2024年9月16日月曜日

雑感

たぶん、ピレトリン中毒なのだけど、ひどい目にあった。しかし、ゲロ処理をしているとき、足の甲をダニに刺されてしまうって、どうよ?

もともと、蚊取り線香はダニ処理とネズミ処理のために、たいたものだ。

あの、兄貴の部屋の左ふすまと内階段のあいだの部分を通って、ネズミが兄貴の部屋に入ったと思われるので、その部分に、ネズミシートをおきたかったのだけど、うまく置けなかったので、ネズミシートをたてかけるように置いた。煙がいやになって、ネズミが出てくるとなると、あそこを通る。基本、兄貴の部屋の左ふすまの裏に、本箱がある。兄貴の部屋の左ふすまを開けると、本箱の裏側が見えるのだ。だから、本箱の裏側が(こっちから見て)一番奥ということになる。こっちから見ると、内階段の手すり→ふすま(ふすまのレール含む)→本箱の裏という構造になる。

本箱の裏側に、ネズミシートを(縦にして)置いた。ほんとうは、これで、ふすまを閉めたかったのだけど、ふすまがネズミシートにあたって、閉められないので、ネズミシートを撤去して、ふすまを閉めようとした。そのとき、どうも、足の甲をダニに刺されたみたいなのである。トイレで刺された可能性もある。たぶん、ふすまを閉めようとしたときに、刺されたのだと思う。

そりゃ、俺だって、ゲロの処理なんかしたくない。ネズミの糞の処理なんかしたくない。ダニに刺されたくない。

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想像しにくいと思うけど、左ふすまをしめたとしても、ネズミが通れる隙間がある。左ふすまと、右ふすまのあいだに、ネズミが通れる隙間がある。こっち?から見て、あきの部屋側(本箱の裏側に)ふすま全体がずれている。側面から見ると、左ふすまが、縦方向にななめになっている。

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右ふすまには、到達できない。どうしてかというと、右ふすまに到達するには、ダニ危険エリアを通らなければならないからだ。ここを通るには、かなりの重装備が必要になる。

2024年9月15日日曜日

雑感

 これ、けっきょく、ダニ対処でネズミ対処なのである。ネズミが入ってこなければ、そして、ネズミ経由のダニが大発生しなければ、蚊取り線香なんてたいてないよ。そして、いま、はいたものの処理をしたのだけど、足の甲を、ダニに刺されたみたいなのである。兄貴の部屋の、ふすま・左を、閉めておこうかと思って、閉めたのだけど、そうしたら、ふすまの表面の紙が、だらんと、落ちてきたので、それをなおしたら、そのとき、ダニに足の甲を刺された感じがする。あとは、風呂とトイレで作業をしたわけなんだけど、もし、トイレのなかで、ダニに刺されたとしたら、これは、これで、また、なんらかの対処が必要になる。階段の下・付近(トイレの前)で、蚊取り線香をたいて、その煙のにおい?で、ぼくが……。

雑感

 いまも、ちょっとだるいのだけど、省略したかたちで、書いておく。

蚊取り線香の煙にやられて、めまいがして、ゲロをはいた。立てない状態で、ゲロをはいたので、髪の毛にゲロがついた。移動するときに、浄水器などをたおして、浄水器が床に落ちて、浄水器の水が、床にしみた。けど、そのときは、そんなことはかまってられる状態じゃなかったので、放っておいた。さいわい、浄水器のなかに水が、ほんのちょっとしか入ってなかったので、ちょっとしか、床に、こぼれていない。

シンクのところと、シンク付近の床に、まだ、ゲロが残っている。これから、処理しないといけない。めまいは、まばたきするたびに、視界が、反時計まわりに15度ぐらい、せりあがるというものだった。こんなの、いままで、経験したことはない。今回はじめて経験した。まばたきするたびにリセットされるけど、反時計まわりに15度ぐらい回転する。右側が、せりあがるような感じ。

ものすごく、息苦しくて、ぜーぜーいってた。マラソンで、呼吸があがったときよりも、はるかに、くるしい状態で、呼吸をしていた。「これ、なおるのか?」と不安に思っていた。何回も、ゲロをはいた。シンクのところまで、いって、ゲロをはくつもりだったんだけど、床にゲロがこぼれた。シンクのところではいたあと、シンク付近で、座り込み、たてなくなり、しばらくすごしていたけど、座っているのもつらくなり、シンク付近で横になって、そこでも、はいた。なので、髪の毛や頬に、ゲロがついた。痙攣して、動けない状態になり、しばらく、横になっていた。

「きれいな空気を吸いたい」と思って、布団付近までもどることにして、たしょう動けるようになったあと、布団のほうに動いたけど、うまく動けず、とりあえず、中間地点の、この椅子に座った。座ったといっても、うまく動ける状態ではなくて、しばらく、椅子に座っていた。椅子に座るときに、浄水器(ボトル)をおとした。けど、そんなのは、かまってられなかった。救急車を呼ぼうかな」と思ったけど、「ともかく、きれいな空気がすいたい」と思って、布団付近まで戻ることにした。布団の横に、窓があるので、窓を全開にして、横になっていた。煙のにおいがしない、空気を吸いたいという気持だけだった。ともかく、ぜーぜーいって、過呼吸状態になった。

しばらく横になっていると、また、ゲロが口のなかにこみあげてきたので、なんとか、シンクのところまで行って、はこうと思ったのだけど、途中で、ちょっと、床にこぼれた。

そんなことを、3回ぐらい繰り返して最後に横になったとき(布団の上で横になったとき)眠ったようだ。眠れてよかった。

今現在、視野は正常。まばたきしても、視界がずれることがない。「後遺症になったらいやだな」と思ったけど、なんとか、正常な状態にもどった。吐き気は、ほんのちょっとだけあるけど、胃袋のなかにはなにも残ってないと思う。食べる気持ちはない。

ともかく、いちおう、めまいもないし、動ける状態になったので、シンクと床のゲロを処理しなければならない。正直言って、やりたくない。

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もと兄貴の部屋に、ネズミが入った可能性がある。これ、ちょっと説明しにくいのだけど、ともかく、もと兄貴の部屋には、入れない。ダニ関係のことで入れないし、じつは(むかって右側の)ふすまがうまく動かないのだ。ともかく、ふすまの溝のところに、新しいネズミの糞を10個ぐらい発見したので、これを処理しなければならなくなった。蚊取り線香というのは、ネズミとダニの関係で、たかなければならなくなった。階段付近で、蚊取り線香をたいても、こっちには、煙は、ふつうは、とどかない。けど、うちには、いろいろと隙間があるので、室内の引き戸をしめて、階段付近で蚊取り線香をたいても、ガスは、こっちの部屋にも来る。ようするに、煙が見えるような感じではないのだけど、においはする。そのにおいをかいでいたら、上記のような状態になった。においはするけど、煙が、この部屋のなかで見えるような濃度ではないのだ。だから、これはおかしい。まあ、蚊取り線香に火をつけるとき、煙をちょっとは吸った。

ともかく、むかしのからだだったら、こんなことになってないと思う。ぜーぜーいいながら「俺は、むかし、煙に強かった」などと思った。過呼吸なんだけど、どれだけ息を強く吸っても、空気がたりない感じがした。ともかく、においがついてない、きれいな空気を吸いたいと思った。

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親父がつくった内階段ともと兄貴の部屋の位置関係を説明しないと、よくわかってもらえないと思うのだけど……。ネズミの糞は、もと兄貴の部屋の、むかって左側の隙間の部分にあった。もと兄貴の部屋と内階段のあいだに、わずかな隙間がある。この、左側のふすまから、きちがい兄貴の部屋に入ることはできない。ともかく、左側のふすまレール部分と、親父がつくった内階段のあいだに、10センチぐらいの隙間がある。そこに、ネズミの糞が落ちていた。でっ、蚊取り線香を階段付近で、たきながら、ネズミの糞を、(捨てるつもり菜箸)でつまんで、トイレットペーパーを切ったものの上に置くという作業をしていた。このときは、煙を吸っていたけど、まったく異常がなかった。

雑感

 このさきどうするか、ほんとうに、まよっている。どうするかな~~。どうすればいいんだ?

まあ、外部環境がどのくらいかわるのかということが、でかいなぁ。個人的には、高くてもいいから、近所の貸家をかりるべきなんだろうな。けど、それだと、カネがかかりすぎる。生活費を圧迫する。だいたい、この後のことが、さっぱりわからない状態なんだよね。

関係ないけど、ネトゲ廃人のYouTube動画を見ていた。医者の子どもで、おカネがある環境なんだよ。でっ、まあ、コメント欄で、社会人?の人がいろいろと言っていたけど、これは、別にいいんじゃないかと思う。ようするに、カネがある状態で、いちおう、熱中できることがあるというのは、しあわせなことなんじゃないかと思う。けど、社会人の人たち?は、まあ、「このさきどうなるかわからないだろ」ということを言うわけだ。まあ、みんな、わからないけどね。

「としをとったとき、どうなるかわからない」……。まあ、ニートやネトゲ廃人の動画のコメント欄には、こういうことが書かれることがある。けど、言っているほうだって「としをとったとき、どうなるかわからない」ということは、成り立っている。おなじだ。わからないよーー。そんなのーー。会社が倒産してしまうかもしれない……。そんなのは、わからない。

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まあ、あれにかかわった医者が……今後、地獄を経験するとは思うけど……。

こころただしき医者は、ほんとうに苦難の時期を経験したと思う。

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まあ、文化の発展ということを考えると、おカネをもうけることができないことに、熱中する人がいるというのは、いいことなんだよ。文化の発展ということを考えればね……。

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「おカネじゃしあわせは買えない」と何回も言う、もと医者の息子で、現医者である人は、まちがったことを言っていると思う。何度も言うけど、「おカネじゃ、しあわせは買えない」と「おカネで、しあわせを買えるとはかぎらない」では、意味がちがう。ところが、本人は 「おカネで、しあわせを買えるとはかぎらない」という意味で「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているのだ。本人が、わかってない。

いっぽう、親のカネで、ネトゲをしている人は、別にそういうことを言ってない。いや、俺の知らないところで言っているのかもしれないけど、すくなくても、動画の中では言ってない。なので、いちおう、親のカネで、ネトゲをしている人は「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言ってないということにしておく。

 

 

 

 

 

2024年9月14日土曜日

どうしようかな。うーーん。

 しかし、俺は、どうなっちゃうのかな? どうなるんだろうな?

