「おカネじゃ、しあわせは買えない」というのは、おカネがなにに使われるのか、なにも言及してないという意味で、抽象度が高いのである。
けど、これが、発言者は、おカネがあるのに、不幸な状態を想定して、そういう感想?を述べているわけで、発言の者の頭のなかには、おカネがなにに使われているのかということについて、わりと、具体的で限定的なイメージがあるのである。
そして、抽象度が高いので「おカネじゃ、しあわせは買えない」ということを否定するときに、なんとなく、へんな感じがするのだ。ようするに、内容を限定して言ってくれれば、「そうですよね」ですむのだけど、内容を限定せず「おカネを使うなにか」ということになってしまっているので、否定しにくいのである。
ようするに、具体的な内容が想定されていない、たんなる「おカネ」というのもについて、言及されているために、否定をするとなると、全体的な否定しかできなくなってしまうのである。
全体的な否定というのは、ようするに、抽象度が高い「おカネを使う行為全体」ということについて、否定するしかないというような状態になってしまう。
ようするに、否定するなら……おカネを使う行為全体が、しあわせをもたらさないということになってしまうのである。
否定するなら、……「おカネで、しあわせは買える」というような内容になってしまうのである。
しかし、しあわせは、おカネでは買えないこともある。だから、そこで、問題になっている具体的な内容が、はっきりしないまま、「全体的な否定」しかできない状態になってしまう。最初の発言者が「おカネじゃ、しあわせは買えない」ということを言うので、否定する場合も、全体的な否定になってしまうのである。
もともと、「おカネじゃ、しあわせは買えない」と発言をしている人の頭のなかには「破滅的なおカネの使い方」の具体的なイメージがあるのである。ようするに、具体的な内容が、頭のなかにある。
けど、それは、語られないのである。
もちろん、ひとつ、ふたつの例としては、語られるかもしれないけど、それは、いかにも、しあわせそうじゃないおカネの使い方の例なのである。
たとえば、『紀州のドン・ファン』事件。おカネがたっぷりあったけど、人間関係には恵まれず、妻に殺されてしまう。そういうところを想定して、そういうおカネの使い方を想定して、「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているのである。
紀州のドン・ファンに関する限り、「たしかに、おカネじゃしあわせは買えないよね」と肯定してあげてもいい。
けど、それは、おカネを使う行為全体について、おカネを使う行為全体が、しあわせとは関係がないと言っているわけではないのである。
問題なのは、問題のあるかねもちが脳内で想定されているにもかかわらず、それが、「おカネがあれば、しあわせとは限らない」というように「おカネ」の問題になっているところなのである。一般化するべきではないところで、特殊な例を一般化してしまっている。そして、特殊な例を一般化したということについて、特に言及しないところが問題なのである。