2024年8月31日土曜日

言霊妄想パンチ、思霊妄想パンチ、努力論妄想パンチ、自己責任論妄想パンチ、条件無視妄想パンチ

 条件のいいやつらが、条件の悪い人を、取り囲んで、「明るいことを考えれば、明るいことが現実化するんだよぉ」「おまえが、暗いことを考えたから、暗いことが現実化したんだよぉ」「どんな条件でも、できると言えばできるんだよぉ」「できないと言うから、できなんだよぉ」「努力をすれば成功するんだよぉ」「すべては自己責任なんだよぉ」「条件のちがいなんて関係がないんだよぉ」と言いまくっている状態だ。

こんなの、集団でリンチをしているようなものだ。

ひとりを取り囲んで、言霊妄想パンチ、思霊妄想パンチ、努力論妄想パンチ、自己責任論妄想パンチ、条件無視妄想パンチで、なぐってなぐって、なぐりまっているような状態だ。

不幸なところにうまれたら、前世で悪いことをしたからだというカルマ論妄想パンチもつけくわえておこうかな。こんなことをやっているやつらが……。ともかく、こういう人たちは、神から離れ、悪魔の近くにいる。悪魔に洗脳されて、なにが正しいのかわからなくなっている人たちだ。

輪廻は神ではなくて、悪魔がつかさどっているから、「まなび」とかじゃない。たましいを磨くために、そういう環境を選んだというわけではない。そういう環境というのは、生まれながらに悪い条件がたくさん成立しているような環境のことだ。

「まなび」とか「たましいの成長」とかというのは、じつは、悪魔側の理論。高級な悪魔のなかには、偽りの光を放っているものがいるので、「偽りの光と、ほんとうの光の区別がつかないもの」は、悪魔の光を、神の光だと勘違いしてしまう。

*     *     *

そういえば、カルマ論では「納得して」そのからだを選んだということが語られる。ようするに、たましいが納得して、その猛烈にくるしい環境を選んだということだ。これ、嘘なんだよ。大嘘。たましいは、納得してない。だまされて、そこに生まれてしまったのである。

いずれにせよ、いい環境に生まれた人のたましいのほうが善良だということはない。わかるかな? 悪い環境に生まれた人のたましいが、悪いものだということではないのだ。

カルマ論だと、たましいのカースト制度が成立しているような印象をあたえるのである。カルマ論というのは、たましいの疑似カースト制度を(この世で)成立させるためのものだ。悪魔が支配ししているからそうなる。たましいの疑似カースト制度によって、すべての不条理が、ゆるされてしまうのである。すべての不条理が、たいせつなものとして肯定される。カルマ論にむしばまれたたましいは、必然的に悪をなすのである。

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たとえば、障害を背負ってうまれてきた人に対して、「障害を背負ってうまれてきたのは、まなびのためだ」と言ってしまう人がいるのだけど、こういう人は、自分がどれだけつめたいことを言っているか、自覚がない。宗教にこればこるほど、精神世界にこればこるほど、人としてたいせつなものをうしなってしまう。

人が人に対してつめたくなる理論なのだ……。カルマ論というのは……。

2024年8月30日金曜日

通販で買ったコメ

通販で買ったコメと、通販で買ったその他のものを家のなかに取り入れて所定の場所に置いただけでも、もう、つかれた。あー。つかれた。

ネットスーパーの受け取りも、相当にめんどうくさいし、けっこう、まいっているんだよな。そのあいだに、庭の雑草や竹がのびてしまう。風雨にさらされて、外壁がぼろくなってしまう。

今回のワクチン騒動は、打たずに、逃げ切りなんだけど、どれだけこわい思いをしてきたかわからない。いまだって、シェディングで、不愉快な思いをしている。だいたい、ほんとうに、シェディング(トランスミッション)さえなければ、中古のマンションでよかったんだ。そうすれば、ゴミ出しの問題も解決してたんだ。シェディングがなければ、マンションの会合?も、別に気にならない。別に、ぼくは、根本から人間嫌いというわけではないからな。

みんな気にしてないみたいだけど、トランスミッションはあるよ。長時間さらされたら、そりゃ問題が出てくる場合もある。これは、環境によるけど。打った人だって、ロットによって、状態がちがうからね。

しかし、このさき、どうしようかな。生きのびたとしてもなぁ。まあ、今後のことは、いろいろなことが現実化してみないとわからないね。まだ、「今後ある予定」だからなぁ。

シェディングをがまんして、不動産屋に行って、中古住宅を確保してしまおうかなという気持が、ちょっとある。

 

 

 

 

思って、行動したから、現実化したんでしょ。

「こういういいことをしようと思って、いいことをしたらうまくいった……。いいことを思ったから、うまくいった……。これが正しい」と思うかもしれない。

思霊の場合は、言霊の場合とはちがって、「思う」という、「言う」ということよりも、より、範囲が広いことを扱うことになる。

そりゃ、思ったことを、言う場合と、言わない場合がある。言う場合は、「言葉にどっている言霊という力」の話になるから、逆に、言霊について語りやすいということになる。

言葉には、言霊なんて宿っていない。言葉の力と言霊の力を、混同しているだけだ。言霊が宿っていたとしても、言霊には、物理法則をこえる超神秘的な力がないのである。

まあ、言霊と思霊の比較は、ここらへんでいいかな。

けど、これ、本質的なことだからね。

基本的に言えば、「こういういいことをしようと思って、いいことをしたらうまくいった……。いいことを思ったから、うまくいった……。これが正しい」と思う場合でも、実際の条件が成り立っているのである。

条件が成り立っている。

条件について無視をするべきではない。思ったら、すべてできるかというとそうではないのだ。

さらに、思霊の力によって、現実化されてしまうということはない。

思って、行動したから、現実化したんでしょ。

そして、行動できるという条件がまず成り立っているのだ。そして、プロセス……現実化するまでのプロセスにおいて、いろいろな条件が成り立っているのだ。

そして、条件がそろっていた結果、できたのだ。なので、無条件に「思えば」現実化するということではない。

かりに、思っていたことが現実化したとしよう。しかし、それは、ほかの条件とは関係なく、思っただけで、思ったことが現実化したということではないのである。

ちゃんと考えよう。

2024年8月29日木曜日

「笑う門(かど)には福来る(きたる)」2

  「笑う門(かど)には福来る(きたる)」ということについてもう一度考えてみよう。職場でも学校でもいいのだけど、とりあえず、仮定について考える。

わらっている家族がいる家というのは、もちろん、継続的にわらいあう関係が成り立っているわけ。だから、将来においても、福がくるだろうと言える。

じつは、過去においても、何回も何回も福がきていたわけ。

何回も何回も福がきた状態なんだよ。何回も何回も福がきた状態で、将来、福がくるかもしれないということについて語っているわけ。

ここまでは、前回話した。

でっ、問題なのは、精神世界の人たちの、逆転思考だ。

どれだけ不幸な状態でも、わらってさえいれば福がくると思ってしまう。

精神世界の人は、条件を無視してしまうけど、条件を無視してしまうのはよくない。

不幸な状態には、理由がある。その理由を、放っておいて、ともかく、無理やりにでもわらえば、福がくるんだという考え方はまちがている。さらに、不幸な人は、わらわないから、不幸を呼び込んでいるという考え方はまちがっている。

たとえば、不幸な人がいたとする。Aさんだとする。精神世界の人がいたとする。Bさんだとする。Bさんは、無理やりにでもわらえば、わらいが幸福をもたらすと考えているので、そのように、Aさんに言う。

しかし、Aさんには、不幸な理由があるので、じつは、Aさんが無理やりわらっても、幸福はこないのである。

しかし、精神世界の人は、幸福がこないということをAさんのせいにしてしまうのである。

Aさんの条件をガン無視して、Aさんがわらったかどうかということだけに注目して、まちがったことを、言うのである。

そして、Aさんに濡れ衣を着せるのである。

前世

たとえば、「10ブロックに生まれた人は、10ブロックに生まれたのだから、前世でいいことをしたにちがいがない」とか「ゼロブロックに生まれた人は、ゼロブロックに生まれたのだから、前世でわるいことをしたにちがいがない」とかという考えがはびこっている。

これは、完全なまちがいだ。

むしろ、10ブロックに生まれた人は、悪魔の直系なのである。悪魔に近い人間だから、10ブロックに生まれた。前世で、徳をつんだから10ブロックに生まれたわけではないのだ。

そして、ゼロブロックに生まれた人は、前世で、悪行をかさねたから、ゼロブロックに生まれたわけではないだ。

宗教的な人、精神世界の人は、完全にまちがっている。

そして、じつは、こういうことを言うことで、悪魔に奉仕をしている。悪魔に味方をして、善人をくるしめている。

カルマ論は、完全にまちがっている。

カースト制度も、あってはならないものだ。

日本には、現在、カースト制度のようなものは、制度としては成り立ってない。しかし、生まれた環境のちがいはある。そして、生まれた環境のちがいが、人生に大きな影響をあたえるのだ。

環境というのは、『条件』の集まりなんだよ。

無数の条件があつまって、環境をつくっている。この環境のちがいは、疑似的なカース制度を形成している。疑似的なので、真っ向から批判するようなことができないという意味で、やっかいだ。

無数の条件の差を無視して、あーーだ、こーーだと言っているのである。無数の条件を差を無視して「努力をすればいい」「明るいことを考えればいい」「勝つと思えば、だいたい勝てる」と言っているのだ。

しかし、現実世界では、無数の条件が存在していて、無数の条件のうち、一番影響をあたえるものや、二番目に影響をあたえるものや、三番目に影響をあたえるものの影響を、強く受けてしまう。まあ、四番目や、5番目もあるのだけど、ともかく、現実世界のなかの、重要な条件の影響をうけてしまう。

「明るいことを考える」だけで、重要な条件の影響をつくがえせるかというと、くつがえせない。ところが、精神世界の人は、「くつがえせる」と思っているのだ。

そして、条件が悪い人にむかって、「くつがえせばいいんだ」ということを言うわけである。くつがえす方法は、「明るいことを考えること」なのだ。あるいは、「明るいことを言うこと」なのだ。あるいは、「努力をすること」なのだ。

しかし、重要な条件は、いまの状態に、重要な影響をあたえている。

これらのことでは、くつがえそないことが多い。

「努力をする」ということですら、条件の影響をうける。現実の条件の影響をうける。現実の条件というのは、無意識的にであれ、意識的にであれ、本人が、一番よく知っている。

問題なのは、「明るいことを考えてくつがえせばいい」「明るいことを言ってくつがえせばいい」「努力をしてくつがえせばいい」と言っている人が、相手の条件をガン無視することだ。

これも、4ブロックの人のせいにされてしまうのである

 たとえば、7ブロックに生まれたなら、そこそこ、運がいい人なのではないかと思う人もいるかもしれない。

たしかに、4ブロック以下の人は、悲惨なのである。

4ブロック以下の人は、運がないということになる。

最初の条件……どのブロックに生まれたかという条件が、あとあとまで、影響をあたえるのである。

しかし、「思ったことが現実化する」と幼稚なことを言うやつが「4ブロック以下の人は悪いことを思っているからダメなんだ」と言ってくるのである。

「いいことを思えば、よくなる」と言うのである。

これも、前投稿とおなじように、嘘だ。まちがいだ。

これも、4ブロック以下の人のせいにされてしまうのである。

 以降、ただ単に、4ブロックの人と書いた場合には、4ブロック以下の人ということにしておく。ようするに、4ブロック、3ブロック、2ブロック、1ブロック、ゼロブロックの人のことだ。

4ブロックの人が「いいことを思っても」実際には、勝てる確率がかわらない。勝てるということがいいことなら、いいことが起こる確率がかわらない。気持ちの問題ではないのである。思い込みの問題ではないのである。

けど、条件を無視している人にとっては、思い込みがすべてなのである。ほかの条件を無視している人は「思い込みの強さ」という条件だけを考えているのである。

「思い込みの強さ」だけを考えて、現実を無視するなら、頭がおかしい人になってしまうのである。現実を無視して、ダメな結果が出たのに、いい結果が出たと思うようになっていくからだ。こんなのは、覚せい剤や麻薬にたよっている人とおなじだ。

しかし、現実を無視しないと、「思ったようにならないという現実」を見ることになるのである。「思ったことが現実化するはずなのに」……「思ったことが現実化しない」ということになってしまうのである。

もちろん、4ブロックなら40%ぐらいは、現実化するようになっている。

「じゃあ、現実化するんじゃないか。じゃあ、法則性があるんじゃないか」と思う人がいるかもしれないけど、まちがいだ。法則性はない。むしろ、思い込みの強さと結果には法則性がないという法則性がある。

40%じゃなくて、70%ぐらい勝てるようにしたいと思っているのである。死活問題だからだ。けど、「勝つと思えば勝てる」とか「思ったことが現実化する」というような嘘情報が流れてくるのである。

ほんとうに、こまったものだ。

 世の中というのは7ブロックの人が、「勝つと思えば、だいたい勝てる」などと言って、1ブロックの人が、くるしむということになっている。7ブロックの人にとってみれば、「勝つと思えば、だいたい勝てる」というのは、正しいことなのである。けど、いままで見てきたように、これはまちがいだ。7ブロックなら「負けると、思ってやっても、だいたい勝てる」のである。実際に、1ブロックの人と、7ブロックの人は、会うことがないのだけど、なぜか、いろいろな情報が、耳に入るということにしておく。ゼロブロックから10ブロックまで、すべてのブロックのつぶやき情報が、すべてのブロックの人に伝わるということにしておく。そうすると、7ブロックの人は、悪気はないのだけど、まちがったことを、正しいと言い張ることになる。1ブロックの人がやったって、10回に1回ぐらいしか勝てない。「だいたい勝てる」のではなくて、「だいたい負ける」のである。1ブロックの人は、そうなる。けど、ブロックごとの条件の差というのものを、無視しているのである。たとえば、「勝つと思えば、だいたい勝てる」と言った7ブロックの人は、条件の差を無視して、「勝つと思えば、だいたい勝てる」と言っているのである。無条件で、「勝つ」と思えば、「だいたい勝てる」と言っているのである。「勝つ」と思うことだけが、「勝つか負けるか」に影響をあたえるということに、その人の頭のなかでは、なっているのである。その人は、「負けると思ってやったらどうなるか」というようなことを考えつかないので、「だいたい、勝てるのだから、これはあっている」「法則性があるものだ」と勘違いしてしまうのであ。本人が勘違いして、夢の世界、妄想の世界で、生きているのであれば問題はない。しかし、1ブロックの人、2ブロックの人、3ブロックの人、4ブロックの人、5ブロックの人に、「勝つと思えば、だいたい勝てる」と言ってしまうのは問題がある。思いは関係がないからだ。条件が決定している。その7ブロックの人は「勝つと思えば、だいたい勝てる」と、相手にいい方法を教えてあげるつもりで、「勝つと思えば、だいたい勝てる」と言っているのだ。しかも、正しいことだと思っている。けど、正しくない。「思いだけ」で勝てると言っているけど、思いは、まったく関係がない条件なのである。ほんとうに、こまったものだ。さらに、たとえば、1ブロックのAさんが、勝てないとなると……「勝つと思ってやったのに、勝てない」となると、Aさんの責任だということになってしまうのである。Aさんの思う力が弱いから、勝てないのだということになってしまうのである。この世では?自動的にそうなる。だから、1ブロックに生まれてしまったら、ほかのブロックの人から、えらそうなことを言われるということになる。「勝てると思ったって、勝てなかったぞ」と1ブロックのAさんが、7ブロックの人に言ったらどうなるか? 7ブロックの人が「俺は勝てた。勝てると思ってやれば勝てる。いちゃもんをつけるな」と言ってきて、おしまいなのである。まちがったことを言っているやつが、威張っている世界だ。まちがったことを言っているやつが、どこまでもどこまでも、まちがったことを言っているということに気がつかない世界だ。そういう幼稚なやつが、正しいことを言っていると思っている世界だ。

2024年8月28日水曜日

後で消す

 いやだなぁ。鈍感なやつとおなじ社会に、生きている。

多数派が鈍感なやつだと、俺が追いつめられていくんだよなぁ。まあ、このことに関しては、あんまり本音を言いたくかなったけど、なんか、きゅうに、本音を言いたくなった。これ、言ったってしかたがないことなんだよなぁ。

どれだけ説明しても、インテルに洗脳されているから、すぐに、陰謀論だと思って、否定してくるからなぁ。m-RNAの機序を説明してやっても、まったく無駄だったしなぁ。いやだなぁ。


2024年8月26日月曜日

しかし、このさき、どうするかな?

