2021年4月24日土曜日

アルバイトはどこまで、業務上の責任を負うのかということについて (シートベルトがしまらないんですけどと言い出しにくい人もいる)

 そういえば、遊園地のジェットコースターから、人がおちてしまったという事故があった。ジェットコースターの係は、アルバイトだった。で、ジェットコースターの座席に客が座ったとき、シートベルトがちゃんとしまっているかどうか確認する義務があったのである……ジェットコースターの係には。

で、よく確認しないで、スタートをしてもよいという指示を出した?ので、ジェットコースターの係をしていたアルバイトの人は、責任を追及された。えーっと、言ってなかったけど、おちた人が死んでしまったのだ。これは、悲劇だ。

ぼくがこの話を聞いてまっさきに思ったことは、じつはアルバイトのことではない。言いにくいよなということだ。これ、「シートベルトがうまくしまらない人は手をあげてください」と言われても、手をあげにくい気持ちがある。自分だけ「しまってない」と言うのは、なんかはずかしいじゃん。

まあ、聞き方というのがあると思うけど。自分のベルトがしまらないと係員が対応して、スタート時間がおくれる。なんか、ほかの人に迷惑をかけるような感じがする。そういうことに、敏感な人は、手をあげにくい。

ベルトがしまったということだって、カチッと音がするところまでちゃんとしまったかどうかわからないけど、いちおう、かっこうとしては、ベルトを通したという場合は、もっと言いにくい。これは、ちゃんとしまっているかどうかということが気になるだろう。迷惑をかけたくないという気持ちがあるとなかなか言いにくい。

あるいは、ベルトがしまらないと「デブだと思われる」という気持ちがあったかもしれない。本人は、ウエストまわりが普通の人よりも長いことを気にしていたかもしれない。「しめましたか?」のあと、3秒ぐらいで、スタートしてしまったら言いそびれたということがあっても、おかしくはない。

一方、係り員のほうは、「しめましたか?」と訊いたあと、すぐに反応がなければ、しまったのだなと思って、ちょっと目視して確認したあと、スタートの指示を出してしまったのかもしれない。

ようするに、「しめましたか?」と訊かれたあと、客のほうが言うタイミングをのがしてしまうと、ジェットコースターの係り員はもう、事実上「スタートを指示するような」動作に「はいって」しまうのである。そういう動作に「はいって」いる係り員に、「しまってません」と言うのは、気がひけるという人もいるかもしれない。係り員に言うにはほかの人にも聞こえるような声で言わなければならないから、気にする人は気にするだろう。

アルバイトのほうは、見た感じ「しめてくれた」なら、「しめた」と思って、スタートの指示を出してしまうかもしれない。あるいは、わりと人が混んでいたなら、次から次へとおくれなく、ジェットコースターを送り出さないといけないというような、切迫した気持ちがあるかもしれない。

内気な人が、「うまくしめられません」と言うのを待つということは、事故が起こるとわかっていればできることだけど、急いでいるとなかなかできないことなのではないかと思う。それまで、ずっと、そういう確認のしかたで、事故が起こらなかったとしたら、どうしても、じっくり待つというわけにはいかないのではないかと思う。

けど、ジェットコースターから人がおちて、死んでしまった。これは、重い。業務上過失致死罪に問われると思う。実際、裁判があったはずだ。で、どうなったか知らないんだけど、どっちにしろ重いよな。

アルバイトに人命を預かるような重要な作業をさせた遊園地側の問題なのか? あるいは、確認作業をうまくやれなかったアルバイト側の問題なのか? あるいは、「しめましたか」という問いにたいして「しめられません」ということを言わなかった人の問題なのか? これは、重い。

「しめましたか」という質問をしたかどうか?というのも問題になるな。俺はしたという前提で書いたけど、しなかったのかもしれない。ともかく、ちょとしたアルバイトで、そこまで重い責任を負わされるとなると、アルバイトをした人もきついな。まさかそんなことになるとは思わないだろう。

けど、だからと言って、ものすごく慎重にしめたかどうかの確認をして、出発時間を遅らせるとなると、問題があるんだろうなぁ。ほかの人が、わりとおざなりに確認していて、それで、スムーズに発進させているのに、自分だけ、神経質な確認をして時間をとるということができるだろうか? 「神経質だ」「気にしすぎだ」と言われたら、考え方をかえるかもしれない。

けど、こういうのは、事故が起これば、「慎重に確認しなけばならない」ということになるけど、事故がおってなければ、「そんなのは、言うだけ言って、発進させればいいんだ」ということになる。「気にしすぎ」「神経質」というのは、どちらかと言えば、責められる特徴だ。

たいていの認知療法家は「気にしないで、効率を重視するべきだ」ということを言うだろう。認知療法のなかでは「気にしすぎ」は不適切な態度だ。「適度に気にするのはいいことだけど、気にすぎるのはよくない」という価値観があるはずだ……認知療法には。けど、「適度」とか「気にしすぎ」ということは、どうやって決まるか? ということが、まるなげになっている。

「ほかの人」よりも、時間をかけて、慎重にやると、「気にしすぎだ」ということになってしまう。「適度」というのは、実際にはどういうことを意味しているかというのは、一意にはなかなかきまらない。人によって「適度と感じる」基準がちがうからだ。だから、なにが「適度」なのかということを一意に決めて、マニュアル化しなければならない。しかし、これは、けっこうしんどい作業だ。


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