現実というゲームがどうしてつらいのかというと、条件が悪いからだ。
だから、条件がいい人は、現実というゲームが楽しいということになる。
現実というのは、案外システムに依存しているところがある。
「みんながそう思っているからそうする」という部分がある。「目下のものは、目上のものの、言うことをきくべきだ」ということが暗黙のルールになっているのであれば、その、暗黙のルールを守らないとペナルティーをかされるので、暗黙のルールに従わかなければならなくなる。
けど、目上のものが、いい人なら、それでいいけど、目上のものが、悪い人だと、目下のものは、おもしろくない気分になる。これは、決まっている。
ゲーム内のルールが、現実の「不愉快な感じ」を引き起こす。
条件が悪い人は、いろいろと、不愉快な思いをするようになっているのだ。条件が悪い人は、さまざまな場所で、不愉快な思いをするように、ルールが決まっている。
そういうルールが決まっているゲームなので、条件が悪い人にとっては、「やりたくない」ゲームなのだ。
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「目上のものが、よくないものであったばあいは、そこをやめて、目上のものが、よいところに行けばいい」と思う人がいるかもしれない。
けど、この例は、ただの例だ。条件というのは、無数にあるのである。どれを条件とみなすかで、話がぜんぜんちがってくる。いいうちに生まれたかどうかということも、条件のひとつだ。
けど、この条件は、さまざまな、下位の条件を含んでいるのである。ひとつの条件としてカウントされているものが、ほんとうに、ひとつの条件なのかということは、考えなければならないポイントだ。
職場と生まれの家。
上のものがダメだった場合、どっちのほうが、のがれやすいか?
職場のほうが、のがれやすい。
「自分が動いて目上のものがよいところをさがせばよい」と条件に鈍感な人は言うけど、……生まれの家に悪い「目上のもの」がいる場合は、なかなか、かえることができないというとになるのである。
だから、ゲームの条件が悪いなら、悪い条件をいい条件にかえればいいということは、アドバイスにならない。その悪い条件は、かえられるのかどうかということが問題になる。
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「自分が動いて目上のものがよいところをさがせばよい」というようなお気楽な発言は、しばし、条件が悪い人のこころを傷つける。
こういう発言をする人は、条件のかえやすさ、条件のかえにくさという、条件を無視してしまっているのである。
あるいは、条件の重要性を無視してしまっている。
条件が、どのくらい、「その条件下の人」に影響をあたえるのかということの評価がまちがっているのである。まちがっているから、お気楽な発言ができる。
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難民がきて、治安が悪くなった……とする。お気楽な人は「だったら、安全なところ引っ越せばいい」とアドバイスをする。けど、そのアドバイスは、さまざまな条件を無視したものなのである。そりゃ、おカネがなくて、引っ越せない人だっているだろ。