「おカネがないから、しあわせとはかぎらない」と言われる機会よりも、おカネがあるからしあわせとはかぎらない」と言われる機会のほうが多いと、個人的には思う。ぼくの経験の範囲では、そうだ。
なので、「おカネがないから、しあわせとはかぎらない」と言われる機会よりも、おカネがあるからしあわせとはかぎらない」と言われる機会のほうが多いという前提で、このことについて考えてみることにする。
どうして、「おカネがないから、しあわせとはかぎらない」と言われる機会が少ないのか?
それは、人々の頭のなかで、おカネがないという状態が、ふしあわせな状態と結びついているからだ。「おカネがなくても、ふしあわせとはかぎらない」という言葉のほうが、通りがいいだろう。
これは、人々がおカネがある状態と、しあわせな状態に強い結びつきがあると考えているから起こることだ。ようするに、「おカネがあるほうが、しあわせなんじゃない」と考えているから、そのような発想をする。
例外的に、おカネがあっても、しあわせではない人がいる。
おカネ自体が、しあわせを運んでくるわけではない。これは、「おカネ自体が、しあわせをかならず運んでくるわけではない」という意味だ。「かならず」という言葉が入っていなくても、意味的には「かならず」という言葉が入っている場合とおなじになる。
おカネ自体が、しあわせを運んでくることのほうが多いのである。
それは、おカネがあると、可能になることが多いからだ。
おカネがあれば、自分がやりたいことが、可能な状態になるとする。
たとえば、おカネがあれば、医学部に進学するということが可能な状態になる。
もちろん、おカネは進学のためのひとつの要素なので、ほかの要素の影響をうけて、医学部に進学できないかもしれない。けど、おカネがない状態だと、医学部に進学できないのであれば、おカネがある状態というのは、おカネがない状態よりも有利な状態なのである。
つまり、おカネがあるということ自体が、しあわせになる確率をあげるのである。
参入できるかどうかということが、おカネのあるなしで決まるとする。おカネがあれば参入できる。おカネがなければ参入できない。
おカネがあれば、参入できるのだから、参入したあとしあわせをえやすくなる。おカネがなくて、参入できないのであれば、参入できないのだから、そのあとのしあわせは、その時点でえられないということが決まってしまう。参入できないのだから、参入したあとにあるかもしれないしあわせの可能性はなくなってしまう。