「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているAさんは、おカネで、しあわせをかえる場合があるということを認めていない。
けど、本人は、そういうことを認めていないのだけど、子どもをスキーに連れて行って、子どもとしあわせな時間をすごしたことについては、まったく考えてないのである。
子どもとしあわせな時間をすごすための費用(おカネ)についてまったく考えてない。
「けっきょく、カネがかかってんじゃないか~~」と言いたくなる。
ところが、こういうことをAさんに言うと、「そういうこともあるかもしれないけど、おカネじゃ、しあわせは買えない」と言う。
いや、あるかもしれないのではなくて、あるんだよ。
自分はカネで、子どもとのしあわせな時間をつくっているのに、あたかも、その幸せな時間と、おカネが関係がないようなことを言う。
この人は、めぐまれすぎて、「ない場合」のことが、ほんとうにわかってない。「ない場合」というのは、「おカネがない場合」のことね。Aさんの頭のなかで、おカネがない状態というのが、想像できないのである。リアルな状態を想像できない。
なんか、童話のなかで聞いたような「おカネのない状態」や、ニュースで見た「おカネがない状態」しか、思い浮かばないのである。
だから、本当は、たっぷりあるおカネで、自分が、常日頃(つねひごろ)から、しあわせを買っているのに、それに気がつかない。
ネズミが出ない家に住んでいる。ダニに毎日やられてない。それだって、おカネがあるかできることだ。おカネがなかったら、そういう状態から抜け出せなくなる。
もっとも、おカネがあっても、ぬけだけない場合もあるんだけど、それはまた、別の話だ。
ほんとうは、常日頃(つねひごろ)から、「おカネ」でしあわせな時間を買っている……。
これに、Aさん本人が気がついてないのである。
妻や子どもとのしあわせな時間ということを考えた場合、妻や子どもに、意識が集中してしまって、妻や子どもとのしあわせな時間に「おカネがかかっている」ということは、ガン無視してしまう。
はっきり言えば、しあわせな時間を維持するのに、おカネがかかっているのだけど、Aさんは「おカネがかかっているという事実」を無視している。そして「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言い続ける。
ちなみに、こういう人……Aさんに、こういうことを言うと、「おカネがなくても、妻や子どもと、しあわせな時間をすごすことは、可能だ」ということを言いだすのだ。
けど、本人は、おカネをたっぷりもっている。
結婚にだって、おカネがかかっているはずだ。子どもの生活にだって、おカネがかかっているはずだ。
そして、そういうさまざまな費用を、ほんとうに、まったく問題なく、負担できる人なのだ。Aさんはおカネをたっぷりもっているので、そういうさまざまな費用を問題なく、負担できる。それは、おカネをたっぷりもっているからだ。おカネで、妻や子どもとのしあわせな時間をつくっているのである。そういう人が、「おカネじゃ、しあわせは買えない」「おカネじゃ、しあわせは買えない」と何回も何回も主張する。
はっきり言って、おカネがない人は、しらけてしまう。
おカネもなく、妻もいないし、子どももいない人が、「おカネじゃ、しあわせは買えない」という言葉を聞いてどう思うか?
しあわせの要素をすべて持っている人が「おカネじゃ、しあわせは買えない」と主張する。全部、もっている人だ。特に、おカネに関しては、おカネもちと言えるほど、おカネをもっている。Aさんの場合、子どものときから、おカネもちなのである。
子どものころ、おカネをもっているのか、おカネをもってないのかというのは、その後人生に影響をあたえる。たとえば、医者の子どもは、おカネもちだから、自身(子どものほう)も医学部に行ける。親がおカネもちというのは、医学部進学という点において、有利なのだ。
もちろん、親が金持ちでも、本人が医学部に進学を希望していても、医学部に進学できない場合も、少しはある。
けど、おカネがなくて、医学部に進学できない人よりも、おカネがある人は、有利なのだ。だから、おカネがあるかどうかは、医学部進学に影響をあたえる。プラスの影響だ。
ところが、医者の子どもであるAさんが、「おカネとしあわせは関係がない」と言うのだ。自分が、医学部に進学するとき、おカネをもっていたということが、どれだけ有利なことなのか、まったく自覚がない。
医学部進学が、その人にとって「しあわせ感」をもたらすことだとする。おカネがあるということは、医学部進学というしあわせ感をもたらすものに、プラスの影響がある。
おカネがあるのに、医学部に進学できなかった人がいるとする。なら、おカネは、医学部進学に関係がないことなのか?
ちがう。関係はある。
「例外がいるから関係がない」と言う人は、勘違いをしているのである。
それぞれ、例外がいるので、「……は可能だ」「……がなくてもできる」と言える状態になる。だから(関係がないということが)あっているような感じがしているだけだ。
おカネと医学部進学は関係があり、おカネがあるほうが、進学しやすいのである。
ちゃんと、関係がある。
けど、おカネがなくても、医学部に進学した人がいるので、おカネがなくても医学部に進学はできると、関係性を否定する発言をする人がいる。
けど、「おカネがあるほうが……進学しやすい」ということは、かわりがないのである。
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例外を考えなければ、おカネがある人という集合のなかに、医学部に進学する人という集合があるのである。医学部に進学する人という集合のなかに、おカネがある人という集合があるわけではない。おカネがあるということは、医学部に進学するときの(基本的な条件)になるものなのである。基本的な条件を満たした人が、医学部に進学できるのである。
しかし、奨学金でもなんでもいいけど、例外があるとする。例外は、例外だ。例外となるものは、一般的な傾向とは、ちがう傾向をもっているということだ。
例外を考えなければ、おカネがあるということは、医学部に進学するときの(基本的な条件)なのである。
Aさんは、自分がおカネをもっていたので、「おカネは関係がない」「おカネでは、医学部進学は買えない」「おカネがあるということと、医学部に進学することでえる幸福感は関係がない」「おカネがあるということと、医学部に進学することでえたしあわせな生活は関係がない」と言っているだけなのである。
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たっぷりカネをもっているということを利用して、さまざまな「しあわせ体験」をしているのに、口を開けば「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているやつって、なんなんだ?
「しあわせ体験」をカネで買っているんでしょ。
自分がどれだけ恵まれた状態で生きているのか、ぜんぜんわかってないなぁ。平均よりずっとおカネもちのうちに生まれたということも、まったくわかってない。カネがあるという優位さを最大限に利用して、さまざまな「しあわせ体験」を買ってきたのに、まったく、わかってない。