2024年9月7日土曜日

「おカネがない人は、おカネがないような考え方をしているから、おカネがないのだ」

「おカネがない人は、おカネを憎んでいるからおカネがないんだ」ということが、言われる。

精神世界には、こういう言説がいっぱいある。

ようするに、「貧乏は、その人の、気持ちの持ち方がうみだしたものだから、気持ちの持ち方をかえれば、おカネもちになれる」という意見だ。

しかし、これは、現実を無視してしまっている意見だ。

現実の条件を無視して、「おカネがない人」のせいにしてしまっている。

「おカネがない人は、おカネがないような考え方をしているから、おカネがないのだ」と言っているわけだけど、ほんとうだろうか?

どうして、この人たちは、おカネのあるうちに生まれたとか、おカネがないうちに生まれたというような基本的な条件を無視してしまうのか?

文化的な資本という点でも、おカネがあるうちのほうが、おカネのないうちよりも、ずっとずっとずっと、有利なのだ。

そして、学生時代が長くなった文明では、景気変動の影響をうけるとはいえ、おカネがあるうちの子どものほうが、おカネがないうちの子どもよりも、ずっと有利であることにはかわりがない。

だから、成人するまでの時間というものを無視してしまっていいのかという問題がある。おカネがない人……と言った場合、その時点でおカネがない人は「こうだ」という話になる。

成人するまでの時間はまったく考えてない。

成人するまでの時間に経験したことが、その後の年収に影響をあたえることは、事実だ。

けど、そういう基本的な事実を無視して、「おカネがない人は、こうだ」と言ってしまうのだ。これは、おかしい。

 

いつも読んでくださるかたに感謝しております



人気の投稿

ブログランキング・にほんブログ村へ