 いままでとはちがう、ものすごい医療技術が出てこないかなぁ。

あーー、ともかく、歯と肌の再生ができるやつがいいなぁ。目も10歳のころの状態にするやつがいなぁ。ともかく、医療技術の進歩をまっている。特に、歯だ。

いま、なんか、つかれちゃってさぁーー。アジの刺身でご飯を食べたところ。

しかし、このさき、どうするかな?

*     *     *

まだ、カレーはつくってない。あのあと、長ネギと肉を煮込んだものをつくった。醤油味ベース。それで、2回食べて、そのあと、4個の卵をといたものを、表面に入れて、親子丼風にして食べた。

*     *     *

あれくらいでつかれはてるのはおかしいんだよな。雑草、竹、モミジを切ったけど、あれぐらいで、こんなにつかれるのはおかしい。

 

隣の家のほうにのびている、モミジの枝を切ってきた

 いま、隣の家のほうにのびている、モミジの枝を切ってきた。ほんとうは、モミジの枝だけ切って撤退するつもりが、モミジのまわりにある雑草や竹を切らないと、モミジ本体に近づけないので、雑草や竹も切ることにした。ひとつのところでとどまると、ほこりを吸うことになるので、いろいろなところに、すぐに移動して切った。いろいろなところに、「これでもか」というほど、雑草がはえているのだ。雑草といっても、それなりに背丈が高い雑草だ。竹もすごい。

で、いま思っていることは、ロング手袋を左手にも、装着すればよかったということだ。どうしても、めんどうだというのがある。じつは、この、使い捨て手袋を装着するとき、両手とも装着するのがめんどうなのだ。だから、いつも、右手しか装着しない。ロングなので、右腕が、ほぼすっぽり、おさまる。左腕が、かゆい。左手がかゆい。虫は、目で見る限り、いなかったのだけど、いたのだ。今日は、晴れた日だから、この時間帯は、虫が少ない。まあ、冬でも、虫はいるんだけどね。

ともかく、めんどうだから、左腕には、ロング手袋を装着しなかったのだけど、装着するべきだった。風呂に入る予定はなかったけど、汗をかいたので、入るかもしれない。

親父が、モミジを植えるとき、もっと手前に植えてくれればいいのだけど、壁ギリギリ植えるのだ。だから、壁とモミジのあいだにからだを入れて切るということができない。手前というのは、うちの庭の中心地に近い部分のことを言っているとする。 

ちょっとだけやるつもりだったから、左腕、ロング手袋装着を省略してしまったのだけど、省略するべきではなかった。

4種類で、99%ぐらいをしめる

 まあ、手短に言ってしまうと、一般人向けには、専門家の罠があり、陰謀論者向けには、インテルの罠があるのだ。

でっ、それ以外の人たちは、かくされている。存在するのだけど、ものすごい少数派だ。

そして、はっきり言うと、注目されないようになっているのである。

まあ、SNSにおけるアカウント停止、SNSにおけるシャドーバン・アカウント停止、Youtubeにおける動画削除・アカウント停止、大手のブログサービスが提供しているブログの削除などをおこなって、一般人がアクセスできないようになっている。

専門家(悪)、一般人(洗脳)、インテル(悪)、陰謀論者(洗脳)の4種類で、99%ぐらいをしめるということになっている。一般人から見れば、正しい陰謀論者も、まちがった陰謀論者もおなじなのだけど、それは、一般人が、まちがった先入観をもっているから、事実に気がつけないだけだ。

まあ、簡単に書いたけど、インテルを補佐するアルバイト、専門家を補佐するアルバイトが、ものすごく、悪質だ。まあ、このアルバイトは、一般人のなかにいるということになるのだけど、悪に奉仕しているという意味で、悪だ。

(注)専門家(悪)には計画側の人すべてを含むとする。 

(注)陰謀論者(洗脳されてない・正しい陰謀論者)が1%ということ。

「笑う門(かど)には福来る(きたる)」

精神世界の人が、よく「笑う門(かど)には福来る(きたる)」ということを言う。わらっていれば、福がくるんじゃないか。「笑う門(かど)には福来る(きたる)」というように、わらえば、幸福になるですよ……ということを言う。

けど、たいせつなことを忘れている。

わらいあっている関係がすでに成り立っているのである。

家族でわらいあう関係がすでに成り立っている。

もう、その時点で、幸福なのである。

きちがい的な親が子供を虐待しているような家庭では、わらないがないかもしれない。

じゃあ、きちがい的な親が子供を虐待しながら、わらえば、福がくるのか?

じゃあ、きちがい的な親が子供を虐待しているとき、こどもが、無理やりわらえば、福がくるのか? ちがうでしょ!!

なんで、これがわからないかな?

ある人が、きちがい的な親に虐待されているこどもに「笑う門(かど)には福来る(きたる)というように、わらえば幸福になる」と言ったとしよう。

そのこどもが、きちがい的な親を思い浮かべて、どんな気持ちになるか、まったくわかってないなぁ。まったくわかってない。

そのこどもが、きちがい的な親との間にあったさまざまなエピソードを思い出して、どんな気持ちになるか、まったくわかってないなぁ。

「家族でわらいあえば、しあわせになるから、家族でわらいあえばいい」……。

いや、家族でわらいあっている時点で、しあわせなんだよ。

そういう過去の出来事がある時点でしあわせなんだよ。そういう過去の出来事が……家族でわらっているような出来事が、過去においてたくさんある。

もう、その時点で、しあわせなんだよ。


2024年8月25日日曜日

早くしてくれ

 俺としては、相当に、やる気がない状態に突入している。頭の横につまったような感じがあるのも原因のひとつかもしれないけど、それ以外にも、いろいろと原因があるような気がする。ともかく、「つかれた」というのがあるなぁ。

ともかく、早くしてほしいというのは、感想としてある。ともかく、早くしてほしいのである。

ほんとうに、おそいんだよね。体感時間がおそすぎる。そして、わりと不愉快な「この世の出来事」がおそってくる。もちろん、記憶がおそってくるということだ。

なにもかも、いろあせている感じがある。いろをなくした現実。早くしてくれ。

 

「負けると思ってやれば、100%の確率で勝てる」

パチンコとかルーレットとかを使って説明してきたけど、パチンコで金をかせぐしかない世界や、ルーレットでカネをかせぐしかない世界における、パチンコやルーレットというのがなんなのかというと、仕事なのだ。労働なのだ。

まあ、ルーレットで説明する。

ゼロブロックの人は、飢え死にしてしまうので現実的ではない。こどももつくれない。

1日に1回だけブロック内のルーレット屋に行って、ルーレットをする。

これは、遊びじゃない。

生活費を稼ぐために、だれもがやらなければならないことなのである。拒否権はあるとする。ルーレット屋に行かないことも、自由だとする。

けど、この設定は、かえてもいい。

けど、とりあえず、拒否権があるものとする。1日に1回だけ行けるけど、さぼるのも自由だということだ。けど、昨日さぼったので、今日は2回言ってもいいということにはならない。

ルーレットの勝負で1回勝つと、1万円もらえるということにしよう。

1ブロックの人の勝つ確率は10%なので、30日通い続けると、だいたい、3万円稼げるということになる。31日の月あるし、28日の月もあるし、29日の月もあるのだけど、話を簡単にするために、30日ということにしておく。

2ブロックの人の勝率は20%なので、月に30日通い続けると、だいたい、6万円稼げるということになる。

けど、もちろん、揺らぎがあるので、4万円しか稼げない月や7万円稼げる月もある。

けど、ずーーっと長くこの勝負を続けていると、月にだいたい平均6万円ぐらいかせげるということになる。

でっ、おさっしのとおり、3ブロックの人は、9万円、4ブロックの人は、12万円、5ブロックの人は15万円、6ブロックの人は、18万円、7ブロックの人は、21万円、8ブロックの人は24万円、9ブロックの人はと27万円、10ブロックの人は30万円、かせげるということになる。

もちろん、10ブロックの人をのぞいて、揺らぎがあるので、平均ということだ。

ゼロブロックについては、存続不可能ということで、今回は考えないことにする。ゼロブロックと10ブロックをのぞいて、揺らぎがある。

1ブロックの人は、どれだけ、がんばって、どれだけ、願いをかけてルーレットをまわしても、平均で月に3万円ぐらいしか稼げない。

しかし、10ブロックの人は、どれだけ手をぬいても、どれだけ願いをかけなくても、ともかく、ルーレットやに行って、ルーレットをまわせば、月に30万円稼げる。30万円稼げることが決まっている。

けど、ぼくが設定した条件を知らない人たちは、10ブロックの人は、運があるというのである。10ブロックの人は、負けるということがないので、強運の持ち主だということになる。

いっぽう、1ブロックの人は、運がない人だということになる。何回やっても、そんなに勝てない「ダメなやつ」だということになってしまうのである。

1ブロックの人が、どれだけ、勝つことについて、くわしく勉強したとしても、勝率はかわらず、だいたい10回に9回は負けるということになる。

勝つコツについてどれだけ、調べても、勝てる回数がかわらない。

もちろん、揺らぎがあるから、「この方法で勝てる」と確信するときはあるのだけど、けっきょく、何回も何回も、繰り返せば、その方法は無力だということがわかるのだ。

ようするに、その方法でやったときの勝率は10%、その方法を使わなかったときの勝率は10%で、揺らぎがあるにしても、ずっとやっていれば、10%に対応した回数ぐらいしか勝てないということがわかる。

どれだけ、運をあげようとしてもむだ。

どれだけ、いろいろな方法を考えても、むだ。

もうすでに、説明したことだから、省略して説明するけど、10ブロックにおいて、「絶対に負ける」と全部の回で思って、ルーレットをまわした人は、「勝つと思えば勝てる」という法則性がありそうな言葉が、嘘だということに気がつくのである。

どうしてかというと「負ける」と思ってやっても、勝ってしまうからだ。

勝つと思ってまわしたら、10回まわして、10回とも、勝てた……。

だったら、「勝つと思ってやれば、勝つ」ということが、法則として正しいのかどうかということを問題にしているのである。

じつは、「勝つと思ってやったら、100%の確率で勝てた」にしろ、「勝つと思ってやれば、勝つ」という法則が成り立っているわけではないのだ。

負けると思ってやっても、100%の確率で勝つからだ!!

それなら、「負けると思ってやったら、100%の確率で勝てた」のだから「負けると思ってやれば、100%の確率で勝てる」ということが法則として正しいのか?

「負けると思ってやれば、勝つ」という法則が成り立っているわけではないのだ。

50%の回は、勝つと思って、やって、50%の回はまけると思ってやっても、100%勝ってしまう。
 

なので、「思いに関係なく、やれば、勝つ」というのが、いちおうは、正しいということになる。

「勝つと思えば、勝つ」というのは、まちがいで、「思いに関係なく、勝つ」というのが、正しいということになる。10ブロックではそうなる。

もうすでに、説明したことだから、このくらいでいいだろう。

もうすでに、説明したことなんだけど、さらに、ちょっとだけ、説明しておく。

10ブロックの人が、「あくびをしながらまわすと勝てる」と言ったとする。

ゼロブロックの人が「あくびをしながらまわしても、勝てない。1ブロックの人は、あくびをしてまわしても、10回に1回ぐらいしか勝てない。

「1回でも勝てたじゃないか」と言う人もいるかもしれないけど、あくびをせずにまわしても、10回に1回ぐらいは、勝てるのである。

なので、あくびをしてまわすかどうかということは、勝率には影響をあたえない。あくびをしてまわすということが、さも有効な方法だということを言うのは、よくない。

くしゃみをしてまわすということも、目をつぶってまわすということも、おなじだ。それらの方法は、結果に影響をあたえないのである。

精神世界の人は、「まねをすればいい」ということを言う。

お金持のまねをすれば、お金持になる。

運がいい人のまねをすれば、運がよくなる。

こんなの、うそ。大うそ。

しかも、まねをすることで、マイナスになることはないという前提でものを言っているのである。

10回に1回しか勝てなくて、生活がぎりぎりになってしまっている人に、マイナスになることはないという前提でものを言うのはよくない。

そりゃ、「あくびをする」ぐらいだったら、いいかもしれないけど、やること自体におカネがかかることだと問題が発生する。

たとえば、長財布を買って、長財布を使うということだ。
 

これ、生活がぎりぎりなのに、長財布を買わなければならない。お金持のまねをするために、生活がぎりぎりである人が、長財布を買わなければならない。買った時点で、マイナスだ。効果がなければ、マイナスなのである。

長財布の効果がないことは、決まっているので、マイナスになるだけで終わる。長財布で運をよくする……長財布でルーレットで勝てるようにする……という試みは、マイナスで終わるのである。

*     *     *


ちなみに、付け加えて言っておくと、精神世界の人は、トライをするとトラブルがしょうじることを、無視する傾向がある。

「やるだけやってみればいいじゃないか」と言うのである。「ニコニコすればいいことがある」と言っている人は、ニコニコしたことで悪いことがしょうじる可能性について、まったくまったく、考えてないのである。

ニコニコすれば100%いいことがあると思い込んでいるのである。ニコニコしたら「なに、にやにやしているんだ」と、ガラの悪い人にからまれるということだってあるのだ。

ニコニコしていたら「おまえ、俺のことをわらったな」と殴り掛かってくるやつだっているのである。

そんなことは、絶対にないと言い切れるのか?

