「おカネがあれば、しあわせになれる」というのは、無自覚な『100%詐欺』が成り立っていて、「おカネがあれば、100%の確率で、しあわせになれる」ということを言っているのである。
すべてのおカネがある状態において、人は、かならず、しあわせになれるということを言っているのである。
けど、実際にはそんなことはない。
おカネは、しあわせを構成するかもしれない重要な要素だけど、おカネがあれば、かならず、しあわせになれるとはかぎらないのだ。
だから、100%の関係は成り立っていない。
なので、「おカネがあればしあわせになれるとはかぎらない」ということが言える。あるいは、「おカネがあれば、しあわせだとはかぎらない」ということが言える。
しかし、おカネだけではなくて、しあわせに関係がありそうな要素すべてにこのことは言える。
たとえば、健康だ。「健康だから、しあわせとはかぎらない」と言える。たとえば、恋人だ。「恋人がいるから、しあわせとはかぎない」ということが言える。たとえば、仕事だ。「仕事をしているから、しあわせだとはかぎらない」ということが言える。
むしろ、ひとつの要素だけを取り上げて、その要素が満たされていれば、しあわせなのだと考えること自体がおかしい。
しかし、たとえば、「おカネがあれば、しあわせだとはかぎらない」と言う人がいたとする。Aさんだする。
ほかの人は「おカネがあればしあわせだと考えている」とAさんは、考えて、そのような発言をするのだ。ほかの人というのは、かなりの多数者なのである。Aさんの頭のなかの設定では、かなりの多数者なのである。
だから、あえて、「おカネがあれば、しあわせだとはかぎらない」ということを言わなければならなくなる。あるいは、言ってみたくなる。
自分ではない「ほかの人」は「おカネがあれば、しあわせだ」と考えているけど、自分は「おカネがあれば、しあわせだとはかぎらない」と考えているということを言いたくなる。
「おカネがあれば、しあわせだおカネが、しあわせを保証するとはかぎらない」ということもおなじで、ほかの人が「おカネが、しあわせを保証すると考えている」と、Aさんが考えているから、Aさんが、そのように言うのである。
また、「おカネじゃ、しあわせは買えない」という場合も、ほかの人が「おカネでしあわせを買える」と考えていると、Aさんが考えているので、ほかの人に対して、そのような発言をするのである。
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おカネでしあわせが買える場合もあるのである。しかし、おカネでしあわせが買えない場合もあるのである。100%じゃない。「おカネでしあわせを買える」というのは、これまた、100%詐欺が成り立っていて、「100%の確率で、おカネでしあわせが買える」ということを言っていることになるのである。
ようするに、「おカネでしあわせをかえる」という文は、「100%の確率で、おカネでしあわせが買える」という文と意味的に等価なのである。
「100%の確率で、おカネでしあわせが買える」という文は、「おカネでしあわせが買えない場合がない」ということも言っているのだ。そして、おなじように「おカネでしあわせを買える」という文も、おカネでしあわせが買えない場合がないということを言っているのだ。
なので、「おカネでしあわせを買えるとはかぎらない」という文が、とりあえずの、正解になる。「おカネでしあわせを買えるとはかぎらない」という文の意味を考えると、「おカネでしあわせを買える場合もある」ということになるのである。
100%じゃない。
「おカネじゃ、しあわせは買えない」という文の場合もおなじで、ほんとうは、Aさんは「おカネじゃ、しあわせを買えるとはかぎらない」と言うべきなのだ。
ところが、Aさんは「おカネじゃ、しあわせを買えるとはかぎらない」という意味で「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているのだ。Aさんが、誤解をしている。
「おカネじゃ、しあわせは買えない」という文と「おカネじゃ、しあわせを買えるとはかぎらない」という文は、意味的に等価じゃない。
ところが、等価だと思って、Aさんは「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っているのである。自分で自分が言っていることの意味が、わかってない。