2024年9月26日木曜日

おカネは量であらわすことができる。けど、しあわせは量であらわすことができない

 おカネは量であらわすことができる。けど、しあわせは量であらわすことができない。また、しあわせ感は、量であらわすことができない。これは、重要なことだ。おカネとしあわせについて語る場合、量であらわことができるものと、量であらわすことができないことについて、語っているということになる。これが、そもそも、無理な話なのだ。だから、まあ、しあわせを主観的にあらわしてもらい、それを量に変換して、量であつかうようにしなければならなくなる。ところが、まず、しあわせは、主観的に表現するしかないものだということが問題だし、量に変換するという問題がある。だって、量に変換できないわけだから……。そういう問題が、横たわっているということについては、常に意識しておかなければならない。

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量と量の関係は、明確に語ることができるけど、量と量ではないものの関係は、明確に語ることができない。おカネは量であり、幸福は量ではないものだ。だから、おカネと幸福の関係は、明確に語ることができない。また、おカネは量であり、幸福感は量ではないものだ。だから、おカネと幸福感の関係は、明確に語ることができない。

「おカネは量である」というのは、おカネの場合は、量で表現できるものだということだ。おカネ自体が量であるということを言っているわけではない。幸福も幸福感も、量で表現できるものではないのである。量で表現しようとすると、「ものすごくしあわせ」とか「普通にしあわせ」とか「ちょっとしあわせ」とかいった表現になるけど、そういう表現に変換された時点で、質が抜け落ちてしまうのである。ある人にとって「ちょっとしあわせ」だと表現できる出来事があったとして、それが、その人にとって「どういうふうにちょっとしあわせ」なのか、ぜんぜんわからない。ある人が、「ちょっとしあわせ」と表現したことと、別のある人が「ちょっとしあわせ」と表現したことは、まったく別のことなのである。たぶんだけど、ある人が「ちょっとしあわせ」と表現したときの「ちょっとしあわせ」だと感じた出来事の内容と、別のある人が「ちょっとしあわせ」と表現したときの「ちょっとしあわせ」だと感じた出来事の内容は、ちがう。まあ、おなじ場合もあるかもしれないけど、完全におなじだとは言えないだろう。似ているようなケースだというような場合にかぎられる。まあ、どっちかが「おなじだ」と表現しても、おなじなのかどうかはわからない。だいたい、おなじような出来事であったとしても、出来事の内容は、厳密に言えば、ちがう。

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おなじ川に、二度はいることはできない……。川が流れているので、そのときの水の状態は、瞬間瞬間でちがう。なので、おなじ川に、二度はいることはできない。まあ、ヘラクレイトスが、考えたことだ。これは、事実だ。たしかに、そういう意味では、おなじ川に、二度はいることはできない。

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