2024年9月4日水曜日

貧乏人の子沢山

 貧乏人の子沢山ということについて、ちょっと、語っておこう。これは、未成年時代の資本ということを考えると、例外的な人たちが、貧乏人なのに子どもをたくさんつくっているというとになる。あくまでも、例外だ。基本的に、子どもを育てるのに、カネがかかる時代なら、こういう人たちの割合は、小さくなる。

いっぽう、基本的に、こどもが労働力として見なされる場合は、こどもがおカネを持ってくる役割をするのだから、貧乏人でも子どもをたくさんつくるということになる。貧乏人でもではなくて、貧乏人だからこそ、子どもをたくさんつくるということになる。これは、時代がちがう。だから、こういうふうに、こどもが労働力として見なされる場合というのを、いま、想定して考えるのはよくない。 なにについて考えるかというと、こどもとか、結婚ということについて考えるのはよくない。かならず、こどもが小さいなりに労働力として見なされているのかどうかということを、頭に入れて、考察しなければならない。

結婚に関しても、じつは、これが大きな影響をあたえている。働くまでの期間を、未成年時代とする。未成年時代における教育が、重要な役割を果たしている社会における、結婚と、未成年時代における教育が重要な役割を果たしてないない社会における結婚は、意味がちがうのである。重要な役割を果たしていると書いたけど、重要な役割というのは、たとえば、そのあと、子どもが将来しあわせになるために重要な役割を果たしているということだ。これは、実際にしあわせになるために重要な役割を果たしていなくても、みんなが、重要な役割を果たすにちがいがないと思っているような状態だと、そう見なされる。ようするに、教育におカネをかけても、かならずしも、いい結果になるとは限らないのだけど、わずかな例外をのぞいて、みんながそう考えている状態だと、そう見なされる。ようするに、これは、なんとなくの共同幻想なのだ。そして、共同幻想だからこそ、例外があるにしろ、共同体のなかの、各個人の行動に影響をあたえる。

ようするに、まず、時代の区分を考えなければならないのだ。子供の教育におカネがめちゃくちゃにかかる時代と、子どもの教育なんてものは無視していい時代の区分を、さきにしておかなければならない。子どもの教育なんてものは無視していい時代というのは、子どもが、子ども時代に、労働力として充当される時代のことだ。それと、子どもの教育におカネがめちゃくちゃにかかる時代における、例外的な存在を、混同してはならない。

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