ニコニコしていれば、かならず、いいことがあると言い切れるのか?

ニコニコしたので、トラブルがしょうじたということだって、実際にある。ニコニコという表現が、プラスイメージの表現なので、ニコニコという表現に引きずられてしまうけど、本人が主観的にニコニコしていたって、他人がどう感じるのかはわからないのである。

他人は「ニタニタしていた」と感じるかもしれないのである。

ニコニコではなくて、単に「わらう」と表現したっておなじだ。

わらえば、100%いいことがあるのか?

わらったことで、トラブルが発生することは、絶対にないのか?

たとえば、AさんとBさんがいたとする。AさんとBさんは知り合いではない。AさんがBさんの顔を見て、わらった。Bさんは、不審に思って、「俺の顔がおかしいのか」と言ったとする。これだって、トラブルだ。

いいことが起こるとは限らない。

Cさんが、Dさんの顔を見て、けらけらとわらいだしたとする。Dさんは、あんまりいい気持にならないだろう。Cさんに対して、Dさんは、悪いイメージを持つことになる。

わらえば、かならず、いいことがあるとは言えない。




悩みはあるし、見せかけの解決法はある

パチンコで説明してきたけど、ルーレットで説明してもいい。

たとえば、1から100までの目(め)があるルーレットを使うことにする。かならず、1から100までの目で、とまる。つまり、中間でとまるとか、ずっとまわり続けるということはない。

まあ、くぼみのようなものがあり、それが目を構成しているなら、くぼみとくぼみのあいだに出っ張ったところがあるということになる。その、出っ張ったところでとまるということはないということだ。

ゼロブロックの人は、1から100目がでたら、はずれ。

1ブロックの人は、1から10までの目が出たときは、当たりで、それ以外の目が出たときは、はずれ。

2ブロックの人は1から20までの目が出たときは、当たりで、それ以外の目が出たときは、はずれ。

以降、3ブロックは30まで、4ブロックは40まで、5ブロックは50まで、6ブロックは60まで、7ブロックは70まで、8ブロックは80まで、9ブロックは90まで、10ブロックは100までとする。

ゼロブロックと10ブロックには揺らぎがない。ゼロブロックは100%の確率ではずれる。10ブロックは100%の確率であたる。ほかのブロックでは、揺らぎがある。

問題なのは1ブロックの人が、「どうして自分は運がないのだろう」と悩んでしまうところだ。そして、「運をつけるための方法」や「運をあげるための方法」というのが、すべてカス方法で、まったく役に立たない方法だということだ。

悩みはあるし、見せかけの解決法はある。

しかし、その見せかけの解決法は、さらなる悩みしかうみださない。

絶望しかうみださない。

絶望しかうみださないことが、最初から決まっている。

役に立たないことが、最初から決まっている解決法だ。

9ブロックの人は、約90%の確率であたる。

その時々で、揺らぎがあるから、ぴったり、90%の値に対応した回数だけあたるわけではない。けど、だいたい90%の値に対応した回数だけあたる。

もちろん、試行回数が10回であれば、揺らぎの影響を大きく受けてしまう。しかし、試行回数が100000000000回であれば、揺らぎの影響は小さくなる。

9ブロックにいるSさんは、「運」がいい人なのか?

1ブロックにいるTさんは「運」が悪い人なのか?

9ブロックにいるSさんは、実際に運がよく見えるので、運をあげる方法について言及すことができる。もちろん、Tさんだって、言及することはできる。

けど、運が悪そうに見える人が、運をあげる方法について語ったって、だれも信用しないだろう。

Sさんには、固有の「ツキ」があるというわけではない。

Sさんを1ブロックに移動して、Tさんを9ブロックに移動すれば、Sさんの「ツキ」は終わり、10%ぐらいしか勝てなくなる。

ようするに、固有のものではないのである。

「運」とか「ツキ」というものは、固有のものではないのである。

けど、「そうみえる」ことがある。

ただ単に見えているだけなんだよということを言いたいわけ。

結果から、運がいいとか、運がないと言っているだけであって、それは、結果を「運がいい」とか「運が悪い」という言葉で、言い換えているにすぎない。

だから、原因にはならない。

もう、何回も書いていることなんだけど、そういうことだ。

「運をあげる方法」なんてない。

なぜかというと、「運」という言葉で、過去の結果を、言い換えているだけだからだ。

固有のものではない。

たとえば、Sさんは、約90%の勝率なので、運があるように「み・え・る」。

見えるだけなんだけど、見える。

*     *     *

Sさんが、長財布を使っていたとしよう。

そして、Sさんが、「長財布を使うと運がよくなる」と言ったとする。

それを聴いた?Tさんが、Sさんの「まね」をして、長財布を使いだしたとする。

はたして、Sさんの運はあがるのかどうか?

はたして、Sさんの勝率はあがるのかどうか?

あがらない。

運もあがらなければ、勝率もあがらない。

Tさんが1ブロックにいる。Tさんが1ブロックにいるという条件?が、ティーさんの実績をつくりだしている。

それ以外ではない。

だから、あがらない。

どれだけ、長財布を使っても、あがらない。

どれだけ、「長財布を使えば運があがる」と強く信じても、あがらない。

ずっと信じていれば、ときどき、連続してあたるときがある。

そのとき、Tさんが、じゅうぶんにおろかなら、「長財布を使えば、運があがる」と信じてしまう。

けど、ずっとずっと、やり続ければ、けっきょく、10%に相当した回数に近い回数しかあたらないということになる。

ほんとうの条件が、まったくまったく、かわらないということがわかる。

長財布を使うかつかわないかという条件は、ほんとうの条件とは、まったく無関係なのである。ほんとうの条件とは、回数のちがいをうみだしている条件のことだ。

長財布が運をあげたように見えたけど、じつは、あげてなかった。

けっきょく、おなじだった。

どうしてかというと、Tさんが、1ブロックに住んでいるからだ。1ブロックのパチンコ屋にしか行けないからだ。

長財布は、まったく、運とは関係がないのである。

運というのは、結果を言い換えているだから、まったくまったく、意味がない。

固有のものではないとずっと書いてきたけど、これは、その人に固有のものではないということだ。

わかるかな?



2024年8月24日土曜日

真実

 真実を知らされたら、どれだけの人間が、真実だとうけいれることができるのか?

「あのころは、そう考えて当然だ」

 まあ、みんな……「あのころはしかたがなかった」とか「あのころは、そう考えて当然だ」と言って、おしまいなんだろうなぁ。どうして、「あのころは、そう考えて当然だ」と思うのかということについて、真剣に考えたほうがいいぞ。

この人間は10ブロックに割り振るということを決めているのは誰なのか?

 問題なのは、「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」というような、いちおうは前向きで、通りのよい考え方が、実際には、条件が悪い人をくるしめているということだ。

しかも、「明るいことを考えれば、明るいことが起きて、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方は、もっともっともっと、条件が悪い人をくるしめることになる。

これは、あまり言うべきではないのだけど、カルマ論に関係している。

つまり、なぜ、ゼロブロックに生まれる人もいるし10ブロックに生まれる人もいるのかということが問題になる。

ぼくの説明を読んでいるとき、10ブロックや9ブロックに生まれた人は、運がよくて、ゼロブロックや1ブロックに生まれた人は運が悪いと思った人はないだろうか。

まあ、ぼくは、書いているとき、そういうふうに思う人がいるだろうなと思って書いていた。

ようするに、ゼロブロックに生まれたやつは、ゼロブロックに生まれたから、運が悪いということになる。

そして、すべては自己責任という考え方が付け加わると、ゼロブロックに生まれたやつは、ゼロブロックに生まれたから悪いんだということになってしまう。

「ゼロブロックに生まれたやつは、ゼロブロックに生まれたから、運が悪い。そんなのは、自己責任だ」ということになる。

生まれかわりやカルマということについて考えると、ゼロブロックに生まれた人は、前世で悪いことをしたから、ゼロブロックに生まれたんだということになる。10ブロックに生まれた人は、前世で善いことをしたから、10ブロックに生まれたんだということになる。

ほんとうだろうか。

ぜんぜんちがうのではないか。

むしろ、10ブロックに生まれた人は、悪魔の手先として悪いことをしたから、10ブロックにうまれ、ゼロブロックに生まれた人は、良心に従って善いことをしたから、ゼロブロックに生まれたのではないか。

10ブロックに生まれた人は、前世で極悪の限りを尽くしたから、10ブロックに生まれたのではないか。ゼロブロックに生まれた人は、前世で、苦しみながらも善行をしたから、ゼロブロックに生まれたのではないか。

じつは、割り振りをしている存在がどういう存在なのかということで、結論が180度変わってしまう。この人間は、ゼロブロックに割り振る。

この人間は10ブロックに割り振るということを決めているのは誰なのか?

悪魔なのか、神なのか。

神だと考えると、あたかも、カルマ論が正しいような気がしてくる。

しかし、神ではなくて、悪魔が割り振りをしているとしたらどうだ。

悪魔が、輪廻をつかさどっているとしたらどうか。

まさしく、悪魔の手先として使える悪人を10ブロックに転生させ、最も神にに近い、善人を、ゼロブロックに転生させるのではないか。

ゼロブロックにうまれさせ、善人に、悪の感情を植えつけようとするのではないか。悪魔なら、そうする。悪魔が輪廻システムを管理しているのであれば、当然そうする。


2024年8月23日金曜日

カレーでもつくろうかな?

 いまさっき、とどいた素材で、カレーでもつくろうかな?

どうしようかな。

 

早く、夏、終われ。

 頭の横の、つまった感じが、なかなか、ぬけないんだよなぁ。解毒はしている。

あーー。

あと、ネットスーパーの注文品を受けとった。思い出したけど、アマゾン・ライフの場合は、コンビニ袋に似た袋の結び目が、きついんだよね。このあいだ、アマゾン・ライフで買ったとき、じつは、紙袋のほうが多くて、「こういうものも紙袋に入れるようになったのか」と安心していたのだけど、今回は、ポリエチレン系の袋のほうが断然、多かった。その、コンビニ袋に似た形の、ポリエチレン系の袋の「むすびめ」がかたいんだよ。そうなると、そこを、強く結んだ人の汗などがついているということになる。ワクチン以前なら、まったく気にしない。けど、ワクチン以降は、こういうことも気になるようになった。強く結んだところを、強くつまんで、袋をあけるとなると、やばい病原体が指についてしまうかもしれない。楽天・西友のほうは、結び目が、ゆるゆるで、別に、結び目や結び目付近をいじらなくても、あけることができる。

ともかく、食料品をまた、ゲット。

早く、夏、終われ。

あとでけす

 トランプがちゃくちゃくと用意をしている。すでにやったことを合法化するための用意だ。じつは、やった時点で合法化されている。けど、世間的な体裁を整えるだけだ。世間的な体裁を整えるだけでも、たいへんなことだ。早くやってほしい。はやくしてーーー。はやくしてーーー。

「負けると、どれだけ強く思っても、90%ぐらいは勝ってしまう」

たとえば、9ブロックに住んでいるZさんが、1000回、パチンコをやって、903回勝ったとする。

そして、1ブロックに住んでいるYさんが、1000回、パチンコをやって、95回勝ったとする。


Zさんのほうが、「勝ちたい」という気持が強かったから、勝った回数が多いのか?

ちがう。

Yさんのほうが、勝ちたいという気持が弱かったから、勝った回数が少ないのか?

ちがう。

勝ちたいという気持の強さで、勝つ回数は決まらない。

気持ちの持ちようは、勝つ回数に影響を、まったくあたえない。

思いの強さは、勝つ回数に影響をあたえない。


勝つ回数に影響をあたえるのは、最初の設定だけなのである。

設定条件だけが、結果に影響をあたえている。

しかし、そこに住んでいる人たちは、そのことに、気がつかない。どうしてかというと、そういう設定条件があるということを知らされてないからだ。

だから、本当は、最初の条件だけが結果に影響をあたえているのに、その影響は無視して、「思いの強さ」のせいにしてしまうのである。

実際に、「思いの強さで勝てる回数がちがう」と思っている人は、その気持ちに対応した回の記憶が強く残り、その気持ちに対応してない回の記憶は、弱いか、完全になくなってしまうのである。

「勝つと強く思えば、勝てる」と勝手に勘違いしてしまうのである。

「負ける」と強く思っていても、実際には、9ブロックの人は、90%ぐらいは勝ってしまう。これは、9ブロックに住んでいる人が、実際に、やってみれば、はっきりすることだ。

「負けると、どれだけ強く思っても、90%ぐらいは勝ってしまう」という結果になる。

*     *     *


ちなみに、運もまったく関係がない。9ブロックの人は、運が強いから90%ぐらい勝てるのか?

ぜーんぜん、ちがう。

1ブロックの人は、運が弱いから10%ぐらいしか、勝てないのか?