うーーん。どうしようかな。うーーん。

ともかく、肌をもとどおりにする技術に期待したい。

 ともかく、ダニに刺されて、肌がきたくなっているので、それをどうにかしたい。ダニ刺されはなおるけど、うっすらとあとが残ってしまう場合がある。ダニの種類がちがうんだよな。完全に、肌が元通りになるタイプと、肌がもとどおりにはならないタイプがある。あとが、うすっらとだけど、残るタイプがある。

ともかく、肌をもとどおりにする、医療技術が発達してほしい。そして、まあ、ここからのがれたいなぁ。ここいれば刺されることは決まっているからなぁ。

ところで、アパートではなくて、一軒家を借りるということも考えている。シェディングを(なるべく)さけるためにだ。一軒家は、相当に高いかと思ったけど、アパートとたいしてかわらない感じがする。まあ、月に3万円多く出せば、一軒家を借りられないこともないということがわかった。家賃だけで、6万5千円は高いけど、このままダニ生活をしているよりはいいかな。まあ、そこにダニを持ち込まないように、細心の注意を払うよ。 

ともかく、肌をもとどおりにする技術に期待したい。

人間が……うっかりミスをする場合

 うちのドアは、もうすでに、こわれているので、内側に強く引っ張らないと、ドアがちゃんとしまらない。地方新聞に気をとられて、内側のに強く引っ張らないと、しめたように思っても、ほんとうはしまってない(しまったと言える状態ではない)ということに、気がつかなかったのだ。ドアの内側に立って、普通にドアが閉まった状態になったら、ドアをしめたと思うだろう。ドアをしめたときの明るさになるのだから。つまり、ドア付近の光景としては、ドアをしめた状態なのである。ちなみに、「地方新聞に気をとられて」と書いたけど、シェディングの可能性に気をとられたのである。そりゃ、危険物をそのままの状態でうちなかに置いておくわけにはいかないので、ビニール袋で封印しないといけないと思った。ドアを内側に強く引っ張らないと、ネズミが入ってくる可能性があるということは、そのときは考えなかったのだ。これは、とりもなおさず、ネズミが入ってくるという暗いことを考えなかったということだ。暗いことを考えなかったのに、ネズミが入ってきた。ネズミが入ってくると考えなかったのに、ネズミが入ってくるという暗いことが発生した。暗いことを考えると、暗いことが起こるということは、この例でも否定される。ネズミが入ってくるという暗いことを考えて、ドアを内側に強く引っ張るべきだったのである。そのことについて、考えなかったから、ネズミが入ってきてしまったのである。

「暗いことを考えると、暗いことが起こる」という文は、「暗いことを考えると、100%の確率で暗いことが起こる」という文と、意味的に等価だ。暗いことを考えなければ、暗いことは起きないのである。ところが、人間が……うっかりミスをする場合は、まさに、暗いことが起こる可能性について考えなかったから、ミスをしてしまったのだ。暗いことが起こる可能性について考えず、その可能性について対処しなかったから、暗いことが起こった。このままだと、暗いことが起こるかもしれないと、暗いことが起こる可能性について考えをめぐらさなかったから、あとで、ミスをしたということに気がつくのだ。

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人間がミスをした場合は、過去のある時点で、自分がミスをしたということに気がつかなかったということなのだ。なので、暗いことを考えなくても、暗いことは起こりえる。さらに、自分がミスをしたことに気がついたとしても、「このくらいなら、だいじょうぶだ」と思って、ミスをしたことを無視した場合、それは、「このくらいなら、だいじょうぶだ」と明るい見通しをもったということなのである。けど、あとで、重要なミスだということを指摘された場合、あるいは、重要なミスだということが発覚した場合、明るい見通しをもったのに、暗いことが起こったということになる。ようするに、明るいことを考えたのに、暗いことが起こったのである。

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だいじょうぶだ」と過去の時点で思って、実際にだいじょうぶだったということもある。だから、だいじょうぶだと明るいことを思ったら、実際に、暗いことが起こらなかったということもある。しかし、だいじょうぶだと明るいことを思ったのに、実際に暗いことが起こったという場合もある。なので、「明るいことを思うと、明るいことが起こる」とは言えない。そして、「暗いことを思うと、暗いことが起こる」ということも、言えない。明るいことを思ったのに、暗いことが起こる場合もあるし、暗いことを考えたのに、明るいことが起こる場合もある。どうして、「明るいことを思うと、明るいことが起こり、暗いことを思うと、暗いことが起こる」と言うのか? 自分の経験を考えれば、明るいことを思ったのに、暗いことが起こる場合があるということがわかるだろ。自分の経験を考えれば、暗いことを思ったのに、明るいことが起こる場合があるということがわかるだろ。

100%詐欺をしているということに、いいかげん気がつけ。

「明るいことを思うと、明るいことが起こり、暗いことを思うと、暗いことが起こる」なら、うっかりミスをすることなんてないんだよ。 

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自分で味噌汁をつくって食べたら、味付けが濃すぎて、まずかったということがあったとする。その場合、みそ汁をつくっている時点では、味付けが濃すぎるということに、気がついていなかったのである。ミスをしたのに、ミスをしたと気がつかなかった。あとで、実際に食べたとき、味付けが濃すぎたということに、気がついたわけだ。うまい味噌汁をつくったつもりなのに、まずい味噌汁ができあがってしまったのである。気がつかなかったということは、まずい味噌汁をつくっているのではないかという可能性について考えなかったということだ。暗いことが起こる可能性について考えなかった。しかし、暗いことが起こった。味噌汁の味付けに関しては、あとで、修正が可能なときもある。濃すぎたなら、お湯や水で薄めればいい。しかし、このことは、別に「暗いことを考えなかったのに、暗いことが起こった」ということを、否定しているわけではない。すでに、暗いことが起こったあとのことだ。暗いことが起こらなかったわけではない。ある時点で、対処可能だから、対処が可能だと思っただけだ。「明るいことを考えれば明るいことが起こるので、暗いことが起きたとしても、それは関係がない」ということではないのだ。

もちろん、みそ汁の味付けが濃すぎたということは、たいしたことではない。しかし、ミスをしたということに気がつかなかったということは、「暗いことを考えなくても、暗いことが起こる」ということを意味しているのである。大きな事故につながる場合も、ミスをした時点でミスをしたということに気がつかなかったということが多い。もちろん、ミスをした時点のすぐ後の時点で、ミスをしたということに気がつく場合もある。気がついたけど「大きな事故にはつながらない」と明るいことを考えたので、あとあと、大きな事故につながることがある。何度も何度も言うけど、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」ということは、まちがっている。妄想的な信念だ。何度も何度も言うけど、「暗いことを考えれば、暗いことが起こる」ということは、まちがっている。妄想的な信念だ。現実を見て、現実について考えたほうがいいぞ。ミスをした直後に、ミスをしたということに気がついて、ミスをなおすということだって可能な場合がある。ミスをなおすというのは、ミスについて適切な対処をするということだ。対処可能なら、暗いことが起こる可能性について考えて、対処しておいたほうがいい。それこそ、暗いことが起こる回数を少なくしている。暗いことが起こる確率をちいさくしている。

『自分で無意識・100%詐欺の人』……多すぎる。

 「だいじょうぶだと思ってやると、失敗することがある」

「たぶんだいじょうぶだろう」「このくらいだいじょうだろう」……そんなことを思ってやると、失敗することがある。これは、やはり、「明るいことを思うと明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということを否定している。

手首を見て、きれいだなと思って、あのタオルはきたないタオルじゃないから、袋をもっている手が接触しないタオルのダニにやられることはないだろうと思ってやったら、刺されまくった。しかも、なぜか、右足まで刺された。たぶん、ダニが落ちたのだと思う。 

「明るいことを思うと明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と言っている人だって、ほんとうは、あまい見通しでやったら、いたい目を見たということがあったはずだ。経験としてあったはずだ。けど、それは、無視しているのである。100%詐欺をするな。『自分で無意識・100%詐欺の人』……多すぎる。

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もちろん、「たぶんだいじょうぶだろう」「このくらいだいじょうだろう」と思ってやったら、だいじょうぶだったということは、ある。別にそういうことがあるということは否定しない。けど、「明るいことを思うと明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というのは、これまた100%の話なのだ。「明るいことを思うと、100%の確率で、明るいことが起こる」という文と「明るいことを思うと明るいことが起こる」という文は、意味的に等価。「暗いことを思うと、100%の確率で、暗いことが起こる」という文と「暗いことを思うと暗いことが起こる」という文は、意味的に等価なんだよ。

しかも、このままだと、暗いことが起こる確率が非常に高いときに、「このままだと暗いことが起こる」と注意喚起している人を、暗い人だと考えて、攻撃をするなんてことはあってはならない。そうやって、口を封じようとするということが、どれだけ、暗いことが起こることに貢献しているのか、わからないのか?

 

すぐ消す

 ワクチンを打った人は、黒側に立ってしまった……というようなことを書いたけど、もちろん、強制接種された人や半強制接種された人は、ちがう。問題なのは、嬉々として打ってしまった人たちだ。そして、正しい陰謀論者をまちがった陰謀論者としてバカにした人たちだ。

やばいじぇ

 ネズミを横の部屋に追い込んだのだけど、どうも、横の部屋にいる気配がない。ひょっとしたら、逃げられたかな。あいつらが、自分から、家を出ていくということは、ない。普通はない。特別な場合だけあるけど、それは、あせって逃げたときだけだ。まあ、いま、穴があいてない状態だろうから、この家のどこかにいるんだろうな。

 

雑感

 片づけをしていると、手が負傷する。ネズミ・ダニ環境だと、段ボールがかゆい凶器になってしまう。まあ、ダニ系ひっかき傷が多いけど、ちがうのもある。なんか、かたいものをちぎろうとするときなどがやばい。

ダニ的にダメな段ボールは、引きちぎって燃えるごみにいれようと思ったのだけど、引きちぎっているうちに、指がかゆくなった。長袖の使い捨て手袋をしていたのだけど、いろいろやっているうちに、汗がたまってきて、あせものようにかゆくなるから、手袋をとった。これ、けっこう、いまの時期だとつらい。

さあ、魔法のように切り傷をなおしてしまう医療機器は登場するでしょうか?

2024年9月13日金曜日

全部が、しんどい。

 全部が、しんどい。

ネズミシートにかかることを期待していると、ネズミが出てこない。

だいたい、なんというか、ほんとうに、めんどうなんだよな。そして、つみあがりすぎた。これ、今日がはじめてではない。もう、いやだな。「もう、いやだな」と思うことが、つみあがりすぎた。マンションは、だめだ。けど、一軒家は、むずかしい。そりゃ、よさそうな新築の一軒家を買えるだけのカネがあれば別だけど。

うーー

 あれからちょっと寝たのだけど、ネズミのことが気になってしかたがない。暑い状態で、すぐ近くにネズミがいると思うと、なんか、いやな気分になる。だいたい、かゆいしな。なんかもう、ほんとうに、終わった感じがするなぁ。ものを、すてて、身軽になるしかないかな。じつは、中古マンションなら、引っ越せる。けど、シェディングが気になる。

眠たいような、感じなんだけど、眠れない。かゆいし。 

いや、あれからは、寝てない。眠ってない。眠ったのは、前投稿を書く前だ。

すぐ消す。

 もう、いやだなぁ。これじゃあ、なーー。どうするかな?

