「 まあ、きゅうに、かわるわけがないよな」という感じもする。前世やタイムリープ前の人生で、さんざん、人に悪いことをしてきたやつが、処刑されたというだけで、人格がかわるとは思えないということだ。
まあ、自分の死を回避するためには、どうしたらよいかということを考えて、行動するわけなんだけど、その行動も、また、「前世やタイムリープ前の人格」にふさわしい行動になると思う。「前世やタイムリープ前の人格」の影響をうける。
ようするに、前世やタイムリープ前の「ひと」が考えるようなやり方で、自分の死を回避しようとすることになる。まあ、実際にはそういうことになるんじゃないかなと思うけど、前世とかタイムリープというのが、架空の話なので、「実際」なんてことは、みじんも関係がないわけ。
まあ、処刑されることは、じゅうぶんにショックなことだけど、それで、反省をしたとしても、そのあと、とる行動は、あんなものにならないんじゃないかというようなことをちょっと考えた。たとえば、悪役令嬢がいるとして、悪役令嬢としての人格や感じ方がある。
なので、たとえば、「死」をさけようとしても、悪役令嬢としての人格や感じ方が、死をさける方法に影響をあたえる。ところが、死んで、完全に人格がかわってしまうのである。
悪人から、善人にかわる。
そして、善人の自分が、「前世やタイムリープ前の人格」のやり方を、ひどいやり方だと感じるのである。感じ方自体がかわってしまうのである。
死のさけ方が、善人のさけ方になっている。
まあ、自分が実際にひどい目にあうことで、自分の傲慢さを知り、悔い改めたということになれば、いちおう、整合性はある。
「けど、そんなふうになるかな」というのが、空想のお話に対する、ぼくの空想的な考えなのである。
まあ、「やりなおしもの」は見ていて楽しいよ。人格がかわるほど、反省しないと、物語にならないからなぁ。けど、人格がかわりすぎという感じもしないではない。けど、人格がかわったようにならないと、物語としてすっきりしないんだよ。
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『悲劇の元凶となる最強外道ラスボス女王は民の為に尽くします。』を見たあと、考えたこと。