちがう。
基本、おカネに不自由したことがない人が言う「おカネで幸福は買えない」という言葉は、重みがないのである。
たとえば、上位5%ぐらいの人のまわりには、上位5%ぐらいの人がいるとする。10ブロックには、生活費に困らない人ばかりがいるということとおなじだ。
そうなると、上位5%の人は、これが普通だと思ってしまうのだ。
ほんとうは、95%は、自分たちよりもカネがない状態で暮らしているのに上位5%の状態が『普通の状態』なんだと勘違いしてしまう。
10ブロックの人が「おカネで幸福は買えない」と言ったって、1ブロックの人は、そうは思えないのである。1ブロックの人には、おカネが必要なんだよ。じゅうぶんなおカネがない状態で暮らしている。
おカネがじゅうぶんにないということで、がまんしなければならないことがいっぱいある。
がまんしなければならない状態というのは不愉快な状態なんだよ。がまんを強いられる状態なのだから、好きで、がまんをしているわけではないのだ。
おカネがあればできることができない。そういうことが、たくさん、何回も何回も発生する生活というのは、とてもじゃないけど、しあわせとは言えない。
そこで、じゅうぶんに満ち足りている10ブロックの人が「おカネで幸福は買えない」「おカネで幸福は買えない」と連呼したって、1ブロックの人のこころには、まったく響かない。
とりあえす、そんなにでかい額ではないのだけど……上位5%の人から見れば、ささいな額なのだけど、そのささいな額が「できるか」できないかを、決定してしまう。
できないので、がまんするということになる。
その場合、その我慢を解消できるおカネがあれば、がまんしなくてもいいわけだから、そのぶん幸福感を感じることができる。
一時的に幸福感をえることと、継続的に幸福であるということはちがうことだ。
けど、1日に何回も、「おカネがあればできること」をがまんしていれば、「おカネがないことで、不幸を買っている」ということになる。おカネがあれば、不幸を買わずにすむのである。
そういう意味では、おカネで、幸福感は買えるのである。
これは別に破滅的な「快楽」というものではない。
たとえば、ギャンブルによる快楽ではない。
子どもが栄養のある、おいしいものを食べるということは、「おカネで幸福感を買っている」ということになる。なぜかというと、おカネがなければ、栄養のある、おいしいものを食べられないからだ。
だいたい、おカネがあると言った場合のイメージが問題なのである。上位5%が言う「おカネのある」人のイメージと、「おカネがある」ということのイメージがそもそもちがうのである。
「おカネで幸福は買えない」と言う場合に使われるイメージが、おカネはあるけど、人間関係に恵まれず、おカネで、お若い女の人を買うのだけど、その若い女の人に殺されてしまうような金持ちのイメージなのだ。
それなら、「おカネで幸福は買えない」ということになる。
だれも、文句がつけられないことを語っていると思うだろう。 そのセリフを言った人はそう思うだろう。
けど、これは、子どもが栄養のある、おいしいものを食べるために必要なおカネとは、おカネの種類がそもそもちがうのだ。文脈もちがうし、額もちがう。
貧乏人の子沢山
貧乏人の子沢山ということについて、ちょっと、語っておこう。これは、未成年時代の資本ということを考えると、例外的な人たちが、貧乏人なのに子どもをたくさんつくっているというとになる。あくまでも、例外だ。基本的に、子どもを育てるのに、カネがかかる時代なら、こういう人たちの割合は、小さくなる。
いっぽう、基本的に、こどもが労働力として見なされる場合は、こどもがおカネを持ってくる役割をするのだから、貧乏人でも子どもをたくさんつくるということになる。貧乏人でもではなくて、貧乏人だからこそ、子どもをたくさんつくるということになる。これは、時代がちがう。だから、こういうふうに、こどもが労働力として見なされる場合というのを、いま、想定して考えるのはよくない。 なにについて考えるかというと、こどもとか、結婚ということについて考えるのはよくない。かならず、こどもが小さいなりに労働力として見なされているのかどうかということを、頭に入れて、考察しなければならない。