近くにアパートを借りておくという案で行くか。

生きた心地がしない。もう、ネズミダニ関係のことで、ぼくがどれだけいやな思いをしてきたか……。きちがい親父が、魚を出しっぱなしにすることに、こだわりまくるところからはじまる。

もう、たえられない。 もう、ほんとうに、現実がいやなんだよなぁ。かゆい。

 

みんな、いいかげん気がつけ

みんなにわかってもらおうと思って、白が芝居をしているんだぞ。みんなに、感づいてもらおうと思って、白が芝居をしているんだぞ。ほんとうに、鈍感なやつらだな。鈍感にもほどがある。みんな、いいかげん気がつけ。「へんだな」と思わないのか?

雑感、あとで消す

 ネズミが出た。臨戦態勢だ。

これ、やっぱり、このあいだの、地方新聞のとき、地方新聞に気をとられて、普通の閉め方をしてしまったのが原因だ。家のドアは、こわれているから、ひっぱらないとだめなんだよ。そういうところでも、気をぬくと、このざまだ。住みにくい。

引っ越しの用意をしたいけど、無理だ。自転車屋のこともあるし、シェディング(トランスミッション)をくらうのはやばい。

2024年9月12日木曜日

こんな茶番、いつまでやってんだ!!

 こんな茶番、いつまでやってんだ!!

もう、あきた。はやくすすめてくれ。はやくしてーー。

精神世界の人の洗脳が深すぎるんだよなぁ。けど、一般人も、精神世界の人以上に洗脳されている。ふかいーー。ふかーーい。

はやく、洗脳をうちくだいてくれ。脱洗脳してくれ。洗脳の上書き? まあ、そういう可能性もあるけど、はやくしてくれ。

「しあわせ体験」をカネで買っているんでしょ

 「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているAさんは、おカネで、しあわせをかえる場合があるということを認めていない。

けど、本人は、そういうことを認めていないのだけど、子どもをスキーに連れて行って、子どもとしあわせな時間をすごしたことについては、まったく考えてないのである。

子どもとしあわせな時間をすごすための費用(おカネ)についてまったく考えてない。

「けっきょく、カネがかかってんじゃないか~~」と言いたくなる。

ところが、こういうことをAさんに言うと、「そういうこともあるかもしれないけど、おカネじゃ、しあわせは買えない」と言う。

いや、あるかもしれないのではなくて、あるんだよ。

自分はカネで、子どもとのしあわせな時間をつくっているのに、あたかも、その幸せな時間と、おカネが関係がないようなことを言う。

この人は、めぐまれすぎて、「ない場合」のことが、ほんとうにわかってない。「ない場合」というのは、「おカネがない場合」のことね。Aさんの頭のなかで、おカネがない状態というのが、想像できないのである。リアルな状態を想像できない。

なんか、童話のなかで聞いたような「おカネのない状態」や、ニュースで見た「おカネがない状態」しか、思い浮かばないのである。

だから、本当は、たっぷりあるおカネで、自分が、常日頃(つねひごろ)から、しあわせを買っているのに、それに気がつかない。

ネズミが出ない家に住んでいる。ダニに毎日やられてない。それだって、おカネがあるかできることだ。おカネがなかったら、そういう状態から抜け出せなくなる。

もっとも、おカネがあっても、ぬけだけない場合もあるんだけど、それはまた、別の話だ。

ほんとうは、常日頃(つねひごろ)から、「おカネ」でしあわせな時間を買っている……。

これに、Aさん本人が気がついてないのである。

妻や子どもとのしあわせな時間ということを考えた場合、妻や子どもに、意識が集中してしまって、妻や子どもとのしあわせな時間に「おカネがかかっている」ということは、ガン無視してしまう。

はっきり言えば、しあわせな時間を維持するのに、おカネがかかっているのだけど、Aさんは「おカネがかかっているという事実」を無視している。そして「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言い続ける。

ちなみに、こういう人……Aさんに、こういうことを言うと、「おカネがなくても、妻や子どもと、しあわせな時間をすごすことは、可能だ」ということを言いだすのだ。

けど、本人は、おカネをたっぷりもっている。

結婚にだって、おカネがかかっているはずだ。子どもの生活にだって、おカネがかかっているはずだ。

そして、そういうさまざまな費用を、ほんとうに、まったく問題なく、負担できる人なのだ。Aさんはおカネをたっぷりもっているので、そういうさまざまな費用を問題なく、負担できる。それは、おカネをたっぷりもっているからだ。おカネで、妻や子どもとのしあわせな時間をつくっているのである。そういう人が、「おカネじゃ、しあわせは買えない」「おカネじゃ、しあわせは買えない」と何回も何回も主張する。

はっきり言って、おカネがない人は、しらけてしまう。

おカネもなく、妻もいないし、子どももいない人が、「おカネじゃ、しあわせは買えない」という言葉を聞いてどう思うか?

しあわせの要素をすべて持っている人が「おカネじゃ、しあわせは買えない」と主張する。全部、もっている人だ。特に、おカネに関しては、おカネもちと言えるほど、おカネをもっている。Aさんの場合、子どものときから、おカネもちなのである。

子どものころ、おカネをもっているのか、おカネをもってないのかというのは、その後人生に影響をあたえる。たとえば、医者の子どもは、おカネもちだから、自身(子どものほう)も医学部に行ける。親がおカネもちというのは、医学部進学という点において、有利なのだ。

もちろん、親が金持ちでも、本人が医学部に進学を希望していても、医学部に進学できない場合も、少しはある。

けど、おカネがなくて、医学部に進学できない人よりも、おカネがある人は、有利なのだ。だから、おカネがあるかどうかは、医学部進学に影響をあたえる。プラスの影響だ。

ところが、医者の子どもであるAさんが、「おカネとしあわせは関係がない」と言うのだ。自分が、医学部に進学するとき、おカネをもっていたということが、どれだけ有利なことなのか、まったく自覚がない。

医学部進学が、その人にとって「しあわせ感」をもたらすことだとする。おカネがあるということは、医学部進学というしあわせ感をもたらすものに、プラスの影響がある。

おカネがあるのに、医学部に進学できなかった人がいるとする。なら、おカネは、医学部進学に関係がないことなのか?

ちがう。関係はある。

「例外がいるから関係がない」と言う人は、勘違いをしているのである。

それぞれ、例外がいるので、「……は可能だ」「……がなくてもできる」と言える状態になる。だから(関係がないということが)あっているような感じがしているだけだ。

おカネと医学部進学は関係があり、おカネがあるほうが、進学しやすいのである。

ちゃんと、関係がある。

けど、おカネがなくても、医学部に進学した人がいるので、おカネがなくても医学部に進学はできると、関係性を否定する発言をする人がいる。

けど、「おカネがあるほうが……進学しやすい」ということは、かわりがないのである。

*     *     *

例外を考えなければ、おカネがある人という集合のなかに、医学部に進学する人という集合があるのである。医学部に進学する人という集合のなかに、おカネがある人という集合があるわけではない。おカネがあるということは、医学部に進学するときの(基本的な条件)になるものなのである。基本的な条件を満たした人が、医学部に進学できるのである。

しかし、奨学金でもなんでもいいけど、例外があるとする。例外は、例外だ。例外となるものは、一般的な傾向とは、ちがう傾向をもっているということだ。

例外を考えなければ、おカネがあるということは、医学部に進学するときの(基本的な条件)なのである。

Aさんは、自分がおカネをもっていたので、「おカネは関係がない」「おカネでは、医学部進学は買えない」「おカネがあるということと、医学部に進学することでえる幸福感は関係がない」「おカネがあるということと、医学部に進学することでえたしあわせな生活は関係がない」と言っているだけなのである。 

*     *     *

たっぷりカネをもっているということを利用して、さまざまな「しあわせ体験」をしているのに、口を開けば「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているやつって、なんなんだ?

「しあわせ体験」をカネで買っているんでしょ。

自分がどれだけ恵まれた状態で生きているのか、ぜんぜんわかってないなぁ。平均よりずっとおカネもちのうちに生まれたということも、まったくわかってない。カネがあるという優位さを最大限に利用して、さまざまな「しあわせ体験」を買ってきたのに、まったく、わかってない。

ほんとーーに、このさき、どうなるんだ?

 ほんとーーに、このさき、どうなるんだ?

かゆいのは、たしかだ。それから、眠たいのに眠れない状態だと、状態そのものが長期騒音時代の状態だから、長期騒音のことを思い出して、不愉快な気持になる。はっきり言って、めちゃくちゃ腹がたつ。で、ぼくの人生というのは、いったいなんだったんだろうと思うわけ。

まあ、このさき、世界は大きくかわるよ。鈍感な人たちの感覚が、わからない。どうして、そこまで、鈍感になれるんだ? こんなの、簡単にわかると思うけどなぁ。

もう、つかれたなぁ。寝るーー。

 もう、つかれたなぁ。寝るーー。

ゴミを出してきた。

ものがくさりやすい。あたためるというか、100度ぐらいにすれば、もつかなぁーーと思ったけど、眠って、起きたら、くさってた。わかめと肉のスープをつくったんだよ。一回目は、ちゃんと食べた。頻繁に、熱をくわえれば大丈夫かなと思ったけど、そうではなかった。この夏、早く終われ。暑い日が長すぎる。暑い日なら、夏。暦の上でなんだろうが、暑ければ、夏。 

*     *     *

もう、すべてがめんどうくさいのだけど、引っ越したい。ここは、解体するから、特にきれいにしなくてもいいんじゃないかと思う。けど、引っ越しのときに作業員が刺されるかな?

ダニに刺された

 じつは、腕と足を、せーーだいに、ダニに刺された。腕だけで40カ所ぐらい、足だけで30カ所ぐらい刺された。腕は両腕を刺された。足は、なぜか、右足だけ刺された。腕は、片腕20カ所ぐらいかな。じつは、いま刺されたわけじゃなくて、このあいだ刺された。これ、じつは、作業員のことを考えて、下の部屋に置いてあったタオルをビニール袋で、封印しようとしたことがはじまりなのだ。封印しようなどと考えないで、そのまま、そーーーーっと、市のゴミ袋の下のほうに入れて、うえから、フタをするように、いろいろと入れればよかった。じつは、この作業をやるまえに、長袖手袋をしていたのだけど、どうしても、じゃまになってとったのだ。ともかく、夏は、しんどい。これも、秋冬であれば、長袖のトレーナーの上に、上レインコートを着て、やれるんだよなぁ。レインコートの袖の上にきつめの使い捨て手袋をすれば、手首の長さのやつでもだいじょうぶだ。長袖手袋のサイズがひとつのサイズしかなくて、めちゃくちゃにでかいのである。でっ、これが、いやなんだよ。そして、暑いから、手袋のなかがむれる。ともかく、まあ、「長いゴミばさみを使って、入れれば、だいじょうぶだろう」とあまく見たのが失敗だった。ゴミばさみは使ったのだけど、ビニール袋が案外小さくて、うまく入れるのに手間がかかった。で、その作業の前日にも、じつは、両腕をダニに刺されているのだ。これも、片付けようとしてやられた。いじらなければ、ほとんど刺されないのだけど、いつまでもいつまでも、おなじところに置いておくのは問題があると思って、いじると、やられるんだよね。ともかく、寒くなるのをまつかな?

