「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということを信じているのに、自分は、パチンコをやったとき、あんまり勝てないので、パチンコをやめたという人がいる。
パチンコでお金をかせぐことができるという「明るいこと」を考えれば、パチンコでお金をかせぐことができるという「明るいこと」が起こるはずなのである。その人は、それが絶対法則だと確信している。
なら、明るいことを考えてパチンコをやれば、かならず、明るいことが起こるはずなのである。確信しているのだから、ずっとやるべきだろう。というか、なんで、勝てるという「明るいこと」を考えて、パチンコをやったのに、負けるという「暗いこと」が起こるのか?
おかしいじゃないか。
明るいことを考えてパチンコをやったのに、負けた……この事実だけで……このひとつの事実だけで……「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という言葉がまちがっているということがわかる。
「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という命題が『偽』であることがわかる。
なんでわからないの?
なんで、現実を見ようとしないの?
なんで、負けたにもかかわらず、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということは、絶対法則だと思っているの?
* * *
たとえば、Eさんは、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というということを信じているのだけど、何十回かパチンコを打ったら、負けたので、パチンコをやらないようにしたとする。
パチンコをやめたのは、毎回、「勝てる」と明るいことを考えたのに、負けたので、「負けることもある」ということを理解して、やめたのである。
つまり、現実的なことに関しては、現実的な判断をしているのである。けど、それでも、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方をあきらめきれないのである。
これは、幼児的万能感がつよく残っている人には、よくあることだ。本人は、矛盾を感じないのである。現実的な場面では、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方を否定して、判断しているのである。
けど、「否定して判断した」という、記憶が残らない。いつまでもいつまでも、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということになっているのである。
本人は、現実的な場面では、現実的は判断ができるのだけど、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方を自分が否定したという自覚がないので、他人には、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方は正しいと、主張しまくるのである。
本人にとって現実的なことに関しては、本人が気がつかないまま「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方を否定して、判断しているのに、他人には、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方は絶対的に正しいと主張しまくるのである。
はっきり言って、迷惑なやつだ。
こういうやつらが、ひじょうーーーに、多いのである。どんだけ、こういうやつらがいるか、数えきれないほど、いっーーっぱい、いーっっっぱい、いる。本人が、気がついてないというところが、「悪質」なんだよなぁ。
まあ、こどもっぽいと言えば、こどもっぽいのだけど……。
そして、気がついていないのだから、「悪意」はないということがわかるのだけど、「悪意」がないぶんだけ、「悪質だ」ということがあるのだ。
この世には、そういうことがある。