「なんでも感謝感謝」などと普段は、言っているのに、おこりやすい人というのがいる。たとえば、「なんでも感謝感謝」といっている人が、自分の理論を否定されたとする。そうすると、おこる。「自分の理論を否定してくれて、ありがとう」と感謝するべきだ。こういう人たちは、自分の行動に関するサーチ能力が欠落している。おこっているときは、おこっているときで「感謝感謝」なんて、まったく関係がないことになっているのだ。そのときの「自分の感情」がたいせつなのだ。「なんでも感謝感謝」と言っているときは、そういう気分なのである。時間的に、両立しないことがあっても気にしないのである。(本人が)矛盾した行動をしても、(本人は)気にしないのである。この、「自分の矛盾は気にしない」というところは、一貫してたもっている。
「自分の理論を否定してくれて、ありがとう」に関して、ちょっと付け加えておく。たとえば、言霊理論は、まちがっている。Aさんが、言霊主義者で、なおかつ、 「なんでも感謝感謝」などと普段は、言っている人だとする。そして、Bさんが、言霊理論はまちがっているということをAさんに言ったとする。この場合、Bさんがあっている。Bさんの言っていることが理論的に正しい。なので、「なんでも感謝感謝」と思ってなくても、感謝するべきなのである。ところが、実際には、Aさんは、おこる。「単純なのが正しい」「言ったことが現実化する。これは、まちがってない」と言って、認めない。あるいは、自分のほうが立場が上なら「なまいきなことを言うな」と言っておこるかもしれない。ともかく、怒りの反応があるのである。相手が言っていることが正しい場合は、Aさんは、ただ単に、いやな人になってしまう。もしかしたら、こういう反応をがあるいうことを織り込んで、宗教家は「なんでも感謝感謝」などと言っているのかもしれない。まあ、そこまで自覚があるかどうかわからないけど、最初に考え付いたやつは、そこまで考えているかもしれない。「なんでも感謝感謝」というのは、『いやな人製造装置』なのだ。たいていは、自分の理論を否定されたらおこる。おこるという反応がある。だから、普通は、「なんでも感謝感謝」という言葉で想定されている「気持ち」は完全に、やぶられることが決まっている。「なんでも感謝感謝」という理論?は、日常生活なかで、破綻することが決まってる理論なのである。
そんなのは、まもれるやつがいないのだ。「なんでも感謝感謝」という標語みたいな言葉を、「なんでも感謝するべきだ」という理論だとする。そして、この理論に人は、したがうべきだとする。ようするに、理論であると同時に戒律であるとする。この戒律は、まもられないことが決まっている戒律なのである。宗教家だって、実際にはまもってないよ。宗教家自身だって、感謝しないで、おこるという反応をかえす場合がある。日常生活のなかでは、「なんでも感謝感謝」という戒律を人に語っている宗教家だって、普通に、おこったりする。感謝しないでおこったりする。
感謝できないことには感謝してないのである。それなら、普通に、感謝すべきことには感謝するけど、感謝するべきではないことには感謝するべきではないと言えばいい。これは、「すべてに感謝するべきだ」という理論とはちがう。
まあ、相手が言っていることが実際にまちがったことなのであれば、おこっても、それは、ゆるされると思う。けど、相手が言っていることが、理論的には、あっている場合は、ただ単に、矛盾だらけのいやな人になってしまう。
自分の理論を否定した相手の理論がまちがっている場合と、自分の理論を否定した相手の理論が正しい場合だ。「なんでも感謝感謝」と言っている人は、「なんでも感謝感謝」と言ってない人よりも、『いやな人』になる確率があがる。そういう場面が多くなってしまうのである。もともと、まもれないことが決まっている理論・戒律なので、矛盾した行動をすることが多くなるのである。反応をかえすというのも、行動の一種なのである。なので、日常生活のなかで、その戒律を破ることが決まっている戒律なのである。
自分は守っていると思っている人は、ただ単に、自分の行動に関するサーチ能力が低いだけだ。自分が「なんでも感謝感謝」と思っているときの感情と、相手に腹がたつことを言われて怒っているときの感情が、むすびついてないだけなのである。感謝せずに、おこって言いかえしたということがあるなら、感謝せずにおこって言いかえしたということを、認識して記憶しなければならない。そして、自分は「なんでも感謝感謝」と言っているけど、それを自分は守っているわけではないということに、気がつかなければならない。ところが、自分の行動に関するサーチ能力が低いと、気がつかずに、矛盾したことを言って、暮らせるのである。
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ちなみに、相手の理論がまちがっている場合であってなおかつ、相手の理論が正しいとは思わず、自分の理論が正しいと(本人が)思っている場合は、その人は普通の人だ。
相手の理論がまちがっている場合も、相手の理論がまちがってない場合も、ともかく、「なんでも感謝感謝」と言っている人が、おこってしまったら、「なんでも感謝感謝」と言っている人は矛盾した行動をしたということになる。感謝してない。相手が言っていることが正しい場合は、(相手にとって)いやな人になり、神様の視点で見ても、いやな人になる。相手が言っていることがまちがっている場合は、普通の人だ。相手にとっては、いやな人になるかもしれないけど、神様的な視点では、普通の人だ。
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「なんでも感謝感謝」という理論は、一見よさそうな理論に見えるけど、「なんでも感謝感謝」ということが正しいと思った人が、ほかの人に「なんでも感謝感謝で暮らすのがいい」と言うと、「なんでも感謝感謝で暮らすのがいい」と言っている人が、トラブルを起こす機会が増える。「なんでも感謝感謝で暮らすのがいい」と言ってないときよりも、「なんでも感謝感謝で暮らすのがいい」と言っているときのほうが、(他人と)トラブルを起こす確率があがる。
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自己責任論の場合は、あきらかに、悪意があるのである。設計者に悪意がある。「なんでも感謝感謝」という理論の場合は、どうなんだろうなぁ? 設計者に悪意があるのかどうか、わからないなぁ。だいたい、「なんでも感謝感謝で暮らすのがいい」という理論は自己責任論よりは、はやらなかったからなぁ。影響力が小さい。宗教的な人が、言いそうなことだしなぁ。けど、設計者に悪意があって、(設計者の協力者によって)はやらされた可能性は否定できない。かなりの確率で、設計者に悪意があったと考えるべきだ。
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あとは、単純に、行政がなにか悪いことを自分にしたとしても、「なんでも感謝感謝」と言っている人は、悪い行政に感謝することになる。悪い行政が、自分に対して悪いことをした場合でも、感謝しなければならないことになる。行政が悪いことをすることなんてあるの?と思う人もいるかもしれない。あるでしょ。たとえば、ワクチンとか……。
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実際、「NHKがやっと、ワクチン後遺症について、あつかってくれた。感謝感謝」と書いていた人がいたけど、これも、ほんとうはひどい話なんだよ。NHKがどういうことをしてきた考えればわかる。これは、たとえるなら……水銀をまきちらした企業に対して、水俣病患者が感謝をするというような話だ。
いま、ぼくがなにを言っているか、さっぱりわからない人も、そのうちわかってくれると思うよ。まあ、あと2年ぐらいかかるかな。まあ、NHKと水銀をまきちらした企業のちがいはある。NHKがやったことと、水銀をまきちらした企業がやったことには、ちがいがある。だから、おなじではない。だから、「たとえるなら」と書いておいた。
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悪意がある複合体が、悪いことをしようとしたとき、一般市民が「なんでも感謝感謝」と考えていてくれたほうが、なにかと、都合がいい。