しかし、俺は、どうしようかな?
世間はいろいろと動いているみたいだ。どちらかというと、明るい材料のほうが多いなぁ。まあ、パソコンがあれば、無限暇つぶしができるのだけど、それだって、意欲がないと無理だ。つくりたいものがないと、暇つぶしはできない。まあ、ひとがつくったものを視聴すれば暇つぶしにはなるのだけど、それにだって、じつは、心的なエネルギーが必要だ。
ようするに、意欲が必要だ。「見たい」と思うから見るわけで、「見たくない」と思っているのに見るというのは、つらいことだ。強制されていないのであれば、見たくないものは見ないだろう。けど、昨今では、見たい?コンテンツに、見たくないものが挿入されている場合があるので注意が必要だ。だから、そういう可能性があるけど、見たいものなのかどうかということが重要になる。だから、ここでも、意欲がかかわってくる。
ひとくちに「見たい」と言ったって、「ものすごく見たい」ものから「まあ、見てやってもいいかな」と思うものまで、幅がある。心的エネルギーが充実しているときは、「ものすごく見たい」ものが多いわけ。
それが、心的エネルギーが枯渇すると、「まあ、見てやってもいいかな」というのが増える。そして、「見なければよかったな」と思うようになる。そして、「見るものがない」ということになる。興味があるかどうかというのは、非常に重要なことだ。
じゃあ、興味というのがどういうところから出てくるかというと、まあ、希望があると興味がわくわけ。あるいは、探求心があると、興味がわくわけ。けど、探求心というのは、けっきょく、なにかそれに興味があるということの言い換えにすぎない。ようするに、自分と関係づけられた希望というのが必要なわけ。