ある貯金額で上位1%以内に入る人を想定して、その人が、こう思っているのではないかと、ぼくが思っているという言い方だったので、話が複雑になった。
なので、とりあえず、貯金額で、上位1%以内に入っているAさんが、こういうことを思っているという設定で、言いたいことを書くことにする。言いたいことは、前回言ったこととおなじだ。繰り返しになる。
Aさんは、生まれたときからカネ持ちで現在もカネ持ちだ。おカネがあるときに求婚して、結婚した。おカネがあるので、子どもに、いろいろなことを体験させてやることができる。いろいろなところに連れて行ってやることができる。
そういうAさんが、以下のようなことを言ったとする。
「おカネじゃしあわせは買えない」「みんな、おカネおカネと言っているけど、おカネはそんなにたいせつなものじゃない」「おカネなんかよりもっともっと、たいせつなものがある」「みんなは、それに気がついてない」「世間のおカネおカネと言っている人たちは、おカネよりもたいせつなことがあるということに気がついていない」「自分は、おカネよりも達成なことがあるということに気がついている」「おカネは、幸福感とは関係がない」「おカネがなくても、幸福感を感じる人はいる」「たとえ、おカネがかかる体験を、子どもにさせることができないとしても、工夫次第で、おカネがかからない体験を子供にさせることができる」「収入は、幸福感とは関係がない」「工夫次第で、収入とは関係なく、幸福感を感じることができる」「おカネがなくても、しあわせな生活をすることができる」「おカネは、しあわせな生活を保障しない」「みんな、おカネがしあわせな生活を保障しないということがわかってない」
これ、いろいろと問題がある発言なのである。だいたい、おカネがないと言っても、どの程度おカネがないのかはっきりしない。
おカネがあると言っても、どの程度おカネがあるのかはっきりしない。なので、ここらへんのことを、最初に定義する必要がある。けど、この定義が、むずかしいのだ。
そして、だれもが、「おカネがない」とか「おカネがある」という言葉を使っているにもかかわらず、そこで想定されている「おカネがない」状態や「おカネがある状態」には、ちがいがあるのだ。
おなじ人でも、言う場面によって、「おカネがない」の「おカネがない程度」がちがうし、「おカネがある」の「おカネがある程度」がちがう。おなじ人でも、時間によってちがう。
そのときは、あるおカネがある状態を想定して、おカネがあるということについて語り、別のときは、別のおカネがある状態を想定して、おカネがあるということについて語る。
語るのが普通だ。
おカネというのは、金額であらわすことができるものなので、定義をしようと思えば、定義ができる。けど、その定義に、ほかの人がしたがうとはかぎらない。
そして、やっかいなのが、全体について語っているのか、全体のなかの一部について語っているのか、語っている人が、認識していないという問題だ。
たとえば、「おカネで、しあわせが買えない」のか「おカネで、しあわせが買えるとはかぎらない」のか、言っている本人が、わかってないところがある。
しかも、本人は、じゅうぶんに、理論的に話しているつもりなのだ。
このちがいを無視して、理論的に話すなんてことはできない。