「そんなにいるはずがない」とあまく見たのが失敗だった。見た目は、すごーくきれいなタオルだからね。

「おカネがないから、しあわせとはかぎらない」

「おカネがないから、しあわせとはかぎらない」と言われる機会よりも、おカネがあるからしあわせとはかぎらない」と言われる機会のほうが多いと、個人的には思う。ぼくの経験の範囲では、そうだ。

なので、「おカネがないから、しあわせとはかぎらない」と言われる機会よりも、おカネがあるからしあわせとはかぎらない」と言われる機会のほうが多いという前提で、このことについて考えてみることにする。

どうして、「おカネがないから、しあわせとはかぎらない」と言われる機会が少ないのか? 

それは、人々の頭のなかで、おカネがないという状態が、ふしあわせな状態と結びついているからだ。「おカネがなくても、ふしあわせとはかぎらない」という言葉のほうが、通りがいいだろう。

これは、人々がおカネがある状態と、しあわせな状態に強い結びつきがあると考えているから起こることだ。ようするに、「おカネがあるほうが、しあわせなんじゃない」と考えているから、そのような発想をする。

例外的に、おカネがあっても、しあわせではない人がいる。

おカネ自体が、しあわせを運んでくるわけではない。これは、「おカネ自体が、しあわせをかならず運んでくるわけではない」という意味だ。「かならず」という言葉が入っていなくても、意味的には「かならず」という言葉が入っている場合とおなじになる。

おカネ自体が、しあわせを運んでくることのほうが多いのである。

それは、おカネがあると、可能になることが多いからだ。

おカネがあれば、自分がやりたいことが、可能な状態になるとする。

たとえば、おカネがあれば、医学部に進学するということが可能な状態になる。

もちろん、おカネは進学のためのひとつの要素なので、ほかの要素の影響をうけて、医学部に進学できないかもしれない。けど、おカネがない状態だと、医学部に進学できないのであれば、おカネがある状態というのは、おカネがない状態よりも有利な状態なのである。

つまり、おカネがあるということ自体が、しあわせになる確率をあげるのである。

参入できるかどうかということが、おカネのあるなしで決まるとする。おカネがあれば参入できる。おカネがなければ参入できない。

おカネがあれば、参入できるのだから、参入したあとしあわせをえやすくなる。おカネがなくて、参入できないのであれば、参入できないのだから、そのあとのしあわせは、その時点でえられないということが決まってしまう。参入できないのだから、参入したあとにあるかもしれないしあわせの可能性はなくなってしまう。

2024年9月11日水曜日

「足が長いからといって、しあわせとはかぎらない」

それから、 第1要素のおカネ、第2要素の妻、第3要素の子ども、第4要素の仕事、第5要素の友人という要素を考えた場合、「Xがあっても、しあわせとはかぎらない」とは言える。

これは、なにも、「おカネ」だけではないのである。

「おカネがあっても、しあわせとはかぎらない」とだけ言われることが多いのだけど、それは、なにかしあわせにかかわる要素すべてに言えることなのだ。「あっても」が「いても」とか「もっていても」とか「していても」とかわる場合もあるけど、意味はおなじだ。

たとえば、「妻がいても、しあわせとはかぎらない」「子どもがいても、しあわせとはかぎらない」「仕事をしていても、しあわせとはかぎらない」「友人がいても、しあわせとはかぎらない」「いろいろなものをもっていても、しあわせとはかぎらない」というようなことが、言える。

「Xがあるから、しあわせとはかぎらない」という表現は、たいていの場合において成り立つ。「Xをもっているから、しあわせとはかぎらない」という表現もおなじである。「Xだからといって、しあわせとはかぎらない」という表現もおなじである。

たとえば、「手が大きいからといって、しあわせとはかぎらない」「腕が長いからといって、しあわせとは、かぎらない」「足が短いからといって、しあわせとはかぎらない」「顔がでかいからといって、しあわせとは、かぎらない」……などなど。

これらの文は、文としては正しい。「おカネがあるからといって、しあわせとはかぎらない」……文としては正しいと言えるだろう。しかし、その正しさは、ほかの要素……しあわせとなんとなく関係がありそうなほかの要素にも、成り立つ正しさなのである。

まあ、足の短さよりも、「おカネ」のほうが「しあわせ」と関係がありそうだからこそ、「おカネがあるからといって、しあわせとはかぎらない」と言われる機会のほうが、「足が短いからといって、しあわせとはかぎらない」と言われる機会よりも多い。

「足が長いからといって、しあわせとはかぎらない」と言ったほうがよかったかな。


「おカネじゃ、しあわせは買えない」「だから、おカネとしあわせは関係がない」

  「おカネじゃ、しあわせは買えない」「だから、おカネとしあわせは関係がない」と言えるかどうかというと、言えない。 「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言ってしまっているのだから、おカネとしあわせは関係があると言っているのとおなじだ。 「おカネじゃ、しあわせは買えない」というのは、おカネと、しあわせに関係があると言っていることになる。おカネとしあわせの関係について 「おカネじゃ、しあわせは買えない」と述べているのである。ぜんぜんわかってない。 「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っている時点で、おカネとしあわせのあいだには、関係性があると言っているのである。どうして、「だから、おカネとしあわせは関係がない」ということになるのか? 関係性についてのべているのに、関係がないとは、なにごとか?

おカネじゃ、しあわせは買えないというのは、おカネでは、絶対にしあわせは買えないということだから、おカネとしあわせの「絶対的な関係性」についてのべている。

「おカネじゃ、しあわせは買えない」と「おカネでしあわせを買えるとはかぎらない」

 「おカネがあれば、しあわせになれる」というのは、無自覚な『100%詐欺』が成り立っていて、「おカネがあれば、100%の確率で、しあわせになれる」ということを言っているのである。

すべてのおカネがある状態において、人は、かならず、しあわせになれるということを言っているのである。

けど、実際にはそんなことはない。

おカネは、しあわせを構成するかもしれない重要な要素だけど、おカネがあれば、かならず、しあわせになれるとはかぎらないのだ。

だから、100%の関係は成り立っていない。

なので、「おカネがあればしあわせになれるとはかぎらない」ということが言える。あるいは、「おカネがあれば、しあわせだとはかぎらない」ということが言える。

しかし、おカネだけではなくて、しあわせに関係がありそうな要素すべてにこのことは言える。

たとえば、健康だ。「健康だから、しあわせとはかぎらない」と言える。たとえば、恋人だ。「恋人がいるから、しあわせとはかぎない」ということが言える。たとえば、仕事だ。「仕事をしているから、しあわせだとはかぎらない」ということが言える。

むしろ、ひとつの要素だけを取り上げて、その要素が満たされていれば、しあわせなのだと考えること自体がおかしい。

しかし、たとえば、「おカネがあれば、しあわせだとはかぎらない」と言う人がいたとする。Aさんだする。

ほかの人は「おカネがあればしあわせだと考えている」とAさんは、考えて、そのような発言をするのだ。ほかの人というのは、かなりの多数者なのである。Aさんの頭のなかの設定では、かなりの多数者なのである。

だから、あえて、「おカネがあれば、しあわせだとはかぎらない」ということを言わなければならなくなる。あるいは、言ってみたくなる。

自分ではない「ほかの人」は「おカネがあれば、しあわせだ」と考えているけど、自分は「おカネがあれば、しあわせだとはかぎらない」と考えているということを言いたくなる。

「おカネがあれば、しあわせだおカネが、しあわせを保証するとはかぎらない」ということもおなじで、ほかの人が「おカネが、しあわせを保証すると考えている」と、Aさんが考えているから、Aさんが、そのように言うのである。

また、「おカネじゃ、しあわせは買えない」という場合も、ほかの人が「おカネでしあわせを買える」と考えていると、Aさんが考えているので、ほかの人に対して、そのような発言をするのである。

*     *     *

おカネでしあわせが買える場合もあるのである。しかし、おカネでしあわせが買えない場合もあるのである。100%じゃない。「おカネでしあわせを買える」というのは、これまた、100%詐欺が成り立っていて、「100%の確率で、おカネでしあわせが買える」ということを言っていることになるのである。

ようするに、「おカネでしあわせをかえる」という文は、「100%の確率で、おカネでしあわせが買える」という文と意味的に等価なのである。

「100%の確率で、おカネでしあわせが買える」という文は、「おカネでしあわせが買えない場合がない」ということも言っているのだ。そして、おなじように「おカネでしあわせを買える」という文も、おカネでしあわせが買えない場合がないということを言っているのだ。

なので、「おカネでしあわせを買えるとはかぎらない」という文が、とりあえずの、正解になる。「おカネでしあわせを買えるとはかぎらない」という文の意味を考えると、「おカネでしあわせを買える場合もある」ということになるのである。

100%じゃない。

「おカネじゃ、しあわせは買えない」という文の場合もおなじで、ほんとうは、Aさんは「おカネじゃ、しあわせを買えるとはかぎらない」と言うべきなのだ。

ところが、Aさんは「おカネじゃ、しあわせを買えるとはかぎらない」という意味で「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているのだ。Aさんが、誤解をしている。

「おカネじゃ、しあわせは買えない」という文と「おカネじゃ、しあわせを買えるとはかぎらない」という文は、意味的に等価じゃない。

ところが、等価だと思って、Aさんは「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているのである。自分で自分が言っていることの意味が、わかってない。

2024年9月10日火曜日

「マイナス(不幸感増大)」「ゼロ地点(幸福でも、不幸でもない状態)」「プラス(幸福感増大)」ということを考えてみよう

たとえば、夏の暑い日、エアコンの冷房をつけられる人と、つけられない人がいるとする。その場合、エアコンの冷房をつけられる人は、おカネで、「清涼感」を買ったということになる。

エアコンの冷房をつけられない人は、おカネがないので、「清涼感」を買えないのである。

清涼感と書いたけど、これは、「快」だ。そして、おカネで、清涼感を買えない状態は、「不快」な状態なのである。

もし、おカネを使うことで、「すずしい状態」を買うことができ、すずしい状態が「快」をもたらすのであれば、おカネを使うことで、「快」をえたということには、ならないだろうか?