ぜーんぜん、ちがう。

ここで、「運」と言っているものは、結果の言い換えにすぎない。

実際に、Zさんが、1000回、パチンコをやって、903回勝ったから、運が強いと、Zさんやほかの人が、判断するのである。

結果を「運」という言葉を使って言い換えているだけなので、「運」は原因になりえない。



2024年8月22日木曜日

暗いことを考えたのに、明るいことが起こってしまうのである

たとえば、8ブロックのEさんは、「勝てると、明るいことを考えれば、勝という、明るいことが起こる」と考えているとする。

実際に、勝てると思って打つと、80%の確率で勝てる。

10000回ぐらい打って、だいたい8000回ぐらい勝っているので、「勝てると、明るいことを考えれば、勝という、明るいことが起こる」という言葉は真実だと考えてしまうのである。

ようするに、実際にだいたい80%の確率で勝てるので「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」という考え方は正しいと思っているのである。

「明るいことを考えれば明るいことが起こる」ということが正しいのかどうかについて、もうちょっと深く、考えてみよう。

8ブロックの「勝率」は80%なので、「負ける」と思って打ってみても、だいたい80%に相当する回数は、勝ってしまうのである。これも、ばらつきはある。かたよりはある。

しかし、長期間打っていると、80%に収束していく。

ようするに、80%ぐらいの確率で、勝てるということになっている。

その場合、「暗いこと」を考えて打っても、80%ぐらいの高確率で勝ってしまうのである。

なので、「暗いことを考えて打っても、暗いことは20%ぐらいしか起こらない」ということになる。

だから、セットにして「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思えば暗いことが起こる」という言葉は、命題としては『偽』だということになる。

勝つ確率が高い場合でも、「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思えば暗いことが起こる」という考え方は、まちがっているのである。

「明るいことを考えると、明るいことが起こる」という言い方だと、「まるで、明るいことを考えた」ということが、明るいことが起こる条件のような気がする……。明るいことが起こったのは、明るいことを(過去において)考えたからだと、思っているのである。

多くの8ブロックの人が、そう思っている。

8ブロックでも、 「勝てると、明るいことを考えれば、勝という、明るいことが起こる」ということが、真実として語られているので、多くの人が「勝てると、明るいことを考えれば、勝という、明るいことが起こるということは、真実だ」と思ってしまうのである。

しかし、勝ち負けに影響をあたえているほんとうの原因は、「明るいことを考える」とか「暗いことを考える」ということではない。

つまり、勝ち負けに影響をあたえている、ほんとうの原因は、「8ブロックで、パチンコを打っている」ということだ。

「思い」……関係ない。

「考え方」……関係ない。

8ブロックのほぼ全員が、ほんとうの条件を無視して、いつわりの条件をほんとうの条件だと考えているのである。

実際に、勝てると思って、打ったら、だいたい80%ぐらいの回数、勝てる。

8ブロックではそうなる。

実際に勝てると思って打ったら、だいたい80%ぐらいの回数、勝てた。

だから、「勝てると思って打てば勝てるというのは真実だ」……と思ってしまう。

実際に明るいことが起こるなと思って打ったら、かなりの回数、明るいことが起こった。

だから、「明るいことを考えれば明るいことが起こるというのは、真実だ」……と思ってしまう。

多くの人が、だまされている。

負けると思って打ったって、8ブロックの人間は80%の確率で勝ってしまうのである。ばらつきがあるので、かならず、100回やれば80回勝てるということではないよ。

けど、だいたい、1000回に800回ぐらいは、勝ってしまう。

10000回に8000回ぐらいは、勝ってしまう。

「負けると暗いことを考えて打っても、80%の確率で勝ってしまう」のである。

しかも、条件なしの法則について考えるなら、勝てると思って打ったのに、勝てなかった20%を無視してはいけないのである。

また、負けると思って打ったのに、勝ってしまった80%を無視してはいけないのである。

法則性はない……。

これに気がつかなければならない。

「勝つと思って打ったか」「負けると思って打ったか」は実際の勝率とは関係がないということに、気がつかなければならないのである。

*     *     *
 

試行回数が有限なので、勝てなかった20%というような表現をしている場合でも、そのときの試行回数で、だいたい20%ぐらいということを意味しているということに注意してほしい。

「20%負ける」という場合の、20%というのも、その時点での試行回数全体のだいたい20%ぐらいの回数、負けるということだ。

ぴったり、20%に相当する回数だけ、負けるわけではない。

ただし、ぴったり、20%に相当する回数だけ、負ける場合も、ある。

試行回数が有限回なので、その試行の範囲においては、試行回数全体数が決まった時点での、勝った回数や負けた回数が、全体の回数における、確率の値に相当する回数に近くなるということだ。その試行回数は、じゅうぶんに多くなければならない。

今回の記事で一番言いたかったことは、負けると暗いことを考えて打っても、1000回中800回ぐらいは勝ってしまうということだ。

暗いことを考えたのに、明るいことが起こってしまうのである。

しかも、全部の回で暗いことを考えて打ったのに、80%に相当する回数ぐらいの回で、勝ってしまう。

ここに、注目してほしいんだよな。

妄想的なことなのに、「真実だ」とAさんが言っているだけなのである

 1ブロックの人だって、2回連続で勝つことはある。ある人がAさんだとする。Aさんは、「勝てると思えば勝てる」「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「人に親切にすれば、勝てる」「すべてに感謝すれば、勝てる」と思って、パチンコをやった。

そうしたら、2回も連続で勝てた。1ブロックの条件は、10%だ。

10%だから、長く打てば、10%に収束していく。

2回連続で勝ったとき、「勝てると思えば勝てる」「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「人に親切にすれば、勝てる」「すべてに感謝すれば、勝てる」ということは、正しいと思ってしまうけど、20回連続で、「勝てると思えば勝てる」「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「人に親切にすれば、勝てる」「すべてに感謝すれば、勝てる」と思っていたのに、負けたことは、無視してしまう。

*     *     *

「勝てると思えば勝てる」「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「人に親切にすれば、勝てる」「すべてに感謝すれば、勝てる」と、並べて書くと問題が発生するので、「すべてに感謝すれば勝てる」ということについて考えることにする。

たとえば、だれかが、「すべてに感謝すれば勝てる」と言ったとしよ。それをAさんが聴いて、「すべてに感謝すれば勝てる」と思って打った。そうしたら、勝てた。だから、Aさんは「すべてに感謝すれば勝てる」と思って打てば勝てると思うようになる。

そして、Aさんのなかでは「すべてに感謝すれば勝てる」というのは、真実になる。

ほんとうは、真実じゃないのだけど、Aさんの頭のなかでは、真実になる。

Aさんが、すべてに感謝しながら、パチンコを打って負けたとする。

「すべてに感謝すれば勝てる」と思っていたのに、すべて感謝したにもかかわらず、負けたのだ。

これを、Aさんは、無視してしまう。

勝ったときは、重視して、負けたときは無視してしまう。

だから、Aさんのなかでは、いつでも、「すべてに感謝すれば勝てる」というのは、真実だということになっている。

Aさんが、それでしあわせならいいけど、Aさんに「すべてに感謝すれば勝てる」と言われた人は、どうなのだろうか。

たとえば、「すべてに感謝する」ということを実行して、10000回打ったのに、9000回負けた人がいるとする。Bさんだとする。Bさんは、自分の体験から「すべてに感謝しても、勝てないときがある」「すべて感謝しても、負けることのほうが多い」と感じたとする。

その場合、Aさんが言っていることは、真実でないと、Bさんは感じるだろう。

2回連続して勝っただけで、「すべてに感謝すれば、勝てる」と思ったAさんは、じつは、Bさんとおなじように、10000回打って、だいたい、9000回ぐらい負けている。2回連続して勝ったことが1回あるので、Aさんが、「真実だ」と確信しただけだ。

事実の認識という点では、Bさんが正しい。

ただ、Aさんは「すべてに感謝すれば勝てる」ということを、宗教的に信仰しているので、事実をうけいれることができないだけなのだ。

Aさんが事実を見ないようにして、妄想的なことを言っているだけなのである。

妄想的なことなのに、「事実だ」とAさんが言っているだけなのである。

妄想的なことなのに、「真実だ」とAさんが言っているだけなのである。


体調

 体調が悪い。ゴミを出しに行けない。今日は、パスかなぁ。横になっても、けっこうつらいんだよなぁ。うーーん。

2024年8月21日水曜日

「思い」の強さで、勝ち負けが決まるというような話になってしまう。

 ぼくは思霊と言っているのだけど、思霊には、言霊のような力があると思っている人たちがいる。

まあ、その人たちは、ぼくがつくった思霊という言葉は知らないと思うけど、まあ、「思う」ということには言霊のような力があると思っている人たちがいる。

思ったことは、たしかに、いろいろと身体や未来の出来事に影響をあたえている。たとえば、特に「空気を吸おう」と思ってなくても、空気を吸っている。そして、空気を吸ったのだから、空気を吸ったということから、いろいろな出来事がしょうじる。

だから、特に、強く思って意識的にやってないことでも、「思い」は影響をあたえている。けど、これは、不可思議な力ではない。神秘的な力ではない。

ようするに、身体と身体を取り巻く物理的な環境に、空気を吸うということによって、物理的な出来事の連鎖がしょうじるだけだ。

また、小便がしたくなったので、トイレに行くという場合は、意識的な行動をしたということになる。なので、「思い」は行動に影響をあたえている。なので、思いは、身体を取り巻く物理的な環境にも、不可避的に、影響を及ぼす。

けど、そういうことではないんだよ。そういうことではない。

「思う」ということが思霊をうみだし、思霊が神秘的な力をもっているので、「思ったとおりになる」というのが、思霊理論だ。

「思いは現実化する」という言葉を発している人は、この神秘的な力の部分と、思ったから行動するという部分を、わけて考えるということをしない。かならず、ごちゃまぜにして、考えている。ごちゃまぜにして、両方の意味を、「思いは現実化する」というひとつの言葉で、表現してしまう。

だから、「思いは現実化する」ということを信じている人は、自動的に神秘的な力も信じてしまう。

けど、これは、トッリクで、ほんとうは、思って行動すると、思ったあとにその思いが現実化することがあるということを言っているだけだ。

「思って行動するから現実化する」ということの上に「思うことによってしょうじる神秘的な力によって現実化する」ということを、かぶせてしまっている。

だから、「思い」には神秘的な力がやどっているということまで、信じてしまうことになる。

けど、現実世界においては、「思い」の神秘的な力は、効力を発揮せず、条件が効力を発揮しているということになる。

そして、条件は、無視されるのである。

ほんとうは、現実世界において、一番重要な条件が無視されて、ほんとうは、チカラをもってない「神秘的な力」が重視されるようになる。そうなると、現実を説明できなくなるのである。だから、思いは現実化する」ということを「神秘的な思いの力によって」現実化するのだと理解してしまうと、たいへん、まずいことがしょうじる。

比喩的に言えば、0%の確率で勝てるパチンコの台にむかって、必死にパチンコの玉を打つということになる。「神秘的な力」によって、勝てるはずだと思って、負けるということが決まっている代のまえにいることになる。「でると思えばでる」「勝つと思えば勝つ」と思って、必死になって打っているのだけど、条件によって0%と決められているので、勝てない。でない。

その場合、「思い方がへたくそだから、ダメなんだ」ということになってしまう。「思えば」思ったということによって必然的にしょうじる、神秘的な思霊の力によって、勝てるのだから、勝てなけれはならないのである。

「でる」と思ったら、「でる」と思ったことによって必然的にしょうじる神秘的な思霊の力によって、でなければならないのである。

ところが、ゼロブロックの人は、勝てない。勝てないということが、決まっている。勝てない条件で、パチンコを打ってのだから、勝てない。もう、決まっている。

けど、ブロックごとの条件の差をクチにしてはいけないのである。

「そんなのは、負け惜しみだ」「そんなのは、負け犬の遠吠えだ」「嫉妬しているだけだ」というようなののしりの言葉が、『条件』をクチにした人を、おそうのである。

条件の差はないとか、差があったとしてもたいして影響はないということになっていると、「思い」の強さで、勝ち負けが決まるというような話になってしまう。

あるいは、条件の差はないとか、差があったとしてもたいして影響はないということになっていると、運が強い人が勝って、運が弱い人は負けるというような話になってしまうのである。

運を強くするには、「人に親切にすればいい」「すべてに、感謝すればいい」「パチンコ玉をかわいがればいい」というようなことが言われる。

けど、ゼロブロックでパチンコを打っている人は、どれだけ、人に親切にしても、勝てない。勝率0%だからだ。けど、ゼロブロックでパチンコを打っている人は、どれだけ、すべてのことに、感謝しても、勝てない。勝率0%だからだ。けど、ゼロブロックでパチンコを打っている人は、どれだけ、パチンコ玉をかわいがっても、勝てない。勝率0%だからだ。

ゼロブロックのパチンコ屋に行くしかない

 まあ、最初の設定が、現実に反映するようにできているので、モデルはモデルでしかない。

けど、いちおう、思考実験として、パチンコ屋について考えてみよう。

パチンコ屋は、各ブロックに1軒しかなく、パチンコ屋に行くということは、そのブロックのパチンコ屋に行くことを意味する。ひとり、1日に1回しか、パチンコ屋に行けない。パチンコ屋で使うカネ(投入金)は、みんな、おなじ金額にする。パチンコ玉が、特定の場所に入った場合に出てくるパチンコ玉の数も、みんなおなじ。これは、どのブロックでもおなじだ。

そして、ゼロブロックは0%の確率で玉がでる。1ブロックは10%の確率で玉がでる。2ブロックは20%の確率で玉がでる。3ブロックは30%の確率で玉がでる。4ブロックは40%の確率で、玉がでる。5ブロックは50%の確率で、玉がでる。6ブロックは60%の確率で、玉がでる。7ブロックは70%の確率で、玉がでる。8ブロックは80%の確率で、玉がでる。9ブロックは90%の確率で、玉がでる。10ブロックは100%の確率で玉がでる。

こういうことにしておこう。

各ブロックの玉がでる確率が、そのまま、その人たちの、パチンコで勝つ確率になる。確率なので、揺らぎがあるけど、1ブロックの人は、だいたい平均すると10回に1回だけ勝つということになる。

もちろん、2回連続して勝つこともあるし、20回連続して負けることもある。あくまでも、何回も何回も、試行を繰り返した場合だ。

7ブロックの人は、だいたい平均すると10回に7回勝つということになる。もちろん、10回連続して勝つこともあるし、7回連続して負けることもある。

けど、でる確率という条件は決まっているので、努力をしても、でる確率はかわらない。

「でる」と明るいことを考えた場合と、「でない」と暗いことを考えた場合のでる確率は、長期的にみればかわらない。けど、だれがか「でる」と明るいことを考えれば、でると言ったとしよう。これは、まちがっている。かーーせんぜんに、まちがっている。

その人が明るいことを考えたから、確率がかわるかというと、確率はかわらない。

完全なまちがい。

けど、「でる」と明るいことを考えて打ったら「でた」ということがあったとする。そうすると、その人は、……「でる」と明るいことを考えれば、でる……と考えてしまうようになる。

そのあと、「でる」と明るいことを考えて打ったにもかかわらず、でなかった(けっきょくその日はまけた)ということがあったとしても、その人が、その事実を無視して、無意識的に記憶に残さないようにすれば、でたときの記憶ばかり残って、でなかったときの記憶は、ないということになる。

