条件のいいやつらが、条件の悪い人を、取り囲んで、「明るいことを考えれば、明るいことが現実化するんだよぉ」「おまえが、暗いことを考えたから、暗いことが現実化したんだよぉ」「どんな条件でも、できると言えばできるんだよぉ」「できないと言うから、できなんだよぉ」「努力をすれば成功するんだよぉ」「すべては自己責任なんだよぉ」「条件のちがいなんて関係がないんだよぉ」と言いまくっている状態だ。
こんなの、集団でリンチをしているようなものだ。
ひとりを取り囲んで、言霊妄想パンチ、思霊妄想パンチ、努力論妄想パンチ、自己責任論妄想パンチ、条件無視妄想パンチで、なぐってなぐって、なぐりまっているような状態だ。
不幸なところにうまれたら、前世で悪いことをしたからだというカルマ論妄想パンチもつけくわえておこうかな。こんなことをやっているやつらが……。ともかく、こういう人たちは、神から離れ、悪魔の近くにいる。悪魔に洗脳されて、なにが正しいのかわからなくなっている人たちだ。
輪廻は神ではなくて、悪魔がつかさどっているから、「まなび」とかじゃない。たましいを磨くために、そういう環境を選んだというわけではない。そういう環境というのは、生まれながらに悪い条件がたくさん成立しているような環境のことだ。
「まなび」とか「たましいの成長」とかというのは、じつは、悪魔側の理論。高級な悪魔のなかには、偽りの光を放っているものがいるので、「偽りの光と、ほんとうの光の区別がつかないもの」は、悪魔の光を、神の光だと勘違いしてしまう。
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そういえば、カルマ論では「納得して」そのからだを選んだということが語られる。ようするに、たましいが納得して、その猛烈にくるしい環境を選んだということだ。これ、嘘なんだよ。大嘘。たましいは、納得してない。だまされて、そこに生まれてしまったのである。
いずれにせよ、いい環境に生まれた人のたましいのほうが善良だということはない。わかるかな? 悪い環境に生まれた人のたましいが、悪いものだということではないのだ。
カルマ論だと、たましいのカースト制度が成立しているような印象をあたえるのである。カルマ論というのは、たましいの疑似カースト制度を(この世で)成立させるためのものだ。悪魔が支配ししているからそうなる。たましいの疑似カースト制度によって、すべての不条理が、ゆるされてしまうのである。すべての不条理が、たいせつなものとして肯定される。カルマ論にむしばまれたたましいは、必然的に悪をなすのである。
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たとえば、障害を背負ってうまれてきた人に対して、「障害を背負ってうまれてきたのは、まなびのためだ」と言ってしまう人がいるのだけど、こういう人は、自分がどれだけつめたいことを言っているか、自覚がない。宗教にこればこるほど、精神世界にこればこるほど、人としてたいせつなものをうしなってしまう。
人が人に対してつめたくなる理論なのだ……。カルマ論というのは……。