なると思う。

そして、不快な状態が続くと、からだに悪い影響が出るので、からだに悪い影響が出ないようにしたということになる。ようするに、おカネで、からだに悪い影響が出ないようにしたのである。

いっぽう、たとえば、おカネがなくて、エアコンを設置できない人は、「すずしい状態」を買うことができず、すずしい状態を買うことができる人よりも、体調が悪くなる確率があがるのである。あるいは、熱中症になる確率があがるのである。

おカネで「不快」な状態になることをさけた。

これは、おカネで「幸福」を買ったのとおなじではないか?

おカネを使って、体調が悪くなる状態をさけたのであれば、おカネを使って「体調を良好な状態にたもつ可能性」を買ったのではないか。

もちろん、エアコンをつけていたって、体調が悪くなることはあるので、ひとつの体調が悪くなる原因をつぶしただけなのだけど、それでも、暑いと感じて体調が悪くなっているのにもかかわらず、それをさけることができない状態よりも、よりよい状態なのである。

ようするに、不調になる確率をさげたのである。

熱によって不調になるということを考えれば、相対的に、「しあわせである状態」を買ったのだ。あくまでも、相対的なことだ。熱ではないほかの理由で、体調が悪くなることはあるので、あくまでも、熱に限った話だ。

それでも、不安な要素をひとつ消したということは、不安な要素がある状態よりも、安心感がある状態なのである。

おカネを使って、安心感を買ったのである。

*     *     *

おカネによって、不快な状態になることをさけられるのであれば、相対的には、おカネで、幸福感を買ったということになる。

「マイナス(不幸感増大)」「ゼロ地点(幸福でも、不幸でもない状態)」「プラス(幸福感増大)」ということを考えてみよう。

暑い部屋のなかで、暑さに耐えて生きることは、マイナスだ。

まず、からだがしんどい。気分が悪い。ともかく、不快だ。それを、エアコンの設置と、エアコンの運用によって、さけることができたのであれば、ゼロ地点にもどっただけなのだけど、相対的には、プラスなのだ。

おカネがなくて、エアコンを設置できずに、暑さのなかでくるしんでいるよりも、エアコンを設置して、エアコンを運用して、暑さという問題を解消できた状態は、プラス状態なのだ。

これは、不幸になるということをさけたという意味で、相対的に幸福なのだと言っていい。

カネがなくてそもそもエアコンを設置できないということを書いたけど、エアコンはあるけど、電気代を気にして、なるべく、エアコンを運用しないようにする場合も、おなじである。

電気代を気にして、エアコンをつけられないのであれば、それは、相対的にマイナスなのである。不快な状態なのである。一般的には、不快な状態が長く続くと、病気になりやすくなる。病気になると、幸福を感じる機会が減り、不幸を感じる機会が増える。

電気代というのは、おカネではないか。おカネで、不快な状態をさけたのである。これは、おカネが、幸福感に影響をあたえるということだ。

たとえば、頭がおかしい上司のもとで働いているとする。とても、ストレスフルな状態だ。不愉快な状態でいる時間が長くなる。不愉快な出来事が発生する機会が増える。

生活のためにお金をかせがなければならないから、なかなか、仕事をやめられずにこまっているとする。

おカネがあれば、仕事をやめられるとする。

Cさんは、おカネがあったので、頭がおかしい上司がいる職場で働くことをやめて、リタイアしたとする。Dさんは、おカネがないので、頭がおかしい上司がいる職場をさることができないとする。

その場合、Cさんは、おカネで、相対的なマイナスを解消したのである。

これは、ゼロ地点にもどっただけだけど、おカネによって、不幸な状態から離脱することができたのだから、おカネで相対的な幸福感を買ったということになる。

マイナスからゼロ地点にもどっただけで、ゼロ地点は、特に幸福であるわけではないけど、マイナスからゼロ地点にもどっただけでも、幸福感がしょうじるのである。

なので、おカネがあるということは、幸福感に影響をあたえる。

Dさんにくらべれば、Cさんは、幸福なのである。

ただし、頭がおかしい上司のもとで働くというマイナスをさけられたという意味で、幸福だと言っているだけだ。ほかのことでは、DさんのほうがCさんよりも、幸福かもしれないのである。

しかし、Cさんは、おカネで、いやな思いをすることをさけることができたので、その点においては、おカネで、相対的な幸福感を買ったということになる。

*     *     *

まあ、一時的な幸福感と、幸福は、ちょっとちがう。幸福感を感じることが多く、不幸感を感じることが少ないか、あるいは、不幸感を感じることがない状態で暮らすことができれば、幸福だということにする。

快と幸福感については、人によってちがうと思う。快と幸福感をおなじ意味の言葉としてとらえている人もいるかとは、思うし、快と幸福感をちがう意味の言葉としてとらえている人もいると思う。基本的には、幸福へと向かう予感がある快を幸福感と言っているのではないかと、思う。幸福へと向かう予感がある快を幸福感だととらえている人は、不幸へと向かう予感がある快は、幸福感ではないととらえているので、快と幸福感の内容は一致しない。


今日

 あーー。つかれた。今日は、もう、いいや。ちょっと早いけど、段ボールのゴミを出してきた。あーー。つかれた。このさき、数時間は眠れないと思うけど、特になにもしないで、すごそうと思う。つまり、横になって、すごす。

ほんとうに、よく、やってきたなぁ。ほんとうに、ここまで、よくやってきたなぁ。もう、つかれた。まあ、これからも書きたいことは書くけどね。

2024年9月9日月曜日

現実というゲームがどうしてつらいのかというと、条件が悪いからだ

現実というゲームがどうしてつらいのかというと、条件が悪いからだ。

だから、条件がいい人は、現実というゲームが楽しいということになる。

現実というのは、案外システムに依存しているところがある。

「みんながそう思っているからそうする」という部分がある。「目下のものは、目上のものの、言うことをきくべきだ」ということが暗黙のルールになっているのであれば、その、暗黙のルールを守らないとペナルティーをかされるので、暗黙のルールに従わかなければならなくなる。

けど、目上のものが、いい人なら、それでいいけど、目上のものが、悪い人だと、目下のものは、おもしろくない気分になる。これは、決まっている。

ゲーム内のルールが、現実の「不愉快な感じ」を引き起こす。

条件が悪い人は、いろいろと、不愉快な思いをするようになっているのだ。条件が悪い人は、さまざまな場所で、不愉快な思いをするように、ルールが決まっている。

そういうルールが決まっているゲームなので、条件が悪い人にとっては、「やりたくない」ゲームなのだ。

*     *     *

「目上のものが、よくないものであったばあいは、そこをやめて、目上のものが、よいところに行けばいい」と思う人がいるかもしれない。

けど、この例は、ただの例だ。条件というのは、無数にあるのである。どれを条件とみなすかで、話がぜんぜんちがってくる。いいうちに生まれたかどうかということも、条件のひとつだ。

けど、この条件は、さまざまな、下位の条件を含んでいるのである。ひとつの条件としてカウントされているものが、ほんとうに、ひとつの条件なのかということは、考えなければならないポイントだ。

職場と生まれの家。

上のものがダメだった場合、どっちのほうが、のがれやすいか?

職場のほうが、のがれやすい。

「自分が動いて目上のものがよいところをさがせばよい」と条件に鈍感な人は言うけど、……生まれの家に悪い「目上のもの」がいる場合は、なかなか、かえることができないというとになるのである。

だから、ゲームの条件が悪いなら、悪い条件をいい条件にかえればいいということは、アドバイスにならない。その悪い条件は、かえられるのかどうかということが問題になる。

*     *     *

「自分が動いて目上のものがよいところをさがせばよい」というようなお気楽な発言は、しばし、条件が悪い人のこころを傷つける。

こういう発言をする人は、条件のかえやすさ、条件のかえにくさという、条件を無視してしまっているのである。

あるいは、条件の重要性を無視してしまっている。

条件が、どのくらい、「その条件下の人」に影響をあたえるのかということの評価がまちがっているのである。まちがっているから、お気楽な発言ができる。

*     *     *

難民がきて、治安が悪くなった……とする。お気楽な人は「だったら、安全なところ引っ越せばいい」とアドバイスをする。けど、そのアドバイスは、さまざまな条件を無視したものなのである。そりゃ、おカネがなくて、引っ越せない人だっているだろ。

「おカネを使う行為全体」

「おカネじゃ、しあわせは買えない」というのは、おカネがなにに使われるのか、なにも言及してないという意味で、抽象度が高いのである。

けど、これが、発言者は、おカネがあるのに、不幸な状態を想定して、そういう感想?を述べているわけで、発言の者の頭のなかには、おカネがなにに使われているのかということについて、わりと、具体的で限定的なイメージがあるのである。

そして、抽象度が高いので「おカネじゃ、しあわせは買えない」ということを否定するときに、なんとなく、へんな感じがするのだ。ようするに、内容を限定して言ってくれれば、「そうですよね」ですむのだけど、内容を限定せず「おカネを使うなにか」ということになってしまっているので、否定しにくいのである。

ようするに、具体的な内容が想定されていない、たんなる「おカネ」というのもについて、言及されているために、否定をするとなると、全体的な否定しかできなくなってしまうのである。

全体的な否定というのは、ようするに、抽象度が高い「おカネを使う行為全体」ということについて、否定するしかないというような状態になってしまう。

ようするに、否定するなら……おカネを使う行為全体が、しあわせをもたらさないということになってしまうのである。

否定するなら、……「おカネで、しあわせは買える」というような内容になってしまうのである。

しかし、しあわせは、おカネでは買えないこともある。だから、そこで、問題になっている具体的な内容が、はっきりしないまま、「全体的な否定」しかできない状態になってしまう。最初の発言者が「おカネじゃ、しあわせは買えない」ということを言うので、否定する場合も、全体的な否定になってしまうのである。

もともと、「おカネじゃ、しあわせは買えない」と発言をしている人の頭のなかには「破滅的なおカネの使い方」の具体的なイメージがあるのである。ようするに、具体的な内容が、頭のなかにある。

けど、それは、語られないのである。

もちろん、ひとつ、ふたつの例としては、語られるかもしれないけど、それは、いかにも、しあわせそうじゃないおカネの使い方の例なのである。

たとえば、『紀州のドン・ファン』事件。おカネがたっぷりあったけど、人間関係には恵まれず、妻に殺されてしまう。そういうところを想定して、そういうおカネの使い方を想定して、「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているのである。

紀州のドン・ファンに関する限り、「たしかに、おカネじゃしあわせは買えないよね」と肯定してあげてもいい。

けど、それは、おカネを使う行為全体について、おカネを使う行為全体が、しあわせとは関係がないと言っているわけではないのである。

問題なのは、問題のあるかねもちが脳内で想定されているにもかかわらず、それが、「おカネがあれば、しあわせとは限らない」というように「おカネ」の問題になっているところなのである。一般化するべきではないところで、特殊な例を一般化してしまっている。そして、特殊な例を一般化したということについて、特に言及しないところが問題なのである。

 


