たとえば、医学部に進学するということを考えた場合、親がカネ持ちであることは、有利なことなんだよ。おカネで、医学部に進学する権利を買ったということだ。
そして、医学部に進学したなら、おカネで、医学部に進学するという幸福を買ったということだ。
もちろん、医学部に進学する権利があるだけで、試験に落ちたら、進学できない。
だから、おカネは、第一段階の「あしきり」になる。ある人は、いいけど、ない人は、だめだ。けど、こういうことを言うと、おカネがあるから、第一段階の足切りに引っかからなかった人が、「おカネがなくても、進学した人はいる」というようなことを言う場合がある。ようするに、「おカネがなくても、医学部に進学した人がいるのだから、おカネがあるかどうかは、医学部に進学できるかどうかとは関係がない」というようなことを言うのだ。本人が、おカネもちで、医学部に進学した人だと、そういうことを言う場合がある。「おカネがなくても結婚はできる。おカネと結婚は関係がない」という理論とおなじだ。まず、例外を出して、可能だと言うのだ。そして、可能であれば、関係がないと言うのだ。もう、すでに述べてきたことだから、くわしくは書かないけど理論的な問題がある。これ、理論の問題なのである。まあ、理論がおかしいと(こっちが)言えば、「嫉妬をしているから、そういうことを言っている」とまた、おかしなことを吹っ掛けてくる。どれだけ、自分が支離滅裂なことを言っているか、わかってない。ともかく、こういう人たちにとっては、おカネと幸福は、関係があってはならないのだ。自分は、おカネをもっているけど、おカネは、幸福とは関係がないのだ。そういうことにしておかなければならない。いやーー。関係あるでしょ。なんで否定するかな? まあ、否定したい気持ちがあるんだろうな。まあ、どうして、否定しなければならないのかということについても、わかっている。けど、これは、無意識的な内容について、ふれなければならないから、おこる人もいるだろう。まあ、これ、無意識的な「うしろめたさ」と関係している。そして、無意識的には「自分の成功はカネによるものではない」ということを言いたいという気持ちと、関係している。