2024年9月19日木曜日

それは、すなわち、おカネで、しあわせを買っているということなのである。

 たとえば、おカネもちだけど、不幸な人たちがいるとする。まあ、これも、おカネがある家に生まれて、破滅的な性格が災いして、おカネがあるのに、不幸な人のタイプと、普通のうちに生まれたのだけど、宝くじが当たって、不幸になったタイプの2タイプがある。

宝くじが当たったタイプは、じつは、おカネがなくなって、不幸になるわけで、不幸になった時点では、おカネもちではなくて、貧乏人だ。

だから、おカネがあるのに不幸な人ではなくて、おカネがなくて不幸な人になっている。けど、宝くじが当たったタイプの話も、「おカネじゃしあわせは、買えない」という話の例としてよく出てくる話なのだ。

高額当選で、人が不幸になっていくプロセスというのは、だいたい決まっている。いままでの人間関係がくずれてしまうのである。

そして、新しい人間関係は、その人ではなくて、その人のカネを見て集まってくる人間との関係になるので、これも、もともと、不幸な人間関係なのである。あるいは、不幸が約束された人間関係なのである。ようするに、詐欺の専門家が、いろいろなところから近づいてきて、けっきょくは、おカネをなくしてしまうという話になる。

けど、じゃあ、おカネじゃしあわせは買えないかというと、そうではないのである。おカネでしあわせ体験を買っている人はいっぱいいる。

おカネで、しあわせな生活を維持している人はいっぱいいる。しあわせな生活を維持するのに、おカネがかかるのだから、おカネで、しあわせな生活を買っていると言える。

それは、すなわち、おカネで、しあわせを買っているということなのである。

話を、もとにもどそう。 おカネもちだけど、不幸な人たちがいるとする。この人たちだけを思い浮かべて、自分の頭のなかで、おカネと不幸との関係について考えると、おカネがある集合と、不幸な人の集合が一致してしまうのである。

集合が一致していれば、「おカネがある→不幸」という関係や、「おカネがある←不幸」という関係が成り立ってことになる。おカネがあれば不幸であり、不幸であればおカネがあるということになってしまのである。

集合が完全に一致しているので、右矢印の関係も左矢印の関係も成り立つということになってしまうのである。

けど、これは、不幸な人たちであって、おカネもちである人を……思い浮かべたから、そうなっているだけだ。

おカネがあるけど幸福な人がいる。おカネがあるけど、不幸な人もいる。だから、最初から、左辺の集合が、現実の集合とはちがうのである。

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「おカネがあるけど不幸な人がいる」と「おカネがあって、不幸な人がいる」は、文が発言される前に想定されているものがちがう。「おカネがあるけど不幸な人がいる」と「おカネがあるから不幸な人がいる」とでは、意味は、おなじではない。まったくちがう。ちなみに、「おカネがあって、不幸な人がいる」と「おカネがあるから不幸な人がいる」とでは、もみは、おなじではない。まったくちがう。

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