この気分……

 あーーあ。この気分……。あんまり、いい気分じゃないなぁ……。ほとんどの人の、鈍感さには、ほんとうに、あきれかえった。あきれかえって、少ししかものが言えない。それについて、少ししかものが言えない。あーー。ほんとうにつかれたなぁ。ほんとうに、つかれた。実際に始まってみないと、明るい気持ちになれないなぁ。ほんとう、この世で、いろいろとありすぎた。

ほんとうに、ずっと言ってきたのに……。

2024年9月8日日曜日

「……みぎもひだりも、ボロボロ」

「 ワクチン接種!みぎ!ひだり!」「……みぎもひだりも、ボロボロ」「いいことナッシング」

ほんとうに、ひどい人たちにかこまれた人生だったなぁ。まあ、ちらほら、例外的にいい人たちがいる。この人たちは、こころがきれいだ。 


「あとは、楽に暮らそう」

 「もう、いいかな」「あとは、楽に暮らそう」「もう、いいや」

「おカネを使って、Xをすれば、幸福になる」

 おカネを使ってなにをするのかということが、重要だ。しかし、「おカネじゃ、しあわせは買えない」とか「おカネでは、幸福は買えない」と言う場合は、おカネを使ってなにをするのかということが、欠落しているのである。無視されているのである。

「おカネでは、幸福は買えない」とAさんが言うときの、Aさんの頭のなかにある、おカネを使ってやる行為はなんなのかということが、問題になる。

Aさんの頭のなかにあるのは、高級な飲み屋で1日で100万円使うようなことなのである。それならば、一時的な快楽は得られるかもしれないけど、幸福は得られない。

この一時的な快楽を幸福感というのであれば、幸福感なのである。

しかし、その幸福感をえるためにやることが、破滅的な行為である場合は、幸福にはならないのである。

たとえば、覚せい剤で一時期的に幸福感をえられる人がいるとする。これも、別に、覚せい剤で、一時的な幸福感をえられない人もいるわけだから、人によってちがうということになるのだけど、とりあえず、覚せい剤で一時的に幸福感をえる人がいたとする。

この人は、継続的に覚せい剤を打ち続ければ、やがて、不幸になることが目に見えている。

どうしてかというと、覚せい剤の継続的摂取が、脳みそに「破滅的な」影響をあたえるからだ。なので、「おカネでは、幸福は買えない」と言うときの、実際の行為が問題になる。

ようするに、「おカネでは、幸福は買えない」と言うときの、おカネでやる実際の行為は、幸福になれるかどうかに影響をあたえるのだから、捨象するべきではない。

「おカネでは」ということになっているので、文としては、なかなか説明しにくい部分があるのだけど、おカネでやる行為を問題にしてないということは、よくないことなのである。

「おカネでやる行為」というのは、抽象化しすぎなのである。おカネで、幸福は買えないと言うけど、そのおカネでなにをするのかということは、決定的に重要だ。

なので、おカネでやる行為というものを抽象的に考えてはいけないのである。

そりゃ、子どもをスキーに連れて行ってやることだって、子どもに栄養がある食事を提供することだって、本人が覚せい剤を打つことだって、子どもに覚せい剤を打つことだって、おカネがかかることであるから、おカネを使ってやることなのである。

「おカネで、幸福になるとはかぎらない」と言った場合、じゃあ、おカネでなにをするのかという部分が、欠落しているのはよくないことなのである。

「おカネを使って、Xをすれば、幸福になる」と言った場合、Xの部分が、重要なのである。

「Xはなんでもいいけど、ともかく、お金を使ってXをすれば、幸福になる」と言ったって、それでは意味がない。Xの意味内容を特定できないので、話にならない。

「なにかそれ」では、抽象度が高すぎて、最初から、話にならないのだ。

おなじように、「おカネを使って、Xをしても、幸福になるとは限らない」ということも、Xという行為がいったいなんなのかわからないままなのであれば、話にならないのである。

「おカネを使ってXをする」ということを、「おカネで」と言いかえた場合もおなじだ。

「おカネで、幸福になるとはかぎらない」……抽象度が高すぎて、実際にはなにを言っているか、特定することができない。

「おカネを使って、なにかをすることで、幸福になる」「おカネを使って、なにかをすることで、幸福になるとはかぎらない」……。どっちも、抽象度が高すぎて、それらの文言が正しいのかどうか、議論をすることさえできない。

2024年9月7日土曜日

うーーー

 「しかし、つかれたなぁ」と感じる。じつは、ネズミが入った形跡がある。これ、2日前からおかしいと思っていたのだけど、入っていると想定して行動しなければならなくなった。ゴミの日に、地域新聞のことで、いろいろとあって、ドアをしめたのだけど、よくしめなかった感じかある。これが、ドアがまた、問題があるドアで、しっかりしめたつもりでも、ときどき風であいてしまうのだ。でっ、鍵をかければ、当然、かっちりとしまるのだけど、地域新聞のことで頭がいっぱいになり、カギをきっちりとかけないまま、眠ってしまった日が、あった。その日、起きたあと、ドアがあいていたことに気がついて、「これはやばい」と思ってすぐにしめた。でっ、見たところ、入った感じがなかったので、「だいじょうぶだろう」と思ったのだ。蚊取り線香のにおいは、もう、だいぶまえに、きれていて、部屋中に蚊取り線香のにおいをつけておくと、いちおうの防御にはなる。けど、蚊取り線香の煙が、ぼくにも、影響をあたえるので、蚊取り線香はやめることにした。ともかく、ネズミが入った疑いがある。もう、いやだなぁ。あーー。また、ふりだしかぁ。

ともかく、つかれた。あとは、まあ、シェディング防御のことはあきらめて、近くにアパートを借りるか、あるいは、引っ越し先を買うしかないなぁ。 

むかしは、うちのドアも、ちゃんと、しまるドアだったんだよ。けど、しまったように見えても、じつはしまってないことがあるドアになってしまった。これ、別にカギをかけなくても、普通にしめれば、しまった状態になるドアだったんだけど、いまはちがう。これもかえたかったのだけど、じつは、もう、そういうドアが売ってないので、かえることができなかったのだ。ぐいっと、ひっぱらないと、風であく可能性があるドアなんだよね。むかしは、普通にしめれば、普通にしまって、風であいてしまうなんてことはなかった。

おカネ以外のたいせつなものに、おカネが影響をあたえているということも無視してしまっている

「おカネで、しあわせは買えない」と言っている人は、自分がおカネもちだということを無視して、なおかつ、おカネ以外のたいせつなものに、おカネが影響をあたえているということも無視してしまっている。

おカネがあるうちに生まれて、医学部に通い、医者になった男性がいるとする。この人は、おカネがたっぷりあるわけだ。それは、小さいときもおカネがたっぷりある生活をしていたし、いまも、おカネがたっぷりある生活をしているということだ。

幸福の要素として、(1)おカネ、(2)妻、(3)子ども、(4)仕事、(5)友人というものについて考えてみよう。

この男性は、(1)おカネ、(2)妻、(3)子ども、(4)仕事、(5)友人も「もっている」状態だ。不足してないのである。そして、「おカネじゃしあわせはかえない」と言っている。

おカネをもっているけど、破綻した生活をしている人のことを見て、そのように言っているのだ。

たとえば、結婚できず、歳をとったあとも、カネの力で愛人をつくり、その愛人に殺された人がいたとする。

とりあえず、Bさんだとする。そのBさんのすがたを見て「おカネじゃしあわせは買えない」と言っている。

けど、自分は、すべてもっているのである。まあ、みたされていると言ったほうがいいか。

たとえば、Bさんは結婚できなかったけど、医者になった男性は、結婚をしている。医者になった男性は、そのとき、自分がおカネもちだったということの有利性についてはまったく考えてないのだ。

そして、医者になった男性は、結婚生活も順調で、こどもともうまくやっている。

おカネがあるうちに生まれて、医学部に通い、医者になった男性のことを、Aさんよぶことにする。

Aさんは、(1)おカネ、(2)妻、(3)子ども、(4)仕事、(5)友人というものを、全部、「もって」いる。

「もって」いるという言い方は、要素によっては、日本語として、不自然だ。

まあ、妻がいるし、妻との友好的な関係がある。子どもがいるし、子どもとの友好的な関係がある。仕事をしていて、部下との友好な関係がある。ちなみに、Aさん本人が、医院長だ。社会的に地位の高い仕事をしていて、実際の仕事場では、トップだ。そして、友人がいるし、友人との友好的な関係がある。

ところで、たとえば、子どもをキャンプに連れて行ってやったとする。子どもと、しあわせな時間をすごした。

これは、ただではできない。

子どもをキャンプに連れて行ってやることには、カネがかかる。子どもにカヌーにのるという体験をさせてやったとする。まあ、カヌーに連れて行ってやるという表現が適切なのであれば、カヌーに連れて行ってやったとする。

これも、ただではできない。子どもと素敵な時間をすごした。子どもをスキーに連れて行ってやったとする。子どもと素敵な時間をすごした。

これも、ただではできない。

おカネがかかっている。Aさんは、おカネで、子どもとのしあわせな時間を買っている。Aさんは、おカネでしあわせを買ったのだ。

どうして、そのAさんが「おカネじゃしあわせは買えない」と激しく主張するのか?

Aさんは、おカネで、しあわせを買っているじゃないか。

*     *     *

とりあえず、妻と結婚したとする。これは、Aさんがカネもちだったということと、無関係ではないはずだ。Aさんが医者の息子で、不自由なく育ち、医学部に入れてもらった。そして、医者をやっている……。

おカネがある。

おカネがあるということは、結婚に影響をあたえる。もちろん、なかには、おカネなんて関係がないと思っている女の人もいる。Aさんの妻も、おカネなんて関係がないと思っているかもしれない。

けど、一般的に、カネがあるほうが、カネがないよりも、結婚するということにおい、有利だ。これは、結婚相談所で、主に、男性のほうの年収が重要な情報になるということと一致している。

もちろん、男性の年収を気にしない女性だっているけど、男性の年収を気にする情勢のほうが多い。男性の場合、年収が高いほうが、有利に話をすすめられる。

結婚したあと、妻との生活に、おカネがかからないわけではない。

妻との友好的な関係を維持するために、おカネが必要であるということは、否定できない。有効的な関係を維持して生活をしている……。おカネは関係がある。

*     *     *

第1要素の「おカネ」が、第2要素の妻、第3要素の子ども、第4要素の仕事、第5要素の友人に、影響をあたえているのではないか思う。もちろん、おカネがある場合は、プラスの影響をあたえ、おカネがない場合は、マイナスの影響をあたえることになる。

しかし、例外はある。

おカネがあることがマイナスの影響をあたえることもあるし、おカネがないことが、プラスの影響をあたえることだって、あるかもしれない。

ようするに、例外的には、反対のことが起こる可能性がある。

しかし、その確率は低い。おカネがある場合は、プラスの影響をあたえる確率のほうが高い。おカネがないほうが、マイナスの影響をあたえる確率のほうが高い。

ともかく、未成年時代のおカネの影響も含めて、第1要素のおカネが、ほかの要素に影響をあたえるのである。ならば、おカネがあることや、逆におカネがないことは、ほかの「幸福の要素」に影響をあたえるのであって、影響をあたえないのではない。

「おカネがない人は、おカネがないような考え方をしているから、おカネがないのだ」

「おカネがない人は、おカネを憎んでいるからおカネがないんだ」ということが、言われる。

精神世界には、こういう言説がいっぱいある。

ようするに、「貧乏は、その人の、気持ちの持ち方がうみだしたものだから、気持ちの持ち方をかえれば、おカネもちになれる」という意見だ。

しかし、これは、現実を無視してしまっている意見だ。

現実の条件を無視して、「おカネがない人」のせいにしてしまっている。

「おカネがない人は、おカネがないような考え方をしているから、おカネがないのだ」と言っているわけだけど、ほんとうだろうか?

