言っておくけど、条件の格差について「別枠」をつくって対処をすることは、問題をつくりだしていることになり、問題を解決することにはなってない。
たとえば、女性が少ないので、女性用の「別枠」を用意して、対処しようとするのは、むだなことであり、有害なことだ。条件に格差があるということが指摘され、条件の格差について対策をしようとすると、別枠を用意して、対処することになるのだ。
これは、意味がないばかりか、有害だ。ゆがんでいる制度のなかに、もっとゆがんだ部分つくって対処しているようなものだ。
たとえば、医学部進学の問題についてのべたけど、ほんとうは、大学時代の生活費と、大学の授業料やその他のすべての費用を援助するというのであれば、いちおうは、医学部進学の格差については、格差を縮小することができる。
そういう状態なら、公平なので……おカネによる足切りがなくなるので、おカネもちで医学部に進学した人も、無意識的な「うしろめたさ」をもたなくていいということになる。
別枠の対処というのは、あっち側の人がつくった制度のなかで、あっち側の人が、「対処したように見せかける」ためのものなんだよ。実際には、ゆがんだ部分が増える。まったく、役に立たない。
おカネはおカネなのだから、おカネの格差には、対処できるんだよ。ほんとうは、対処できる。学費だけではなくて、学生であるあいだの生活費も保証しなければならないのだけど、それも、おカネの問題だから、おカネで対処できる。
学費や生活費を保証して、やっと、格差に対処したということになる。
しかし、それは、とりあえずの「おカネの格差」について対処しただけなのである。現実的な格差というのは、おカネの格差だけではない。
ほんとうは、勉強のやりにくさ、勉強のやりやすさという格差がある。家族がきちがいで、ものすごい騒音を出し続けるような家族だと、その家族にやられた人は、勉強がやりにくくなる。生活がしにくくなる。格差だ。
ものすごい格差だ。
家族の格差がある。