あるいは、出なかった日の回数がうっすらとぼけていて、「そんなに負けてない」というようなおおざっぱな記憶が残ったとする。

そうなると「そりゃ、でなかったときもあるかもしれないけど、でると思えば、だいたい、でる」と言うようになる。

「アバウト思考」をするパーソナリティーであって、なおかつ、自分にとって有利な記憶は強く残り、自分にとって不都合な記憶は薄く残るか、忘れてしまうというようなパーソナリティだと、そういうふうに考えてしまう。実際の勝率と、その人が思っている「だいたいの勝率」にちがいがある場合がある。

ゼロブロックに住んでいる人は、どれだけ「でる」と明るいことを考えても、でない。

明るいことを考えても、明るいことは起こらず、明るいことを考えたのに「負ける」という暗いことが起こる。

これは、ゼロブロックに住んでいる人の性格とか、思いとかとは、関係がない。ゼロブロックに住んでいる人の頭のよさとか、スキルのすごさとは、まったく、関係がない。

ただ、ゼロブロックに住んでいて、ゼロブロックのパチンコ屋に行くしかないから、明るいことを考えてやっても、暗い結果がでるということになる。

けど、何回も何回も、出ないという結果を繰り返すと、「やる気」をなくすようになる。そして、「でる」という明るいことを考えれば、明るいことが起こり、でないという暗いことを考えればでないという暗いことが起こるという考え方は、まちがっていると考えるようになる。

これを、たとえば、9ブロックの人が見た場合、「そんなふうに考えているからでないんだ」「ネガティブに考えているからでないんだ」と考える場合がある。

9ブロックの人は、自分のめぐまれた条件を無視してしまうので、自分より下の条件をもっている人を見ると、そういうふうに考えがちなのだ。

けど、まちがっている。

条件が影響をしている。ここでは、でる確率という条件が影響している。

そして、そのブロックにうまれたら、そのブロックのパチンコ屋に行くしかないという条件が影響をあたえている。各ブロックの人が、みーーんなみんな、条件を無視して、「性格」や「明るい思い」や「暗い思い」が、玉がでるかどうかに影響をあたえていると考えていたとしたら、滑稽ではないか。

だって、みんな、玉がでる確率という条件を無視して……この世界では所与の条件を無視して……まちがったことを言っているからだ。

原因について、考え違いをしているのである。

滑稽。滑稽。幼児的万能感にみたされている人ばっかり……。

玉がでる確率という条件だけは無視して、あーーだこーーだと言っているのである。

「でると思えばでる」「勝つと思えば勝つ」と条件がいい人が言う。条件が悪い人は、どれだけ「でる」と思ってもでない。「でる」というような明るい思いとは関係なく、条件が決まっているので、条件が悪い人が、どれだけ「でる」と思ってパチンコをやっても、でない。これは、その人の気持ちの問題じゃない。

けど、『条件』というものをガン無視する人は、「暗いことを考えたから出ないんだ」と理由付けをしてしまうのである。

けど、そうじゃない。

玉がでる確率という条件を無視しているから、そういう精神論が正しいと思うようになってしまう。玉がでる確率という条件が、影響をあたえている。

「明るいことを考えたか」「暗いことを考えたか」なんて、まったく関係がない。

 

2024年8月20日火曜日

このさき、どうするかな

 つかれたなぁーー。このさき、どうするかな?

手首のダニ(虫?)刺されあとが気になる。足首は気にならない。手首は見えるんだよなぁ。

それで、長い、使い捨て手袋をして、本棚の整理をした。いくつかすてる本があるから、ひもでむすんで捨てようとしたけど、使い捨て手袋が、ぴったりしたものではなくて、ぶかぶかなので、ひもをうまく、むすべない。手袋の指先部分とひもがからんでしまった。なので、手袋をけっきょく、とって、素手でむすぶ作業をした。けっきょく、腕も手も、ダニに刺されなかったのでそれでいいとする。本棚と書いたけど、じつは、お勝手によくあるタイプの収納部分に、本を平積みでおいておいた。そこら辺にある本は、むかしのパソコン関係の本だから、いまは、必要がない。

けど、なんというか、こんな作業でも、猛烈に、やりたくないのである。

いちおうやったけど、このペースだと、いったいいつになったら、引っ越しの用意ができるのかわからない。

*     *     *

「手袋の指先部分とひもがからんでしまった」と書いたけど、ほんとうは、それでも、うまく、手袋をしたまま、ひもを結ぶことができた。蝶結びはあきらめて、そのまま、真結び。けど、二本目をやるときに、手袋をとった。あの手の本、数冊なら、一本のひもで結ぶ、結び方がいいのだけど、やっぱり、手袋がぶかぶかで、あきらめた。

手袋はしていたけど、上半身は裸なので、ダニに刺される可能性があった。ほこりがあるところに、ダニがいる。 

*     *     *

「かりに生きのこったとして、この先どうなるんだ?」と何回も思った。どうしようかな?

*     *     *

もう、つかれたなぁ。ちっと、最後の親父・ネズミ・ダニ事件でつかれた。これ、ほんとうに、効いた。最後のエネルギーを使ってしまった感じがする。



俺がやりたかったこと

 けっきょく、俺がやりたかったことって、研究と創造なんだよね。

あとは、家で、好きな人といっしょに暮らしたい。

やっと、風呂に入った

 やっと、風呂に入った。しかし、これからどうするかな?

もう、だいぶつかれている。けど、横になっても眠れるわけじゃないしなぁ。さっき、昨日、つくった、親子丼もどきを食べたしなぁ。玉ねぎがなかったから、玉ネギのかわりに長ネギを使って作った親子丼。なんか、最近、急に、親子丼が食べたくなるときがあって、材料があれば作って食べている。

親子丼に関しては、白砂糖を使っている。白砂糖じゃないとうまくないんだよ。まあ、小さいときから食べてきた親子丼が白砂糖を使ったものだから、しかたがないといったら、しかたがないなぁ。つくってない人はわからないと思うけど、白砂糖を、けっこう、たくさん入れないと普通の味にならない。まあ、いいか。白砂糖だけ食べるわけじゃないから。

風呂に入ったとき、足首のところにかさぶたがあることに気がついた。「えっ」と思った。そういえば、昨日、かゆいからかいたのだけど、こんなにかさぶたができるほどかいたとは思わなかった。あとが残らない程度にかいたつもりなんだけど、これも、眠っているときの話だから、わからないんだよね。そこのところを、見てかいたわけじないから。早く引っ越して、こういうことがゼロになるところに住みたい。


2024年8月19日月曜日

生ごみをすてられたので、それだけで、僥倖

 生ごみをすてられたので、それだけで、僥倖。

いやー。こまってたんだよね。今回は、冷蔵庫のなかにある、不要なものをすててきた。しかし、手首を見ると、まだ、ダニ刺されのあとが残っている。こういうの、けっこう、いやなんだよ。もう、何年間も刺されているし、親父がダニの原因だから、落ちこむ。

昨日、じつは、楽天・西友のネットスーパーを使った。これ、午後8時から午後10時までの受け取りで、どうにかなるような感じがしたんだけど、起きているのが、わりとつらかった。けど、じゃあ、あの時間、受け取りがなかったとして、眠れるかどうかというと、眠れないのだ。この、眠りたい感じなんだけど、頭がつっぱって?眠れないという時間が、わりとつらいんだよね。


そのだれかを「ののしる」ようにできている

 かならず、条件を無視して話をするように、しむけられているのだ。あるいは、かならず、条件を無視して話をするように、しつけしれている。そして、条件について言及するのは、はずかしいことだという感覚をもっている。この感覚も、植えつけられたものだ。だから、条件について言及する者には、「性格がわるい人」「ねたんでいる人」「言いわけばかりする人」「意気地のない人」「努力を放棄した人」「ネガティブな人」「バカ」「ダメ人間」というレッテルがはられることになっている。しかし、それでも、条件が影響をあたえている。この条件無視の態度は、普通の人にとっては、あたりまえの態度だけど、ほんとうは、おかしな態度だ。けど、気がつかないのである。だれかが、条件について語りだしたら、そのだれかを「ののしる」ようにできている。

*     *     *

そんなのは関係がない。ねたんでいるだけだ。……影響は関係がないのに、性格がわるいから、ねたんで、そういうことを言っている。

ちょっとは影響はあるかもしれないけど、たいした影響はない。……けっきょく、その場合は影響はないという印象を与えて話をすすめる。ようするに、影響を無視する。 

嫉妬しているだけ。

条件のせいにして、さぼりたいだけ。

負け犬の遠吠え。

うまくいっているひとに、いちゃもんをつけているだけ。

本人の努力不足を棚に上げて、うまくいっているひとに、いちゃもんをつけているだけ。

さぼりたい理由を探しているだけ。

たいした影響はないのに、ネガティブだから、そんなことが気になる。

だれだってつらい。みんな、条件が悪くても、そこでがんばっている。(条件が影響をあたえることは認めるけど、それ(条件というもの)は、がんばればどうにかなるような小さな影響しか与えないという先入観をもっている。そして、けっきょく、条件は、努力(がんばること)によって克服できるのだから、いかなる条件よりも努力をするかしないかの条件のほうが、影響がでかいということを言っている。……けど、そんなのわからないよ。つまり、常に、努力以外の条件よりも、努力したかどうかという条件(努力条件)のほうが影響をあたえるということを、無自覚に考えているわけだけど、努力以外の条件のほうが、努力したかどうかという条件(努力条件)よりも影響をあたえる場合については考えておいたほうがいい。実際そういうことがあるからだ。

*     *     *

こーーんな「ひどいこと」を言っておいて、いいことを言ったつもりだ。上記の発言は、相当に、ネガティブな発言だと思うけどなぁ。ネガティブじゃないの?

もし、条件がおーーきな、おーーきな、強い影響をあたえていたら、上記の発言のほうがまちがっているということになる。

まちがった前提でものを考えて、人を不当にののしっているということについて、ちょっとは、自覚したほうがいい。

 

2024年8月18日日曜日

まるまる荘時代の日曜日

 もう、まるまる荘時代よりも、体力がない状態なのか? あーー。まだ、まるまる荘時代のほうが、元気だったのか? これじゃ、まるまる荘時代の日曜日どころじゃないなぁ。まるまる荘時代の日曜日にも、おいつかないのか。あーー。せめて、まるまる荘時代の日曜日を味わいたいものだ。あの日曜日の雰囲気を味わいたい。まあ、むりだね。

いま、押し入れのかたづけをしようと思ったのだけど、はっきりいって、このあいだおなじことをしようとして、右手首をダニに刺されたのだ。そのダニ刺されのあとがなおってない。一度かさぶたのようなものがとれたけど、うすく、あとになっている。この、あとは、消えるのかどうか、気になる。長い手袋を買ったので、長い手袋をするつもりなんだけど、長い手袋をしたから、刺されないのかというと、それはわからない。だいたい、このあいだのやつだって、じつは、作業中に刺されたわけではなくて、作業が終わって、横になってうとうとしているときに、右側の手に、袋があたって、その袋を、移動したとき刺されたみたいなのである。一時的に目を覚まして、がんばって、移動した。そのあとすぐまた、うとうとした。でっ、うとうとしているときに、手首が猛烈にかゆくなって、かいたのである。でっ、たぶんだけど、作業をしているときほこりと一緒にダニが落ちたんじゃないかなと思う。ほこりは落ちるわけだから……。落ちないようにがんばってみたけど、落ちたんだろうなーー。その、袋というのは、作業をするまえは、気にならなかった袋なんだよ。作業をしたものに関しては、押し入れの上段に入っていたもので、その袋は、押し入れの下段に入っていたものなんだよ。

 


すぐにけす

 悪いやつじゃないのに、まったく気がつかないやつというのは、どういうやつなんだ?

悪いやつじゃないのに、まったく気がつかないやつ……不可思議な存在だな。

今の時点で……ということね~~。いまの時点で……。

こんなに、まるだしなのに、どうして気がつかないのかな?

びっーーくり、まるだしーーー。気がつくよなぁ……。おかしいな。 

やっぱり、テレビの専門家とインテルが効いているんだろうなぁ。あーーー。むなしい。

いまだに河野○○が総理大臣にふさわしいと考えているやつがいるんだからなぁ。おかしな世の中だなぁ。

けど、「否定して判断した」という、記憶が残らない。

 「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということを信じているのに、自分は、パチンコをやったとき、あんまり勝てないので、パチンコをやめたという人がいる。

パチンコでお金をかせぐことができるという「明るいこと」を考えれば、パチンコでお金をかせぐことができるという「明るいこと」が起こるはずなのである。その人は、それが絶対法則だと確信している。

なら、明るいことを考えてパチンコをやれば、かならず、明るいことが起こるはずなのである。確信しているのだから、ずっとやるべきだろう。というか、なんで、勝てるという「明るいこと」を考えて、パチンコをやったのに、負けるという「暗いこと」が起こるのか?

おかしいじゃないか。

明るいことを考えてパチンコをやったのに、負けた……この事実だけで……このひとつの事実だけで……「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という言葉がまちがっているということがわかる。

「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という命題が『偽』であることがわかる。

なんでわからないの?

なんで、現実を見ようとしないの?

なんで、負けたにもかかわらず、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということは、絶対法則だと思っているの?