どうして、この人たちは、おカネのあるうちに生まれたとか、おカネがないうちに生まれたというような基本的な条件を無視してしまうのか?

文化的な資本という点でも、おカネがあるうちのほうが、おカネのないうちよりも、ずっとずっとずっと、有利なのだ。

そして、学生時代が長くなった文明では、景気変動の影響をうけるとはいえ、おカネがあるうちの子どものほうが、おカネがないうちの子どもよりも、ずっと有利であることにはかわりがない。

だから、成人するまでの時間というものを無視してしまっていいのかという問題がある。おカネがない人……と言った場合、その時点でおカネがない人は「こうだ」という話になる。

成人するまでの時間はまったく考えてない。

成人するまでの時間に経験したことが、その後の年収に影響をあたえることは、事実だ。

けど、そういう基本的な事実を無視して、「おカネがない人は、こうだ」と言ってしまうのだ。これは、おかしい。

 

雑感

 一般人の鈍感さを考えると、あと2年ぐらいかけるつもりだなぁ。もちろん、政権をとったあと2年間だ。

NYダウはさがってはいるけど、たいしたさげじゃない。現時点で-408.89ポイント。

*     *     *

鈍感なやつのために、へたくそな?お芝居をしている。いいかげん、気がつけ。鈍感なやつらが、足をひっぱっている。鈍感なやつらが多いから、計画がおくれている。

2024年9月6日金曜日

まあ、どうなるか、ほんとうに見もの

 さーー。今夜、NYダウがさがるのかどうか、見ものですねーー。もちろん、さがると言っても、暴落するかどうかということでーーす。なぜか、丁寧語。以降、普通の書き方で書く。

まあ、どうなるか、ほんとうに見もの。どうなるか注目すべきイベントだ。

 

雑感

 とりあえず、ネットスーパー商品の受け取りをした。これでもけっこうたいへんだ。今回は、さらに、冷蔵庫のなかを掃除した。この冷蔵庫は中華製の冷蔵庫で、結露した水が、下側に流れるようになっている。なので、庫内の床部分に水がたまるようになっている。で、この水をふいた。ついでに、いろいろとふき掃除をしておいた。

ともかく、いろいろとたいへんなのだ。たいへんだと感じるのは、ネズミ事件や殺虫剤事件の床のことを考えているからである。これが、普通の清潔な床だったら、気分的に楽なのだ。はやく、普通の台所があるうちに引っ越したい。

昨日、外に出て思ったのだけど、体力が思った以上になくなっている。やっぱり、歩かなければならないのだ。ところが、シェディングが気になるので、おちおち買い物にも行けない。当然、散歩も、厳禁だ。

ともかく、住みにくくなった。

まあ、いろいろと買えるので、よしとしよう。

ともかく、鈍感な人は、はやく、気がついてほしい。そして、自主的に解毒してほしい。

基本的に、ちゃんと、問題が内在している

 中間層の没落なんだけど、これは、グローバリズム的政策の帰結なんだよ。

まあ、コロナ騒動も、あいつらが引き起こしたことだからなぁ。新型コロナ対策費と、日本国民に対する生活保護費を天秤にかけて、日本国民に対する生活保護費をケチれと言っているような……アホな連中。

まったくわかってないね。

グローバリズム的な政策というのは、まずい問題を、次から次へと引き起こすものなんだよ。基本的に、ちゃんと、問題が内在している。

たとえば、太陽光パネルなんだけど、深刻な公害問題を引き起こす。太陽光パネルを設置しちゃいけないのである。とくに、メガソーラー(大規模太陽光発電)なんて、環境を破壊することが決まっているものなのである。ぜんぜん、クリーンじゃないの……。

電気自動車もそうなんだよ。ぜんぜん、クリーンじゃないんだよ。

最初から、問題が内在している。やれば、問題が噴き出すことがわかっている。

あとで……問題が噴き出すんだよ。

だれも責任なんてとらないよ。とれないのだから。

一度作っちゃったら、どうやって処分していいかわからないような代物なんだよ。将来、自然を破壊することが決まっているものを、クリーンエネルギーのために設置しましょうとすすめるのが、あいつらのやり方だ。

これ、もちろん、「ダメになることがわかっているから」すすめているのである。

だまされちゃっている人は、まるで気がつかない。やられちゃったあとも、ぜんぜん気がつかない。

どんだけ、鈍感なんだよ?

 

しかし、これしきのことも、「はだ」でわからないとは……

 トランプはまともなことしか言ってない。普通に、資本主義と市場経済を維持して、労働者にがんばって働いてもらおう……みたいなことしか言ってないんだよな。

中間層の没落というのは、アメリカでも問題になっているところだ。これは、グローバリズム的な政策の結果だ。グローバリズム的な政策というのは、国を破壊するためのものなのである。

なので、順調に「おかしくなる」。

これ、みんな、ほとんどの人が気がついていないのだけど、普通の政治家というのはまともじゃないのである。なんで彼らの悪意に気がつかないのか。

これ、ほんとうに、フランシスコ・ザビエルみたいなものなのである。

ちゃんと、悪い意図があって、実行している。フランシスコ・ザビエルの言うことを、大名がきいてしまってはいけないのである。まあ、大名というのは、その地域の、トップだよね。領主なんだから……。

はっきり言うと、フランシスコ・ザビエルの布教と現代の移民政策は、かさなるところがある。おなじではない。あくまでも、かさなっている部分があるだけ。

しかし、これしきのことも、「はだ」でわからないとは……。「キミらはほんとうに、鈍感だな」と言いたくなる。ほんとうに、まったくなにも、見えてないんだな。出来事のつながりが見えてないんだなぁ。

2024年9月5日木曜日

はやくしてくれ

 アメリカは、動いているみたいだなぁ。はやくしてくれ。はやくしてくれ。

 

かゆさがひと段落したところで、歩いて買い物に行くことにした。

 あのあと、自転車をとりに、庭に出ようとしたのだけど、自転車置き場に行くまえに、通らなければならないところに、がんがん、植物がはえていて、植物をぬいたり、おったりしないと、まえにすすめない状態だった。

なので、植物をおったり、ぬいたりした。

この植物というのがよくわからない植物で、なんというのか、わからない。雑草というと、イメージがちがいすぎるので、雑草とは言いたくない。

けど、雑草のたぐいだ。

けど、くさって感じじゃないんだよね。

まあ、一番近いのは、アジサイの花がない、アジサイかな。

けど、茎のところがだんだん、木の枝のようにかたくなるのだ。色も、緑から、茶色にかわる。

ともかく、たおしてたおしてたおして、まえにすすんだのだけど、手を洗いたくなったので、一度、二階にあがることにした。

ほんとうは、これ、突然やる気になったので、やっちゃったけど……ロング手袋をしたほうがいい。手首や腕がかゆくなって、なんかもう、自転車で、外に出る気持ちがなくなった。

というわけで、かゆさがひと段落したところで、歩いて買い物に行くことにした。

でっ、まあ、最初は、「ひさびさにハンバーガーでも食べるかな」と思ったのだけど、店のなかに、たしょうの人がいたので、「まつのは、いやだな」と思って、ハンバーガー屋には入らなかっよ。

ともかく、シェディングをさけなければならないので、「なるべく」人に近づかないようにして、買い物をすませた。

 

*     *     *

 

「おりゃーーおりゃーおりゃーー」と声は出さなかったけど、こころのなかで言って、夢中になって、いろいろと引っこ抜いたり、おったりしたので、つかれた。竹も、細いやつは、おった。植物の成長がものすごい。


 

 

自転車

 なんとなくだけど、自転車で、まるまる荘近くの、スーパーに行きたい。市のゴミ袋を買いたい。その他、もろもろのものを買いたい。コースとしては、おなじみのコースなんだけど、ずっと、行ってない。

どのみち、つらい、思い出ばっかり、つまっている道なんだよなぁ。行ったって、しかたがない。

頭の横のつまった感じは、ときどき、復活する。ふたつ前の地域新聞のやつだ。いまも、正直言うと、ちょっとある。このうえに、なんらかのシェディング(トランスミッション)をかさねてしまっていいのだろうか。これ、頭蓋骨というのは、隙間があるんだよ。問題がある。

*     *     *

普通の人とは、だいぶちがった人生なので、なんと言うのかな……。まあ、通じない部分が多いだろうなぁ。もう、家族がちがうんだよな。生まれの家族がちがうということは、でかい。そこでの経験というのは、ほかの人の経験とはだいぶちがうものになる。しんどさのしんどさがちがうんだよね。

けど、なんとなく、自転車であの道を行きたい。どうするかな。

*     *     *

なんか、ジャンクなものを食べたい気分だ。



 

 

 

 

後で消す

 シェディング(トランスミッション)を気にしなくていいなら、買い物に行きたいのだけど、気にするので、どうするか、まよっている。ほんとうは、こんなのは、いやだ。「もう、いいかげんにしてくれ」と言いたくなる。鈍感な人たちが、あんなことをやってしまったせいで、めんどうなことになっている。

どうして、ナノ粒子に鈍感になるかというと、いろいろなしくみがある。もう、いろいろありすぎて、説明なんてしない。しかし、こまったなぁ。遅効性の毒だというのが問題なんだよなぁ。遅効性ということは、症状が出るまでわからないということだ。けど、着実に、増えていく。体の中であるものが増えていく。上限をこえるまでは、症状が出ないけど、上限をこえると症状が出る。まあ、いろいろ、めんどうなんだよな。

そして、いま、黒のあとを引き継いで、これをやっているのが白なのだ。白には、なんらかの計画があるのだろう。鈍感な人の割合は、じつは白の計画に影響をあたえているのではないかと思う。ようするに、シナリオは、各時点で、いくつか用意されていて、鈍感な人の割合に対応して、柔軟に適切なシナリオを選んでいるのではないかと思える。

 けっきょく、いまは、まるで気にしないやつが得をするようにできている。それが、いつまで続くのかわからないけど、鈍感な人が生き生きと暮らしている時代なのだ。まあ、生き生きと暮らしているように見えるだけなんだけど……。

まあ、正直言って、がまんにも限界がある。

 

 

 

 

 

 

 

ゴミを出してきた

 ゴミを出してきた。外壁の板が、そっているんだよね。やばいんだよ。あそこ。どうするかな?

