おカネを使ってなにをするのかということが、重要だ。しかし、「おカネじゃ、しあわせは買えない」とか「おカネでは、幸福は買えない」と言う場合は、おカネを使ってなにをするのかということが、欠落しているのである。無視されているのである。
「おカネでは、幸福は買えない」とAさんが言うときの、Aさんの頭のなかにある、おカネを使ってやる行為はなんなのかということが、問題になる。
Aさんの頭のなかにあるのは、高級な飲み屋で1日で100万円使うようなことなのである。それならば、一時的な快楽は得られるかもしれないけど、幸福は得られない。
この一時的な快楽を幸福感というのであれば、幸福感なのである。
しかし、その幸福感をえるためにやることが、破滅的な行為である場合は、幸福にはならないのである。
たとえば、覚せい剤で一時期的に幸福感をえられる人がいるとする。これも、別に、覚せい剤で、一時的な幸福感をえられない人もいるわけだから、人によってちがうということになるのだけど、とりあえず、覚せい剤で一時的に幸福感をえる人がいたとする。
この人は、継続的に覚せい剤を打ち続ければ、やがて、不幸になることが目に見えている。
どうしてかというと、覚せい剤の継続的摂取が、脳みそに「破滅的な」影響をあたえるからだ。なので、「おカネでは、幸福は買えない」と言うときの、実際の行為が問題になる。
ようするに、「おカネでは、幸福は買えない」と言うときの、おカネでやる実際の行為は、幸福になれるかどうかに影響をあたえるのだから、捨象するべきではない。
「おカネでは」ということになっているので、文としては、なかなか説明しにくい部分があるのだけど、おカネでやる行為を問題にしてないということは、よくないことなのである。
「おカネでやる行為」というのは、抽象化しすぎなのである。おカネで、幸福は買えないと言うけど、そのおカネでなにをするのかということは、決定的に重要だ。
なので、おカネでやる行為というものを抽象的に考えてはいけないのである。
そりゃ、子どもをスキーに連れて行ってやることだって、子どもに栄養がある食事を提供することだって、本人が覚せい剤を打つことだって、子どもに覚せい剤を打つことだって、おカネがかかることであるから、おカネを使ってやることなのである。
「おカネで、幸福になるとはかぎらない」と言った場合、じゃあ、おカネでなにをするのかという部分が、欠落しているのはよくないことなのである。
「おカネを使って、Xをすれば、幸福になる」と言った場合、Xの部分が、重要なのである。
「Xはなんでもいいけど、ともかく、お金を使ってXをすれば、幸福になる」と言ったって、それでは意味がない。Xの意味内容を特定できないので、話にならない。
「なにかそれ」では、抽象度が高すぎて、最初から、話にならないのだ。
おなじように、「おカネを使って、Xをしても、幸福になるとは限らない」ということも、Xという行為がいったいなんなのかわからないままなのであれば、話にならないのである。
「おカネを使ってXをする」ということを、「おカネで」と言いかえた場合もおなじだ。
「おカネで、幸福になるとはかぎらない」……抽象度が高すぎて、実際にはなにを言っているか、特定することができない。
「おカネを使って、なにかをすることで、幸福になる」「おカネを使って、なにかをすることで、幸福になるとはかぎらない」……。どっちも、抽象度が高すぎて、それらの文言が正しいのかどうか、議論をすることさえできない。