 

*     *     *

 

たとえば、Eさんは、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というということを信じているのだけど、何十回かパチンコを打ったら、負けたので、パチンコをやらないようにしたとする。

パチンコをやめたのは、毎回、「勝てる」と明るいことを考えたのに、負けたので、「負けることもある」ということを理解して、やめたのである。

つまり、現実的なことに関しては、現実的な判断をしているのである。けど、それでも、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方をあきらめきれないのである。

これは、幼児的万能感がつよく残っている人には、よくあることだ。本人は、矛盾を感じないのである。現実的な場面では、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方を否定して、判断しているのである。

けど、「否定して判断した」という、記憶が残らない。いつまでもいつまでも、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということになっているのである。

本人は、現実的な場面では、現実的は判断ができるのだけど、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方を自分が否定したという自覚がないので、他人には、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方は正しいと、主張しまくるのである。

本人にとって現実的なことに関しては、本人が気がつかないまま「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方を否定して、判断しているのに、他人には、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方は絶対的に正しいと主張しまくるのである。

はっきり言って、迷惑なやつだ。

こういうやつらが、ひじょうーーーに、多いのである。どんだけ、こういうやつらがいるか、数えきれないほど、いっーーっぱい、いーっっっぱい、いる。本人が、気がついてないというところが、「悪質」なんだよなぁ。

まあ、こどもっぽいと言えば、こどもっぽいのだけど……。

そして、気がついていないのだから、「悪意」はないということがわかるのだけど、「悪意」がないぶんだけ、「悪質だ」ということがあるのだ。

この世には、そういうことがある。

 

事実を無視しているので、法則性がないということに気がつかない。

「だいたいおなじ」ということについて考えてみよう。「だいたいおなじ」というのは、数値が似通っていたり、意味が似通っていたりすることだ。

けど、明確な基準がない。

たとえば、Aさんが、100回パチンコ屋に行って、100回パチンコをやって、100回勝ったとする。そして、Bさんは、100回パチンコ屋に行って、100回パチンコをやって、99回勝ったとする。

その場合、AさんとBさんの勝率はだいたいおなじだということができると『思う』。

100回で1回しかちがわないからなぁ。

たとえば、Cさんは、100回パチンコ屋に行って、100回パチンコをやって、1回勝ったとする。AさんとCさんの勝率はだいたいおなじだとは言えない『だろう』。

けど、感覚は、人それぞれだから、100回、1回もたいしてかわらないと考えるやつがいても、おかしくはない。

けど、その人の「だいたい」という感覚は、相当に、一般的な感覚からずれていると『思う』。

まあ、感覚だからねーー。

けど、100回中100回と100回中1回が「だいたいおなじ」だと考えるのは、相当にかわっている。で、相当にかわっているという自覚があるなら、言及するべきなのである。

まあ、これ、感覚のことだからね。

*     *     *

たとえば、Dさんは、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と確信していたとする。Dさんにとって、パチンコ勝負に勝つことがあかることであり、パチンコ勝負に負けることが暗いことだとする。

そして、Dさんが100回パチンコ屋に行って、100回パチンコをやって、1回勝ったとする。そうしたら、99回は負けたのだから、明るいことを考えても、暗いことが起こることはあるということを自覚してもよさそうなのに、Dさんはポジティブな人なので?99回負けたのに、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と確信したままなのである。

「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考えたを、事実と照らし合わせて考えず、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考えを放棄しない。

99回負けたことは、忘れてしまい、1回勝てたということだけが、記憶に残るのだ。

Dさんが100回中99回負けたということは、Dさんが「明るいことが起こる」と思っていたのに、100回中99回、Dさんの身に暗いことが起こったということになる。

それなのに、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」とDさんは思ったままなのである。

こういう人が、実在する。めずらしくない。 

なんで、99回も、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という『法則』を裏切ることが起こっているのに、Dさんは「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という『法則』を否定できないのか?

こんなのは、おかしい。おかしいけど、そういう人が実在する。めずらしくない。

Dさんのような人間は……「明るいことを考えていたのに、暗いことが起きた」という現実を、無視して、なおかつ、無視したということを無視するのである。

なので、いつまでたっても、「法則性なんてない」ということに気がつかないのである。

事実を無視しているので、法則性がないということに気がつかない。

2024年8月16日金曜日

それだと、現実の現象を説明できないということに気がついてない。

 法則性詐欺ということについて言ったけど、最初から、法則性なんてないんだよ。ところが、法則性があるように見せかける。まさしく、詐欺だ。

たとえば、勝てると思った人が、100%の確率で勝つようなパチンコ屋について考えてみよう。実際には、こんなパチンコ屋はあるはずがない。

ところが、「いいことを思えばいいことが起こる」という命題が現実世界で成り立つとすると、パチンコ屋というパチンコ屋が、すべて、100%の確率で(客が)勝つようなパチンコ屋にならなければならないのである。

だから、「いいことを思えばいいことが起こる」という法則性があるような言葉では、現実を説明できない。現実の現象を説明できない。「勝てると思った人の多くが、負ける」というのが現実だ。勝てると思って、パチンコ屋に行ったのに、多くの人が、負ける……。これが現実だ。

たとえば、100%の人が、10%の確率で、勝てるパチンコ屋があるとする。

そして、100%の人が毎回、おなじ金額を投入するとする。ある人が、そのパチンコ屋に、1日に1回、パチンコ屋に行って、パチンコをするとする。ずっとずっとずっと、通うと、経験的に、だいたい、勝てる確率は10%だということが、わかるようになる。

そして、ずっとずっとずっと、通うと、経験的に、だいたい、負ける確率は、90%ということことが、わかるようになる。もちろん、確率の問題なので、かたよりが出る場合がある。2日続けて、勝てる場合だってある。20日連続で負ける場合だってある。

けど、ずっとずっとずっと、パチンコ屋に行けば、だいたい平均で10日に1日だけ勝って、だいたい平均で10日に9日はまけるということがわかるようになる。もちろん、これは、試行ずっと繰り返した場合だ。何度も言うけど、かたよりはある。

勝てる確率が10%のパチンコ屋のほうが、勝てる確率が100%のパチンコ屋よりも現実的だろう。実際にはもっと、確率は低いと思うけど、現実のモデルというものを考えて、現実の現象を説明できるようにするのには、勝てる確率が100%というモデルはおかしいということがわかるだろう。

ところが、「いいことを思えばいいことが起こる」という言葉は、勝てる確率が100%であるモデルを想定して言っていることなのである。「いいことを思えばいいことが起こる」と言っている人は、勝てる確率が100%であるパチンコ屋を思い浮かべて、パチンコ屋に行くことを考えているのである。現実のパチンコ屋ではなくて、勝てる確率が100%であるパチンコ屋を思い浮かべて、「これが真実だ」と言っているのである。それだと、現実の現象を説明できないということに気がついてない。

 

これで、地獄ループの完成。

 「勝つと(いいことを思ったのに)負ける人がいるのはどうしてなんだ?」と質問した場合、精神世界の人は、「それは、運だ」とこたえるだろう。 

運をよくするためには、よいことを思えばよいのである。

これで、地獄ループの完成。 

*     *     *

思ったことが現実化するのだから、「勝つ」と思ったら、100%の確率で、勝つんだよ。勝つと、過去のある時点で思ったのに、まけるなんてことは、ないんだよ。1%だってないんだよ。何度も言っているだろ。「いいことを思えば、いいことがある」という言葉は「いいことを思えば、100%の確率でいいことがある」という言葉と、意味的に等価なんだよ。さらに言ってしまうと、「いいこととして想起したもののうち、すべてのものが、100%の確率で現実化する」という言葉と、「いいことを思えば、いいことがある」という言葉は、意味的に等価なんだよ。なので、「いいことを思ったのに、悪いことが起こる」なんてことはないんだよ。けど、現実にはある。だから、「いいことを思えば、いいことがある」という言葉は、まちがっているということになる。「いいことを思えば、いいことがある」という言葉は「いいことを思えば、いいことが起こる場合だってある」という言葉と意味的に等価じゃないんだよ。なんか、最初から、誤解をしているんだよね。

パチンコで勝つと思えば、パチンコで勝てるのか?

「いいことを思うといいことが起こり、悪いことを思うと悪いことが起こる」なら、パチンコで負ける人は、いない。パチンコに行く人は、ほとんどみんな、自分が勝てると思って、パチンコ屋にいっている。「いいことを思うといいことが起こり、悪いことを思うと悪いことが起こる」なら、長期的に見て、パチンコで負ける人なんていないということになる。けど、実際にはいる。なかには、パチンコで借金をつくってしまう人もいる。さらに、そのなかには、借金について考えて、自殺してしまう人もいる。「いいことを思うといいことが起こる」なら、パチンコで勝てると(いいことを思えば)パチンコで勝つという(いいことが起こる)ということになる。100%の確率でそうなるのだ。どうしてなら、パチンコで勝てると(いいこと)を思ったのだから、パチンコで負けるという(悪いこと)は起こらないからだ。パチンコに勝つといういいことを思ったのに、パチンコに負けるなんてことは、100%の確率で、発生しない。もし、パチンコで勝てると(いいこと)を思ったのに、パチンコで負けるたという(悪いこと)が起こるなら、「いいことを思っても、悪いことが起こる場合がある」と言わなければならない。なんで、「いいことを思っても、悪いことが起こる場合がある」ということをガン無視して、「いいことを思うといいことが起こり、悪いことを思うと悪いことが起こる」と言うのか?

最初からまちがったことを言っているのである。 

勝つと(いいことを思ったのに)負ける人がいるのはどうしてなんだ?

これを説明できないのであれば、「いいことを思うといいことが起こり、悪いことを思うと悪いことが起こる」などと、言わないほうがいい。

 

法則性詐欺と期待詐欺

 いちおう、他人のことと自分のことをわけて考えなければならないのだけど、どうしようかな? 言いたいことは、すでに「判断がある」ということだ。「悪いことが起こるのではないか」という判断がある場合、そう「自分が判断した」根拠というのがある。本人が(自分が)その根拠について明確に説明できないとしても、そう思うだけの根拠があるのだ。それは、時系列的な認知・認識の連続の上に成り立った根拠だ。だから、妄想的ではない場合は、ちゃんと、時系列的な認知・認識が成り立っている。

その場合、すでに「悪いことが起こるのではないか」と思っている。なので、まず、それがさきにある。そのあと、それだと不安なので、「悪いことは起きない」「いいことが起こる」と意識的に、不安を打ち消そうとするのである。もちろん、不安を感じている自分も、不安を打ち消そうと思って「いいことが起こる」と考えている自分のことも、自分は知っている。この自分のことを、意識的な自分とは、わけて、無意識的な自分ということにしておいてもいいけど、ともかく、自分自身が、不安を打ち消そうとしているということを知っている。

なので、「いいことが起こる」と思う根拠は、じつは、悪いことが起こるだろうという判断だということになる。悪いことが起こる確率が高いと判断したから、逆に「いいことが起こる」と思い直して、「いいことが起こるようにしよう」としているのだ。けど、さきに、自分自身が「わいることが起こる確率が高い」という判断をしたわけだ。この判断には、根拠がある。

自分の条件を考えると、こういうことが起こりそうだという判断があるのである。無数の条件がある。意識にのぼってくるのは、特に重要な条件だ。その重要な条件で、不利な状態だということを認知・認識したあとに、無理やり「いいことが起こる」と思い直しているというのが、「現在」の状態だ。その人の現在の状態だ。基本的に、本人が認知・認識しているように、条件が悪いのである。

それは、生まれながらにもっている条件かもしれないし、最近になって発生した条件かもしれない。条件が悪いと考える根拠がある場合、あるいは、条件が悪いと感じてしまう根拠がある場合、条件に合致した悪いことが起こる確率が高い。これは、条件がうみだしているものだ。思考がうみだしているわけではないのである。順番を考えると、条件→感覚→思考ということになる。この場合、条件を無視して、思考だけを書き換えたとしても、条件がかわらないのだから、条件がもたらす結果がしょうじる確率が非常に高い。だから、思考だけを書き換えても、条件を、現実的な行動によってかえなければ、高い確率で条件に合致したことが起こるのである。

言いたいのは、思考だけを、書き換えても、条件がかわらないのであれば、結果は、かわらないということだ。けど、一度、「悪いことが起こるかもしれない」と思って、それを、意識的に書き換えたので、悪いことが起こると思ったという事実が残ることになる。なので、実際に、未来のある時点で、その悪いことが起こった場合は、「悪いことが起こるかもしれない」と思ったから悪いことが起こったのではないかと考えてしまうのである。しかし、この考えというのは、まちがっている。条件を無視するべきではないのだ。

幼児的万能感にしたがえば、すべては、思ったとおりになると考えがちなので、あたかも、思ったことをかえれば、現実がかわるような錯覚(まちがった感覚)が生じてしまうけど、思ったことをかえただけでは、条件がもたらす『未来』の出来事をかえることができない……場合のほうが多い。思っただけでかえられる確率は非常に低いというとになる。思ったことをかえた……それで、実際に行動したという場合と、思ったことをかえただけで(条件をかえるような行動を)実際にはしなかった場合というのは、ちがう。本人が思ったことをかえただけだと思っている場合も、実際には、行動をかえている場合がある。そして、条件というのは、流動的で、外部の条件もあるので、外部の条件が本人の「意志」とは関係なくかわる場合がある。しかし、確率ということを考えるなら、思いをかえただけで、未来の現実がかわる確率は非常に低いと言わなければならない。本人の思いをかえた時点と、ほかの(外的な条件)がかわった時点がおなじか、短い間隔で前後している場合は……誤解なんだけど……過去のある時点の自分が思いをかえたから、現実がかわったと……未来のある時点の自分が、認知・認識する場合がある。この場合は、ようするに、思いをかえただけで、よいことが発生したと(あとの自分が)認識する場合だ。あとの自分というのは、未来の自分のことだ。

たいていの場合、思っただけでは、本人をとりまく……現実的な条件がかわらない。悪い条件をかかえている人は、悪い条件をかかえているので、悪いとが起こりがちだ。悪いことが起こる確率が高い。その場合、「思い」をかえることだけで、条件をかえることができるかというと、条件をかえることができない。なので、「思い」をかえるだけで、未来がガラッとかわるようなことを言うのは、よくない。対策になってない。対策になってないものを、有効な対策のように言う。こんなの、期待詐欺だ。法則性詐欺と期待詐欺をしているということになる。

精神世界の人たちの主張は、思ったことをかえれば、それだけで、未来がかわるということなのである。しかし、条件がもたらすことは、かわりにくい、のである。

2024年8月15日木曜日

よしよし

 よしよし。動いている。ちゃんと「対応した動き」があれば、「いいことが起こる」と思うんだよ。

法則性がないということが証明されたようなものじゃないか

 「いいことを考えただけ」で、いいことが起こるなら、だれも苦労は、してない。

「明るいことを考えただけ」で、明るいことが起こるなら、だれも苦労は、してない。

たとえば、ある年の1月に、「いいことがある」と思ったとする。けど、その年の2月に「悪いことが起こった」とする。

そういうことだってある。

「いいことがある」と思ったのに、悪いことが起こった。

そういう現実だってある。

その場合、「いいことを思うといいことが起こり、悪いことを思うと悪いことが起こる」というような法則性がありそうな文言というのは、どうなってしまうのだ?

