「だいたいおなじ」ということについて考えてみよう。「だいたいおなじ」というのは、数値が似通っていたり、意味が似通っていたりすることだ。
けど、明確な基準がない。
たとえば、Aさんが、100回パチンコ屋に行って、100回パチンコをやって、100回勝ったとする。そして、Bさんは、100回パチンコ屋に行って、100回パチンコをやって、99回勝ったとする。
その場合、AさんとBさんの勝率はだいたいおなじだということができると『思う』。
100回で1回しかちがわないからなぁ。
たとえば、Cさんは、100回パチンコ屋に行って、100回パチンコをやって、1回勝ったとする。AさんとCさんの勝率はだいたいおなじだとは言えない『だろう』。
けど、感覚は、人それぞれだから、100回、1回もたいしてかわらないと考えるやつがいても、おかしくはない。
けど、その人の「だいたい」という感覚は、相当に、一般的な感覚からずれていると『思う』。
まあ、感覚だからねーー。
けど、100回中100回と100回中1回が「だいたいおなじ」だと考えるのは、相当にかわっている。で、相当にかわっているという自覚があるなら、言及するべきなのである。
まあ、これ、感覚のことだからね。
* * *
たとえば、Dさんは、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と確信していたとする。Dさんにとって、パチンコ勝負に勝つことがあかることであり、パチンコ勝負に負けることが暗いことだとする。
そして、Dさんが100回パチンコ屋に行って、100回パチンコをやって、1回勝ったとする。そうしたら、99回は負けたのだから、明るいことを考えても、暗いことが起こることはあるということを自覚してもよさそうなのに、Dさんはポジティブな人なので?99回負けたのに、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と確信したままなのである。
「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考えたを、事実と照らし合わせて考えず、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考えを放棄しない。
99回負けたことは、忘れてしまい、1回勝てたということだけが、記憶に残るのだ。
Dさんが100回中99回負けたということは、Dさんが「明るいことが起こる」と思っていたのに、100回中99回、Dさんの身に暗いことが起こったということになる。
それなのに、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」とDさんは思ったままなのである。
こういう人が、実在する。めずらしくない。
なんで、99回も、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という『法則』を裏切ることが起こっているのに、Dさんは「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という『法則』を否定できないのか?
こんなのは、おかしい。おかしいけど、そういう人が実在する。めずらしくない。
Dさんのような人間は……「明るいことを考えていたのに、暗いことが起きた」という現実を、無視して、なおかつ、無視したということを無視するのである。
なので、いつまでたっても、「法則性なんてない」ということに気がつかないのである。
事実を無視しているので、法則性がないということに気がつかない。