けど、まあ、実際には、ぼくには、この世で、特殊スキルと言えるようなものがあるんだよ。いくつか持っている。しかし、環境がひどかったなぁ。環境がひどいと、特殊スキルがいかせず……カネにならず……どれだけ努力しても、むくわれないまま死ぬ可能性がある。
この、確率は、高い。
案外、高いのか? 予想通りに高いのか? よくわからないけどね。
まあ、お気楽に書いているから、お気楽に「環境」という言葉を使ったけど、「環境」という言葉には、さまざまな要素やさまざまな条件が含まれている。その要素や条件を、事細かに決定することができるのかというと、事細かに決定することはできないのではないかと思う。
どうしてなら、「視点」が導入されてしまうからだ。
けっきょく、大まかな……イメージとしての、要素や条件について語ることになる。
それだって、たいへんな作業さ。
特殊スキルだって、ぼくは、「ぼくにはある」と言ったけど、そんなのは、ぼくが言っているだけかもしれないんだよ。 アニメの世界では、特殊スキルに名称がついていて、さらに、客観的に表示してくれる機械がある。この客観的な評価は絶対だ。
そりゃ、運営?がそういうものを用意して、そういうものをあたえているのだから、そうなる。
けど、現実の世界では、客観的な評価というものには、ものすごく大きな問題がある。
あるんだよ。
そして、けっきょくのところ、まったく評価されなかった才能は、才能なのか? という問題がある。
才能でも、スキルでもいいんだけどね。
まあ、「本人が言っただけ」だよ。「ぼくには、この世で、特殊スキルと言えるようなものがあるんだよ」とぼくが言っただけ。
努力にもおなじような問題が横たわっている。「努力をした」……本人が言っただけ。
努力をしたのかどうかわからない。「けっきょく、結果が出なければ、どれだけ努力をしたって、努力をしたことにならない」……というような評価がある。
「努力をした」というのは、自己申告だ。
まあ、「ぼくには特殊スキルがあるんだよ」というのも、自己申告だ。
結果?
そんなのは、他人が評価するべきことなんだよ。
けど、じゃあ、人生のなかでそういうこと(他人に評価されて認められること)がたいせつではないかというと、たいせつなんだよ。
だから、まあ、むくわれたという感覚がある人と、むくわれたという感覚がない人とでは、言うことがちがってくる。
「努力をすれば、いつかは認められる」……こう「主人公」は言うわけだけど、いつか認められるとは限らないとぼくは思うんだよね。「いつか」というのは、「生きているかぎり」のいつかだ。「努力をすれば、生きているうちに、いつかは認められる」……。そうなんだろうか。ぼくには、「どれだけ努力しても、生きているうちに認められずに死んでいく人間もいる」ように思えるんだけどなぁ。ちがうかい?
死んでから、認められる場合だってある……。そりゃ、そうだけど、死んでから認められてもなぁ……とぼくは思う。