法則性がないということが証明されたようなものじゃないか。

だいたい、「いいことを思うといいことが起こる」ということは、「いいことを思うと、100%の確率で、いいことが起こる」ということと意味的に等価だ。

「いいことを思ったのに、悪いことが起こる」場合があるなんてことは、言ってない。

「いいことを思ったのに、悪いことが起こる」場合はないのである。

しかし、「いいことを思ったのに、悪いことが起こる」場合だってある。

それが現実だ。

この文言は、現実を説明してないのである。

法則性なんてないのである。

妄想で、現実を説明しようとしても無理がある。

本人が、本人の身に、いいことが起こるんじゃないかと思うのはいいんだよ

 別に、本人が、本人の身に、いいことが起こるんじゃないかと思うのはいいんだよ。

けど、法則性があるようなことを言うなということなんだよ。

どうしてかというと、法則性がないからだ。

これ、法則性詐欺なんだよ。

「明るいことを思えば、明るいことが起きて、暗いことを思えば、暗いことが起こる」というのは、法則として成り立っていることではない。

ところが、あたかも、法則として成り立っているようなことを口にする。

それは、よくないことなんだよ。

どうしてかというと、法則として成り立ってないからだ。

勝手に、自分のなかで「いいことが起こるような気がする」とか「社会はいい方向に向かう」と思うことは、いいことだ。これは、なんかそういう気がするということだから、別に、法則性とは関係がない話だ。

けど、法則性があるようなことを言いやがるのである。

そうなると、現実を無視してしまう。

これは、ものすごく重要なあやまちだ。

条件が悪い人のことをおいつめることになるのである。「そんなつもりはない」と言うかもしれないけど、条件が成り立っている。条件を無視するべきではない。

それから、悪い為政者が、社会を悪い方向に引っ張ろうとしたとき、悪い為政者の味方をしてしまうことになる。

これ、わからないかもしれないけど、今回、そういうことが実際に起こった。

もう、すでに起こったことだ。

悪い人たちが、一般人をだまして、悪い方向に導こうとするとき、「明るいことを思えば、明るいことが起きて、暗いことを思えば、暗いことが起こる」という考え方が、その後押しをしてしまうのだ。悪い人たちは、やりやすくなる。「明るいことを思えば、明るいことが起きて、暗いことを思えば、暗いことが起こる」と言う人たちが、増えれば増えるほど、悪い人たちは、やりやすくなるのである。悪い人たちが、プランを実行するとき、「明るいことを思えば、明るいことが起きて、暗いことを思えば、暗いことが起こる」と言っている人が多ければ多いほど、スムーズに、プランを実行できるということになってしまうのである。

だいたい、現実的な条件を無視してしまうというのは、よくない。

特に、自分のことではなくて、人の条件を無視して、妄想的なことを言うのはよくない。

ほんとうは、法則性がないのに、法則性があると仮定して、ものを言ってしまうのはよくないことだ。

だって、それだと、どれだけ条件が悪くても、条件が悪い人が、「明るいこと」を考えれば、それだけで、その条件が悪い人の身の上にも、「明るいことが発生する」ということになってしまう。

ところが、そうじゃないのである。

現実は、その思いを、うらぎる。現実は、思ったとおりにならない。思ったこととはまったくちがう現実の出来事が発生する。

現実の話をしているわけ。

現実の世界で、条件が悪いということは、悪いことが発生しやすいということなのである。

こっちのほうに、法則性がある。

現実の条件がどれだけ悪くても、本人が明るいことを考えていれば、明るいことが起こる……これが、嘘なんだよ!!

そして、そういう嘘に傷つくのは、「明るいことを思えば、明るいことが起きて、暗いことを思えば、暗いことが起こる」と言っている人たちではなくて、条件が悪い人たちなんだよ。現実世界で条件が悪い人たちなんだよ。

現実世界で、条件が悪い人の身の上に、暗いことが発生してしまう。条件がいい人よりも、条件が悪い人に、暗いことが発生しやすいんだよ。

こっちのほうが、法則性があることなんだよ。

精神世界の人にしたがえば、「どんだけ、条件が悪くても、明るいことを考えていればそれでいいんだ」ということになってしまう。

けど、実際に起こるのは、明るいことではなくて、暗いことなのである。どうしてかというと、条件が悪いからだ。

条件を無視して、妄想的なことを、言うのはよくない。

特に、ほかの人の身の上のことについて、妄想的な発言をするのはよくない。

だいたい、もう、何回も書いているけど、精神世界の人の言い分をきいてしまうと……「暗いことが起こっている人は、暗いことを考えたからダメなんだ」……ということになってしまうのである。

あるいは、精神世界の人の言い分をきいてしまうと……「悪い状態の人は、悪いことを考えたから、悪い状態になった」……ということになってしまうのである。

けど、実際の現実世界では、暗い人が、明るいことを考えても、明るいことが起こらず、暗いことが起こってしまうのである。

どうしてかというと、条件が悪いからだ。

条件を無視して、「暗いことを考えたから、暗いことが起こったのだ」と考えてしまうのはよくないことだろ。他人のことなんだぞ。

精神世界の人たちは、他人の身の上に起こったことについて、そういう判断をして、そういう発言をしているんだぞ。

精神世界の人たちは……「(その人が)暗いことを考えたから、その人の身の上に暗いことが起こったのだ」……と決めつけている。

ちがう!!

条件が悪いから、その人の身の上に暗いことが起こった。

条件が悪いということは、かなりの高確率で、暗いことが起こるということなのである。

精神世界の影響をうけた人は……みんな!! 条件を無視して、法則性があるようなことを言って、条件が悪い人のことを追い込む。

条件が悪い人がどれだけ、頭のなかで「いいこと」を考えたって、条件が悪いのだから、「いいことが起こる確率」はきわめて低いのである。

ところが、「いいこと」を考えただけで、それをかえられると(精神世界の人たちは)言うのだ。

「いいこと」を考えるといいことが起こるのだから、それ(実際に悪いことが起こるということ)をかえることができるということになる。

ところが、現実世界では、そうならないのである。

現実的な悪い条件が、「いいこと」を考えたかどうかよりも、現実的な結果に影響をあたえるのである。

実際に、悪いことが起こってしまった場合、それは、悪いことを考えたから、悪いことを考えた人が悪いということになっているのだけど、それは、まちがいだ。大きく、まちがっている。

そして、自己責任論がつけくわわれば、「実際に悪いことが起こったのは、悪いことを過去において考えたやつの責任だ」ということになってしまうのである。

これは、「悪いことが起こる」とその人が考えなかった場合でも、結果的に、現実世界で悪いことが起こった場合、精神世界の人はその人(条件が悪い人)が「悪いことを考えたから悪いことが起こった」と考えるということを意味している。

現実世界で、条件が悪いから、悪いことが発生したのに、悪いことを考えていなかったにもかかわらず、精神世界の人たちが……「(その人が)悪いことを考えたから、悪いことが実際に起きた」と決めつけてしまう。

「悪いことが起こったなら、悪いことを考えたにちがいがない。悪いことを考えた、おまえの自己責任だ」と精神世界の人が、悪いことが実際に起こった人に言うことになるのである。悪いことが起こった人というのは、条件が悪い人のことだ。条件に関係なく、事前に悪いことを考えたかどうかに関係なく、実際に悪いことが起こったなら、その人が、事前に悪いことを考えたから、悪いことが起こったのだと(精神世界の人たちが)決めつけてしまう。

そして、悪いことが起こると(事前に)考えたのだから、悪いことが起こると(事前に)考えた人の責任だということにしてしまう。ようするに、実際に悪いことが起きたなら、その人は、過去において悪いことが起こると考えたから、悪いことが起こったのだと、自動思考をしてしまうのである。精神世界の人は、そう自動的に考えてしまうのである。

そして、さらに、本人が「悪いことを考える」という……悪いことをしてしまったのだから……悪いことが実際に起こったのは、過去において、悪いことが起こると考えた人の自己責任だと、自動思考をしてしまうのである。精神世界の人は、そう自動的に考えてしまうのである。

もちろん、そういう自動思考の前提には、妄想が成り立っている。

悪い条件が、悪い出来事をつくりだすことがある。ところが、そういう条件については、ガン無視して、ただ単に、その人が「思ったから」そうなった……その人が思ったからダメなんだと……勝手な自動試行して、その人のことをせめる人たちが存在する。精神世界の人たちと、インフルエンサーの言うことを信じて、ちょっだけ、かぶれた人たちだ。

この人たちは、条件が悪い人のことを、不当にののしっている。

しかし、妄想的な人たちは、「(自分は)いいことを言った」と思って悦に浸っているである。条件が悪い人が、不愉快なるようなことを言ったのに、いいことをしたと思って悦に浸っているのである。

実際には、無実の人に、濡れ衣を着せて、さらに、そうなったのはおまえのせいだ」と言って、けなしている。こういうことをやっておいて、本人は、「いいことをした」と思っているのである。役に立たない、非・現実的な対策を教えてあげて、本人は「いいことをした」と思っているのである。

精神世界の人たちは、条件が悪い人のことを、不当にののしっている。精神世界の人たちがやっていることは、善行じゃない。

気をつけたほうがいいよぉーー。

 「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると、暗いことが起こる」と考えているやつらは、やられちゃっている。これ、悪魔の手先(悪魔の協力者)になっているぞ。気をつけたほうがいいよぉーー。

統計データ

 たとえば、「統計データに基づいて科学的に、議論するべきだ」ということについて考えてみよう。この考え方は、統計データが正しいという前提がある場合のみ、正しい。

統計データが正しいか正しくないかということは、ひとつ「うえ」の思考だから、そもそも、ひとつ「うえ」の思考が欠落している人は「正しいに決まっている」と考えて、まちがった結論に到達してしまうのである。

統計データが正しいという前提は、正しいのかどうかということについても、考えなければならないのである。そして、統計データが正しくないという場合についても考えなければならないのである。

ひとつ「うえ」の思考と書いたけど、メタ思考ということを考えるなら、ひとつ「した」の思考なのである。けど、言っていることはおなじだ。

*     *     *

いまの時代、「エビデンス、エビデンス」と言っているやつは、科学的ではない。ぜーーんぜん、科学というものがわかってない。科学的ということについても、勘違いしている。

2024年8月14日水曜日

あーー、いやだいやだ。

 俺がもう、何回も、自らの生命を危険にさらして、教えてあげたのに、気がつかないままなんだからなぁ。あーー、いやだいやだ。

2024年8月13日火曜日

実体経済

 アメリカの生活というのは、わりと、ひどい状態なんだよ。まあ、言ってみれば、ひどくカネがかかる状態になっている。いま、NYダウは39343というレベルだ。「おちた」と言っているけど、こんなの、おちたうちにはいらない。まあ、せいぜい、32000ぐらいにならないと、株価暴落なんて言えない。まあ、できれば、28000ぐらいにはなるべきだ。28000でも、「実体経済」というものを考えれば、高いぐらいだ。これ、ほんとうに、NYダウのような株価の指標は、実体経済を反映したものではないのである。実際の生活レベルを考えれば、経済はあきらかに弱体化しているので、もっともっと、さがるのが適切。まあ、どれだけ株価の指標が、実体経済を反映してないものか、よくわかるだろう。まともなひとは、わかるだろう。

*     *     *

まあ、トランプが勝って、実体経済が改善することをねがうしかないなぁ。実際、そうなるだろう。しかし、おそいねぇ。「なに、もたもたしているんだろう」と思うよ。

2024年8月12日月曜日

雑感

 頭の横の、つまったような感じが復活。

目のかゆみが復活。

 

すぐけす

 さてさて、これから、どうなりますか?

カマラ・ハリスが大統領になったら世界恐慌が起こるというような言い方になっているなぁ。なら、世界恐慌は起こらないということになるのか。そうなると、株価大暴落?は、いちおう終わったということになるのか。それとも、わからせるために、(このあと)一度は、おとすのか? 

ひとりで、スイカをくったって、おもしろくない

 スイカだけは、「ひとりで、スイカをくったって、おもしろくない」という気持があるんだよなぁ。

2024年8月10日土曜日

雑感

 ほんとう、どうしようかなぁーー。このさき……。いつまでも、ここに、外壁修理なしですむことはできないんだよなぁ。外壁修理をするなら、内側のリフォームしなければならない。ダニがいるからね。外側が完全に防御できれば、ネズミが入る穴が、外側にはないということになって、ネズミ対策ができるのだけど、内側をあのまま放っておくわけにはいかない。

引っ越すとなると、町内会長のことと、ゴミ当番のことが気になる。あんまり、引っ越しのあいさつなどもしたくない。けど、あいさつなしで、住むのは、いろいろと問題をうみだしそうなので、あいさつは、かならず、する。

しかし、全部がめんどうなんだよなぁ。まあ、ネズミ事件が発生せず、それなりの外壁で、それなりに、住める状態であれば、無理に引っ越す必要はなかったわけだ。

ここに、いつまでもいるわけにはいかないと、ひしひしと感じる。ダニ問題がでかすぎる。外壁修理は、かなりのカネがかかる。それだったら、引っ越したほうがいいんじゃないかと思うぐらいのカネがかかるので、いろいろと悩む。

安めの中古住宅というのは、なにかしら、問題がある住宅なのだ。わりと高めでも、「なんで、こんな個性的な家にするかなぁ」「前に住んでいた人の趣味が反映しているなぁ」と思うようなところがあり、あんまり、無理をして買う気がしない。 

*     *     *

なんか、ほんとうに、全部がいやなんだよなぁ。なんか、どんなものにも、ダニがついている感じ。どんなものにも、トゲがある感じ。なんか、ちくちく、気になることがあって、いやな感じがする。

*     *     *

まあ、普通の人が、あれをやっちゃったから、安心してつきあうわけにはいかなくなった。それから、どこに行くにしても、あれをやった人がいるわけだから……いると予想できるわけだから……安心できない。

考えたら、つまんないなぁ。

 考えたら、つまんないなぁ。

あーー。

全部、つまんない。

映画はいよいよ、クライマックスか。まあ、あんまりいい映画じゃないけど、ちゃんと見るよ。見とどけるよ。

けっきょく、俺がやりたかったことって、なんなんだろうな??