ともかく、この1年でもう、ぼくは、10歳ぐらい歳をとった感じがする。

エネルギーが残っていたら、とっとと、引っ越してしまうのだけど……。エネルギーがないんだわ……。

 

2024年9月4日水曜日

「おカネで幸福は買えない」

どういう立場の人が「おカネで幸福は買えない」と言うのかということが、問題なのだ。

それを考えると、「裏」が見える。

けど、まあ、「裏」のことは、めんどうなので、ちょっと横に置いておく。

基本的に、おカネをもっている人が、「おカネで幸福は買えない」ということを言う場合と、おカネをもってない人が「おカネで幸福はかえない」という場合はちがう。

そして、おカネをどのくらい持っているかというのが問題になるのだけど、上位5%ぐらいにはいるような感じでおカネをもっているということにしよう。

そして、その人は、こどものときから、裕福だとする。ようするに、お金持のうちに生まれた人だということだ。お金持のうちに生まれて、おカネに不自由しない状態で、生きてきた人が、 「おカネで幸福は買えない」と言う場合と、おカネがないうちに生まれて、おカネにこまっている状態で、生きてきた人が「おカネで幸福は買えない」と言う場合はちがう。

基本、おカネに不自由したことがない人が言う「おカネで幸福は買えない」という言葉は、重みがないのである。

たとえば、上位5%ぐらいの人のまわりには、上位5%ぐらいの人がいるとする。10ブロックには、生活費に困らない人ばかりがいるということとおなじだ。

そうなると、上位5%の人は、これが普通だと思ってしまうのだ。

ほんとうは、95%は、自分たちよりもカネがない状態で暮らしているのに上位5%の状態が『普通の状態』なんだと勘違いしてしまう。

10ブロックの人が「おカネで幸福は買えない」と言ったって、1ブロックの人は、そうは思えないのである。1ブロックの人には、おカネが必要なんだよ。じゅうぶんなおカネがない状態で暮らしている。

おカネがじゅうぶんにないということで、がまんしなければならないことがいっぱいある。

がまんしなければならない状態というのは不愉快な状態なんだよ。がまんを強いられる状態なのだから、好きで、がまんをしているわけではないのだ。

おカネがあればできることができない。そういうことが、たくさん、何回も何回も発生する生活というのは、とてもじゃないけど、しあわせとは言えない。

そこで、じゅうぶんに満ち足りている10ブロックの人が「おカネで幸福は買えない」「おカネで幸福は買えない」と連呼したって、1ブロックの人のこころには、まったく響かない。

とりあえす、そんなにでかい額ではないのだけど……上位5%の人から見れば、ささいな額なのだけど、そのささいな額が「できるか」できないかを、決定してしまう。

できないので、がまんするということになる。

その場合、その我慢を解消できるおカネがあれば、がまんしなくてもいいわけだから、そのぶん幸福感を感じることができる。

一時的に幸福感をえることと、継続的に幸福であるということはちがうことだ。

けど、1日に何回も、「おカネがあればできること」をがまんしていれば、「おカネがないことで、不幸を買っている」ということになる。おカネがあれば、不幸を買わずにすむのである。

そういう意味では、おカネで、幸福感は買えるのである。

これは別に破滅的な「快楽」というものではない。

たとえば、ギャンブルによる快楽ではない。

子どもが栄養のある、おいしいものを食べるということは、「おカネで幸福感を買っている」ということになる。なぜかというと、おカネがなければ、栄養のある、おいしいものを食べられないからだ。

だいたい、おカネがあると言った場合のイメージが問題なのである。上位5%が言う「おカネのある」人のイメージと、「おカネがある」ということのイメージがそもそもちがうのである。

「おカネで幸福は買えない」と言う場合に使われるイメージが、おカネはあるけど、人間関係に恵まれず、おカネで、お若い女の人を買うのだけど、その若い女の人に殺されてしまうような金持ちのイメージなのだ。

それなら、「おカネで幸福は買えない」ということになる。

だれも、文句がつけられないことを語っていると思うだろう。 そのセリフを言った人はそう思うだろう。

けど、これは、子どもが栄養のある、おいしいものを食べるために必要なおカネとは、おカネの種類がそもそもちがうのだ。文脈もちがうし、額もちがう。

 

貧乏人の子沢山

 貧乏人の子沢山ということについて、ちょっと、語っておこう。これは、未成年時代の資本ということを考えると、例外的な人たちが、貧乏人なのに子どもをたくさんつくっているというとになる。あくまでも、例外だ。基本的に、子どもを育てるのに、カネがかかる時代なら、こういう人たちの割合は、小さくなる。

いっぽう、基本的に、こどもが労働力として見なされる場合は、こどもがおカネを持ってくる役割をするのだから、貧乏人でも子どもをたくさんつくるということになる。貧乏人でもではなくて、貧乏人だからこそ、子どもをたくさんつくるということになる。これは、時代がちがう。だから、こういうふうに、こどもが労働力として見なされる場合というのを、いま、想定して考えるのはよくない。 なにについて考えるかというと、こどもとか、結婚ということについて考えるのはよくない。かならず、こどもが小さいなりに労働力として見なされているのかどうかということを、頭に入れて、考察しなければならない。

結婚に関しても、じつは、これが大きな影響をあたえている。働くまでの期間を、未成年時代とする。未成年時代における教育が、重要な役割を果たしている社会における、結婚と、未成年時代における教育が重要な役割を果たしてないない社会における結婚は、意味がちがうのである。重要な役割を果たしていると書いたけど、重要な役割というのは、たとえば、そのあと、子どもが将来しあわせになるために重要な役割を果たしているということだ。これは、実際にしあわせになるために重要な役割を果たしていなくても、みんなが、重要な役割を果たすにちがいがないと思っているような状態だと、そう見なされる。ようするに、教育におカネをかけても、かならずしも、いい結果になるとは限らないのだけど、わずかな例外をのぞいて、みんながそう考えている状態だと、そう見なされる。ようするに、これは、なんとなくの共同幻想なのだ。そして、共同幻想だからこそ、例外があるにしろ、共同体のなかの、各個人の行動に影響をあたえる。

ようするに、まず、時代の区分を考えなければならないのだ。子供の教育におカネがめちゃくちゃにかかる時代と、子どもの教育なんてものは無視していい時代の区分を、さきにしておかなければならない。子どもの教育なんてものは無視していい時代というのは、子どもが、子ども時代に、労働力として充当される時代のことだ。それと、子どもの教育におカネがめちゃくちゃにかかる時代における、例外的な存在を、混同してはならない。

2024年9月3日火曜日

「貧乏人は、おカネをきたないものだと考えているから貧乏なんだ」

 「おカネをもってない人は、おカネはきたないものだと考えている」「貧乏人は、おカネをきたないものだと考えているから貧乏なんだ」というような通説があるのだ。

精神世界の人は、ほとんど、みんな、そんなことを言う。

判を押したように、「おカネがない人は、おカネがきたないものだと思っているから、おカネがない」というようなことを言う。

けど、これは、まちがいだ。

まず、きたないというのが、物理的なきたなさと、けがれのような心的なきたなさということについて、あいまいに述べている言葉なのだ。あいまい表現。どっちともとれる表現。両方と成り立つ表現。

精神世界の人の言い方というのは、非常に、あいまいなのである。

だから、いろいろなところに、しかけを盛り込むことができる。そして、そのしかけに関して、精神世界の人たちが無自覚だというのがある。

それこそ、しかけるほうが、だますために、こういう表現を使っているのである。精神世界の人たちというのは、いろいろなところで、洗脳されている人たちだ。

精神世界の人たちは、おカネにまつわることに考える場合も、どういう家に生まれたか、どういう家で育ってきたかという基本的な条件を無視する。

おカネに関しては、お金持のうちに生まれたか、貧乏な家に生まれたかということは、非常に重要な条件だ。

だから、条件を無視した思考というもの自体に、問題がある。

たとえば、9ブロックの人が、1ブロックの人に対して「1ブロックの人は、おカネがきたないと思っているから貧乏なんだ」と言ったとする。1ブロックの人は10回にだいたい1回しか勝てないので、基本的に貧乏なのである。

1ブロックの人が、9ブロックの人よりも、貧乏なのは、だいたい10回に1回しか勝てないという条件によって、決まっていることだ。9ブロックの人は、10回にだいたい9回勝てるので、1ブロックの人よりもお金持なのだ。

これは、条件によって決まっていることだ。

別に、9ブロックの人は、おカネがきれいなものだと思っているから10回にだいたい9回、勝てるわけではない。つまり、9ブロックの人は、おカネがきれいなものだと思っているからおカネもちであるわけではないのだ。

ようするに、9ブロックの人は、「自分はおカネがきれいだと思っているから、お金持で、1ブロックの人は、おカネがきたないと思っているから貧乏なのだ」と勝手に決めつけているだけだ。

これは、まちがった思考なのである。まちがった判断なのである。

ところが、9ブロックの人は、おカネに対して特殊な信仰をもっているので、自分のまちがいに気がつことができない。精神世界の人もおなじことをしている。

 現実の条件を無視して、「おカネがきたないものだと思っている人は、貧乏で、おカネがきれいなものだと思っている人は、おカネもちだ」と決めつけている。これは、まちがった決めつけだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


また、地域新聞が入っていた

 また、地域新聞が入っていた。ポスティングするなと書いた紙を、郵便受けに貼りつけたことがあったんだけど、それを無視して、ポスティングしていくんだよなぁ。そのときは、ただ単に邪魔だったからそうしたのだけど、まさか、地域新聞、プラス、チラシ系のポスティングでこんなことになるとは……。地域新聞で手がかゆくなる。今回、目のいたみや頭のいたみはない。ましになっている。けど、手はかゆくなったからなぁ。

2024年9月1日日曜日

雑感

 ほんとうに9月6日にどうにかなるのか? なるんだったら、たすかるけどなぁ……。まあ、今度は、トランプが言っていることだし、なにかはするのだろう。

まあ、いろいろと用意をしきたから、そろそろ、表面的な動きがあったとしてもおかしくはない。アメリカ一般市民を人質として使っていた連中を、排除できたということだろう。まあ、いつものように、肩透かしで、(少なくても表面的には)なにも起こらないということもありえる。 

まあ、いくらなんでも、今年中には、なんとかなる。どんな、鈍感な人も気がつくようになるだろう。

いつも読んでくださるかたに感謝しております



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