結婚に関しても、じつは、これが大きな影響をあたえている。働くまでの期間を、未成年時代とする。未成年時代における教育が、重要な役割を果たしている社会における、結婚と、未成年時代における教育が重要な役割を果たしてないない社会における結婚は、意味がちがうのである。重要な役割を果たしていると書いたけど、重要な役割というのは、たとえば、そのあと、子どもが将来しあわせになるために重要な役割を果たしているということだ。これは、実際にしあわせになるために重要な役割を果たしていなくても、みんなが、重要な役割を果たすにちがいがないと思っているような状態だと、そう見なされる。ようするに、教育におカネをかけても、かならずしも、いい結果になるとは限らないのだけど、わずかな例外をのぞいて、みんながそう考えている状態だと、そう見なされる。ようするに、これは、なんとなくの共同幻想なのだ。そして、共同幻想だからこそ、例外があるにしろ、共同体のなかの、各個人の行動に影響をあたえる。
ようするに、まず、時代の区分を考えなければならないのだ。子供の教育におカネがめちゃくちゃにかかる時代と、子どもの教育なんてものは無視していい時代の区分を、さきにしておかなければならない。子どもの教育なんてものは無視していい時代というのは、子どもが、子ども時代に、労働力として充当される時代のことだ。それと、子どもの教育におカネがめちゃくちゃにかかる時代における、例外的な存在を、混同してはならない。
2024年9月3日火曜日
「貧乏人は、おカネをきたないものだと考えているから貧乏なんだ」
「おカネをもってない人は、おカネはきたないものだと考えている」「貧乏人は、おカネをきたないものだと考えているから貧乏なんだ」というような通説があるのだ。
精神世界の人は、ほとんど、みんな、そんなことを言う。
判を押したように、「おカネがない人は、おカネがきたないものだと思っているから、おカネがない」というようなことを言う。
けど、これは、まちがいだ。
まず、きたないというのが、物理的なきたなさと、けがれのような心的なきたなさということについて、あいまいに述べている言葉なのだ。あいまい表現。どっちともとれる表現。両方と成り立つ表現。
精神世界の人の言い方というのは、非常に、あいまいなのである。
だから、いろいろなところに、しかけを盛り込むことができる。そして、そのしかけに関して、精神世界の人たちが無自覚だというのがある。
それこそ、しかけるほうが、だますために、こういう表現を使っているのである。精神世界の人たちというのは、いろいろなところで、洗脳されている人たちだ。
精神世界の人たちは、おカネにまつわることに考える場合も、どういう家に生まれたか、どういう家で育ってきたかという基本的な条件を無視する。
おカネに関しては、お金持のうちに生まれたか、貧乏な家に生まれたかということは、非常に重要な条件だ。
だから、条件を無視した思考というもの自体に、問題がある。
たとえば、9ブロックの人が、1ブロックの人に対して「1ブロックの人は、おカネがきたないと思っているから貧乏なんだ」と言ったとする。1ブロックの人は10回にだいたい1回しか勝てないので、基本的に貧乏なのである。
1ブロックの人が、9ブロックの人よりも、貧乏なのは、だいたい10回に1回しか勝てないという条件によって、決まっていることだ。9ブロックの人は、10回にだいたい9回勝てるので、1ブロックの人よりもお金持なのだ。
これは、条件によって決まっていることだ。
別に、9ブロックの人は、おカネがきれいなものだと思っているから10回にだいたい9回、勝てるわけではない。つまり、9ブロックの人は、おカネがきれいなものだと思っているからおカネもちであるわけではないのだ。
ようするに、9ブロックの人は、「自分はおカネがきれいだと思っているから、お金持で、1ブロックの人は、おカネがきたないと思っているから貧乏なのだ」と勝手に決めつけているだけだ。
これは、まちがった思考なのである。まちがった判断なのである。
ところが、9ブロックの人は、おカネに対して特殊な信仰をもっているので、自分のまちがいに気がつことができない。精神世界の人もおなじことをしている。
現実の条件を無視して、「おカネがきたないものだと思っている人は、貧乏で、おカネがきれいなものだと思っている人は、おカネもちだ」と決めつけている。これは、まちがった決めつけだ。
また、地域新聞が入っていた
また、地域新聞が入っていた。ポスティングするなと書いた紙を、郵便受けに貼りつけたことがあったんだけど、それを無視して、ポスティングしていくんだよなぁ。そのときは、ただ単に邪魔だったからそうしたのだけど、まさか、地域新聞、プラス、チラシ系のポスティングでこんなことになるとは……。地域新聞で手がかゆくなる。今回、目のいたみや頭のいたみはない。ましになっている。けど、手はかゆくなったからなぁ。
いつも読んでくださるかたに感謝しております
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