2024年8月9日金曜日

茶碗用どんぶりを注文した。

 ゴキブリがぼくの茶碗用どんぶりのふちを歩いたんだよ。けっきょく、ゴキブリは排水溝に流したけど、茶碗用どんぶりのイメージが悪すぎる。ゴキブリと言っても、2センチぐらいの小さいやつだ。ひょっとしたら、ゴキブリではない別の生き物かもしれない。しかし、イメージが悪すぎる。洗っても、熱湯消毒しても、使う気になれない。

けっきょく、茶碗用どんぶりを注文した。届くのに何日かかるかわからない。

*     *     *

いやー、風呂から出てきたら、そういうところを目撃してしまったわけ。

 

ほんとう、つかれた。

 ゴキブリが出たぁーー。

もう、いいかなぁ。

なんか、いろいろ、めんどうくさい。

ほんとう、つかれた。

 

2024年8月8日木曜日

アジのオーブン焼き

 暑いーー。暑いと、何気に、体力を消費する。

いま、アジのオーブン焼きを食べたのだけど、うますぎる。アジの刺身を買って、オリーブオイルで、焼いて、コショウと醤油をかけて食べるんだけど、この味の組み合わせが、絶妙。なんか、ひさびさに、まともなものを食べたような気がする。そして、ご飯がうまい。白米、最高。やっぱり、白いコメがいいや。味だけどね……。やはり、精製されているものはよくないんだね。けど、いい。

雑感

 しかし、このさきどうするかな? 今は、ひまなんだけど、元気がないから、片づけができない。どうしても、ダニに刺されるのがいやなんだけど、ダニに刺される可能性があるので、なんか、やる気がしないのだ。まあ、それは、いつものことなんだけど、特に、自分の部屋の押し入れが問題で、押し入れのまえにベッドがあり、動かせない状態なのだ。だから、押し入れのなかのものをとるとなると、ダニが、布団の上におちる可能性がある。なので、布団をめくって、やっているのだけど、布団をめくったとしても、ベッドの上にはおちる可能性がある。布団をめくるというのは、敷布団ごとめくるということだ。

あと、腹の状態はなんとか落ち着いた。けど、いろいろと考えると、やはり、調理をする場所と、冷蔵庫が離れすぎている。いちいち階段を使わなければならない。これは、ちょっと冷凍食品を多くもってこようとすると、手がつめたくなってしまう。対策はあるけど、お勝手のテーブルは、ネズミ問題で、安心して置くことができないのだ。いちおう、これも対策はしたけど、イメージが悪い。アルミ箔の層で、もとのテーブル表面には、ふれない状態なのだけど、あんまり、ものを置く気になれないのだ。でっ、冷凍ブルーベリーなど、少し食べればいいものを、ちょっとだけ、冷蔵庫付近で作業をして持ってくるということができない。袋ごと二階にもってきて、机の上で、袋を切って、皿などに置き、余ったぶんは、また、冷蔵庫にもっていかなければならなくなる。でっ、そういうことをやりたくないから、一袋分だけ食べてしまおうと思うと、あんまりいいことが発生しない。

基本的に元気がないので、この部屋で、なにかを食べようと思ったとき、一階の冷蔵庫付近まで、移動するのがめんどうなのだ。これは、いろいろと影響をあたえている。元気なときは、移動できるんだけどね。

で、まあ、あんまりはかどってない。最近になって、いちおう、アニメ視聴を復活させた。けど、基本的にそれだけでは、もちろん、時間をつぶすことはできない。相当に長い間、布団の上ですごしている。まあ、市場が動くと、まあ、それなりに、見るものがあるという感じになるけどね。


 

2024年8月7日水曜日

やばい。腹がいたい

 やばい。腹がいたい。食べた品目を言うと問題が発生するかな? ともかく、なれないものは食べないほうがいい。おかしいなぁーー。食べたものはあれとあれとあれなんだけど、どれも普通の状態なら、腹がいたくなることはないような感じがする。ともかく、夏の暑い日に、腹がいたいと、こたえるわぁーー。ビオフェルミンを飲んで、おとなしく、腹がおちつくのをまつしかないなぁ。

2024年8月6日火曜日

「そのかくされた前提」というのは、明確に言及されることがないのである。

 あなたはわかっているけど、わかっていない店員のとき、省略して言うと、一緒にもってこられることがあるので、全員に、付け足して言うことにしたから、いちいち、そのルールを破壊するようなことを言わないで」というのが、めんどうくさかった。ほんとうのことを言えば、めんどうくさいというよりも腹がたつのである。もう、二回書いたことなのだけど、突然、うかぶときがあるんだよな。いまなんだけど……。もう、すでに、二回説明したことだから、くわしくは書かないけど、今回は、じゃあ、どうして、ぼくのほうに、怒りがしょうじるかについて説明する。ようするに、考えてないこと」があるのだ。相手が、想定してない場合がある。相手が想定してないということが、事例から透けて見えるのだけど、確認したわけではないという場合、めんどうくささが、前面に出る。相手が前提として考えていることがある。たとえば、「ここで食べるものと、持ち帰るものを注文た場合、ここで食べるものを、さきにもってくる」ということを相手は理解している。しかも、その相手は、自分以外の店員も、全員、そのことを理解していると思っている。ここにあやまちがある。理解してない店員もいる。けど、理解してない店員もいるとということを、その店員は理解してない。だから、前提になる考え方がちがうのだ。前提の認知が、ぼくとその店員ではちがう。その前提については、語られたことがないので、いちいち、語らなければならないのだ。その店員に「そのルールを理解してない店員もいる」ということを語らなければならない。そして、「そのルールを理解してない店員」には、ちゃんと、「ここで食べるものを先にもってきてください」と言わないと、かならず、ここで食べるものと持ち帰るものをいっしょにもってくることになるということが、(その店員には)わかってない。その店員は、「ここで食べるものを先にもってきてください」と言わなくても、ちゃんと、ここで食べるものを先にもってくると思っているのだ。自分以外の店員も、かならずそうすると思っているのだ。けど、これがまちがいなのだ。だから、そういうまちがいについて、説明しなければならないのだけど、それが、語られてない前提なので、めんどうなのだ。説明するのがめんどうなのだ。相手にどれだけ時間があるのかわからいけど、こういうことを、ずっと説明するとなると、ぼくがいちゃもん(クレーム)をつけているような感じになる。時間の関係からして無理だ。だから、まあ、なにを信じ込んでいるかということについてちがいがあるのだ。その店員は、そのルールについて言及されなくても、ちゃんと、ここで食べるものを優先してさきにもってくるようになっていると思っているのだ。けど、その店員は、そのことを理解しているのだけど、その店員以外の店員が、まったくそのことを理解してない。そして、その店員は、理解してない店員がいるということを理解してない。めんどうだ。だから、安全策として、どんな店員にも、かならず、「ここで食べるものを先にもってきてください」と言うことにしたのだけど、その店員には、「そんなことを言わなくも、ちゃんと、ここで食べるものを先にもってくるようになっていますけど」みたいなことは、言われたことがある。けど、入れ替わりが激しい店だから、どの店員がそのルールを知っていて、どのテイン員がそのルールを知らないかということについて、おぼえる気持ちがなかったのである。その店員は知っているということは、知っていたけど、その店員だって「うっかりまちがいをする」可能性はあるので、どの店員が出てきても、安全策として、「ここで食べるものを先にもってきてください」と言うことにしたのだ。その店員が、自分以外の店員に、「ここで食べるものを先にもってきてください」と言わなかった場合、一緒に出てくるということがあるということを知らないのだ。これを、認識してくれ。この認識がかけているから、めんどうなことになる。

まず店員が、客の注文を聴いて、店員が、厨房の人に客の注文をつたえるということになっている。その場合、店で食べるもの(ここで食べるもの)と持ち帰るものを両方注文した場合、店で食べるものと持ち帰るものをいっしょにもってくるように客が注文したように、厨房に伝えてしまう「まちがい店員」がいるのだ。そして、このまちがい店員が、どうも、中国人みたいなんだよな。これだって、中国人みたいだけど、中国人じゃないかもしれないし、よくわからない。「その店員」と言ってきたけど、「その店員」というのが、店長なのかどうかもわからない。バイト歴が長い店員かもしれない。ともかく、客が、店で食べるものと持ち帰るものを両方注文した場合、一緒にもっていくのがデフォルトだと考えている店員と、客が、店で食べるものと持ち帰るものを両方注文した場合、店で食べるものを優先して、さきに出し、持ち帰るものは、あとで、出すのがデフォルトだと考えている店員の両方がいる。けど、客は、だれが(両方一緒に出すのがデフォルトだトン考えている店員)で、だれが(店で食べるものを優先してさきに出すのがデフォルトだと考えている店員)なのか、わからないのだ。名札にそう書いてあるわけじゃない。だから、どの店員がきても、「ここで食べるものを先にもってきてください」と言うことにしたのだけど、その店員には、はじかれてしまうのである。その店員は、どの店員もみんな、そのルールを知っているか、言う必要がないということを、いちいち言ってくるのである。その場合、その店員のときは、言わないようにしてほかの店員には言うようにするというルールの変更をしてもよいのだけど、何回かだまされたので、その店員にも言わないと不安な感じがするようになっていたのだ。だまされたというのは、その店員じゃない店員に「ここで食べるものを先にもってきてください」と言わないで注文をしたら、一緒にもってこられたということがあるということだ。なんか、言わないと不安なるような経験を二回以上、経験してしまったのである。もうひとつ、その店員の誤解がある。その店員は、「ここで食べるものを先にもってきてください」と言うということが、めんどうなことだと考えているのだ。ぼくにとって、「ここで食べるものを先にもってきてください」と言うことは、負担じゃない。言わないで、一緒に出されたときのほうが、ショックがでかい。安全策として言うことは、めんどうじゃない。そして、この店員は、知っているから、言わないようにして、この店員は知らないから言うことにしようと、店員の顔を見て判断することのほうがめんどうなのだ。けど、その店員はぼくがそう考えているということを知らない。これも、かくされた前提なのだ。この、かくされた前提というのが、めんどうだ。発言の背後に、「かくされた前提」があり、「そのかくされた前提」というのは、明確に言及されることがないのである。

ちょうど、朝も夜もだめになってしまう期間があるんだよなぁ

 もう、眠りたいのだけど、ネットスーパーの受け取りがあるから、眠ることはできない。ちょうど、朝も夜もだめになってしまう期間があるんだよなぁ。いまは、そういう期間だ。最近、たまごがけご飯を食べられなかったので、ネットスーパー商品受け取りのあとは、タマゴがけご飯を食べようと思う。まあ、眠ったあとかなぁ?

けっきょく、くさらせずに、食べられるものは……タマゴ、バナナ、アジの刺身、大根、肉などだ。ほかのものは、案外腐らせてしまったり、ずっと、冷凍室を占領することになる。冷凍室のスペースが相当に限られているので、食べる順番には気をつけなければならないのだけど、一度食べたくなくなると、食べたくないのだ。だから、ほかのものを食べているうちに、ずっと、冷凍室のぬしになって、しまう。 

このさき、どうするかなぁーー。

やっぱり、ダニに刺されてしまうので、片づけは、やる気がしない。

どうするかなぁーー。


2024年8月5日月曜日

雑感

 とりあえず、可燃ごみをすててきた。なまゴミだ。これは、まあ、得点が高い。どうしてかというと、夏は、くさくなるからだ。長ネギを買って、置いておいたらくさってしまった。袋がかぶっている部分とかぶっていない部分があるのだけど、袋がかぶっている部分の湿度が並じゃないらしく、くさりやすい。まあ、なまゴミは、こまる。この時期、こまるねぇーー。だから、市のゴミ袋に半分ぐらいしか入ってないけど、すててきた。カラスよけの『青いカゴ』が出現していたので、たすかった。

*     *     *

クラスごと異世界に移動……クラスごと異世界召喚されるという話が、よくあるよね。召喚された世界で、主人公がひどい扱いをうけるけど、じつは、すごい能力・スキルを持っていて、それで、その世界のすごい魔獣や、すごい人をやっつけるという話ね。すごい人というのは、悪い人ね。その世界のすごくいい人を、やっつけまくるという話は、あまり見かけない。たおすだけの理由がある。なんか、すごい力をもっている、悪いやつをやっつけていくという話だ。逆は、ぼくが記憶している範囲ではない。


2024年8月2日金曜日

冷凍のアサリ

 冷凍のアサリを買ったんだけど、中国産のアサリなんだよなぁ。すてようかと思ったけど、中国産のワカメを食べたことがあり、ワカメを食べたなら、アサリを食べてもいいんじゃないかと思ったりもする。あとは、食べられる食品をすてるというのは、問題があるような気がする。日本産のアサリなんて売ってないし、日本産は日本産で問題がある。北海道産のホタテならあるから、それを買うようにしようと思っているのだけど、買ってしまったものは、しかたがない。アサリは好きだし、栄養もあるのだけど、産地が問題になる。かつてぼくが、中国産のワカメを食べたときより、状態が悪化している場合もある。

中国産のアサリをこれ以降は買わないことを決めたけど、買ってしまったものは、どうしていいのかわからない。 

*     *     *

ちょっと検索したら、やばい記事が出てきた。食べるのはやめよう。

2024年8月1日木曜日

俺の人生

 俺の人生、なんだったんだーーつっーーーぅうの。なんだったんだ? ぜんぜん満足できない。くるしいことの連続だったなぁ。まあ、俺は、最大限の努力をしたと思う。

興味があるかどうかというのは、非常に重要なことだ

 しかし、俺は、どうしようかな?

世間はいろいろと動いているみたいだ。どちらかというと、明るい材料のほうが多いなぁ。まあ、パソコンがあれば、無限暇つぶしができるのだけど、それだって、意欲がないと無理だ。つくりたいものがないと、暇つぶしはできない。まあ、ひとがつくったものを視聴すれば暇つぶしにはなるのだけど、それにだって、じつは、心的なエネルギーが必要だ。

ようするに、意欲が必要だ。「見たい」と思うから見るわけで、「見たくない」と思っているのに見るというのは、つらいことだ。強制されていないのであれば、見たくないものは見ないだろう。けど、昨今では、見たい?コンテンツに、見たくないものが挿入されている場合があるので注意が必要だ。だから、そういう可能性があるけど、見たいものなのかどうかということが重要になる。だから、ここでも、意欲がかかわってくる。

ひとくちに「見たい」と言ったって、「ものすごく見たい」ものから「まあ、見てやってもいいかな」と思うものまで、幅がある。心的エネルギーが充実しているときは、「ものすごく見たい」ものが多いわけ。

それが、心的エネルギーが枯渇すると、「まあ、見てやってもいいかな」というのが増える。そして、「見なければよかったな」と思うようになる。そして、「見るものがない」ということになる。興味があるかどうかというのは、非常に重要なことだ。

じゃあ、興味というのがどういうところから出てくるかというと、まあ、希望があると興味がわくわけ。あるいは、探求心があると、興味がわくわけ。けど、探求心というのは、けっきょく、なにかそれに興味があるということの言い換えにすぎない。ようするに、自分と関係づけられた希望というのが必要なわけ。


いつも読んでくださるかたに感謝しております



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