2024年10月30日水曜日

ありえる仮説

 どんな変なことでも、ありえると仮定して、考えるんだよ。そうすると、生きのこる仮説がある。生きのこる仮説は、どんな変な仮説でも、ありえる仮説なんだよ。常識的な考えに基づいて考えると、「これは絶対にありえない」と思える仮説も、残しておいて、実際の現象について考えなければならないんだよ。

すぐ消す

 ほしいのは正確なデータだ。アメリカ政府など、公的な機関が、正確なデータをだせばいい。トランプが約束をしているので、ワクチンに関してある程度のデータがでてくる。

陰謀論者の悪いイメージと言うのは、つくられたイメージだ。インテルが、(ばれてはまずい)真実情報の上に、嘘情報をたっぷりかけるから、一般人にとって、うけつけないものになる。一般人は、真実情報まで、「とるにたらないバカなやつらが言いっているバカ情報だ」と思ってしまう。それが、ねらいなんだよ。それがインテルのねらいなんだよ。なんで、気がつかないかな?

ともかく、きらいではなかった人が、陰謀論者の悪口を言っているところを見ると、いやな気分になる。これ、陰謀論者を批判できる自分は、じゅうぶんに知的だと思っているかもしれないけど、術中にはまっている。軽くだまされている。

ともかく、だるい。

 風呂に入りたくないけど、入るしかないから、これから、入る。しかし、だるい。こんなんで、だいじょうぶなんだろうか?

11月5日までが、長い。猛烈に、長い。もう、全部が、いやだなぁ。

ともかく、だるい。

しかし、このさき、どうするかな?

 なんとか起きて、なんとか、めしをくった。俺、すごい。

さてと、どうするかな。もう一回、寝るかな。

たまごがけご飯を食べたのだけど、たまごがけご飯だって、食べ終わった食器を洗うところまで含めれば、けっこうたいへんだ。

しかし、このさき、どうするかな?

うーーん。まようなぁ。この世でぼくが経験したことが、どうしても、うかんでくるんだよなぁ。これが、きつい。ほんとうに、くるしいことの連続だった。

2024年10月29日火曜日

雑感

 前投稿は自分で消した。もう、すべてがいやだ。

正直言って、つかれた。どうしようかな?

 正直言って、つかれた。どうしようかな?

 

2024年10月28日月曜日

しかし、こんなの、よくないよ

 しかし、こんなの、よくないよ。はやくしてくれ。白がたてている、黒側の人たちというのがいやなんだよね。もちろん、本人は〇〇されているけどさ……。もう、はやく、終わらせよう。

 

はやくしてくれ。

 はやく11月5日にならないかなぁ。もう、がまんできない。はやくしてくれ。

じつは

 じつは、QFSについて、書いたんだけど、運営がその投稿を削除してしまったんだよ。でっ、言いたいことは、インテルが言っているQFSは現実化しないということだ。あくまでも、インテルが言っているQFSね。これは、アンド回路思考とオア回路思考の問題がある。あいつらは、あいつらの考え方を盛り込んで、悪いほうに誘導しようとしている。これ、やっかいなんだよ。

彼らは、ワクチンでやったように、いろいろな詐欺部分を盛り込んでいる。 

詐欺部分がたいせつなんだよ。9割の真実のなかに1割の詐欺部分を盛り込んで、全体を台なしにするこころみだ。この部分について書くと、削除されてしまうし、LED蛍光灯のスイッチが、勝手に切りかわっしまう(ようになる)。

ともかく、11月5日までが、長い。長すぎる。もう、いいかげんしてくれ。

「えっ、柿ってこんなにうまかったの」

 昨日、柿を食べたんだけど、柿がうまかった。「えっ、柿ってこんなにうまかったの」と食べながら思った。ひさびさの柿はうまかった。

けど、いいことは、そのくらいのもので、けっこうくるしいんだよ。まあ、食費は前よりも、かかっている。どうしてかというと、むかしは、タマゴは普通のタマゴを買っていたわけだけど、いまは、平飼いタマゴを買っているからだ。わりと、こだわって買うものが多くなった。バナナもコメも魚も、こだわって買っている。だから、食費は、あがった。

柿はひとつしか買わなかったのだけど、もう一つ買っておけばよかったと思った。シーズン中にもう、二個ぐらいは食べたい。 

*     *     *

平飼いタマゴと安売りタマゴのちがいがあるかというと、ある。あきらかに、平飼いタマゴのほうがうまい。味がちがう。

2024年10月26日土曜日

これから、眠るーー。おやすみーー

 これから、眠るーー。おやすみーー。もう、ぼくはつかれた。

いまは、昼休み休憩中だからしずかだけど、午前中ずっと工事をしていた。うっさかった。土曜日なんだから、やすめ。

2024年10月25日金曜日

「かりに条件があるにしろ、そんなのは、たいしたことじゃない」


アニメの世界では、とても条件が悪い主人公が、条件が悪いにもかかわらず、勝ち続けている。

けど、現実世界では、条件が悪い人が、勝つなんてことはない。条件にもさまざまなものがあるけど、強固な条件というものがある。

それは、複数ある。なので、複数の強固な条件が、結果を決めてしまうところがある。というか、結果を、完全に、決める。

だから、どうあがいても、複数の、強固な悪条件がかさなると、複数の、強固な悪条件がかさなっている人は勝てない。

だから、アニメの世界で憂さを晴らすのだ。

複数の、強固な悪条件がかさなっているにもかかわらず、勝ち続ける主人公に、自分をかさねて、アニメを見るということになる。

けど、それは、アニメのなかの話だ。現実じゃない。

条件が悪いと、現実の世界では、どうすることもできない。

普通の人が、「社会に出たら、実力だ」というようなことを言ったり、「努力でどうにかなる」というようなことを言ったり、「言霊は絶対だ」というようなことを言ったりする。「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」というようなことを言ったり、「いいことを引き寄せればいいんだ」というようなことを言う。

けど、条件の差は、強烈な力をもっている。10ブロックの人と、1ブロックの人が勝負をしているようなものだ。10ブロックに生まれたという条件が、重要。1ブロックに生まれたという条件が、重要。無情な条件の差こそが、結果をつくる。

こういう世界に生きている。

だからこそ、アニメや漫画やドラマの世界で、悪条件をものともせず、勝ちあがる主人公がいる。その主人公に、自己をかさねて、アニメやドラマを見て、マンガを読む。

そうすると、一時的には……ストレスが解消できる。

けど、そんなことをどれだけやったって、現実の条件をかえられるわけではない。現実の条件にやられたまま、人生が終わる。

そんな感じで生きている。

*     *     *

問題なのは、 「努力でどうにかなる」「言霊は絶対だ」「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「いいことを引き寄せればいいんだ」という条件を無視した言葉がうえから、ふってくるということだ。

ようするに、システム設計者がそういうアホな言葉をはやらせている。

現実世界で、そういうことを言う人たちは、自分で考えてそういうことを言っているようなつもりになっているけど、じつは、システム設計者が、しこんだことだ。

システム設計者が、そういうことを言う人たち……努力論者、言霊主義者、思霊主義者、引き寄せ論者を「育成」している。

そして、システム設計者が、アニメや漫画やドラマをつくる人たちを「育成」している。

そうすると、『条件無視王国』が成り立つ。最初から、条件を無視して考える思考スタイルが発生する。「かりに条件があるにしろ、そんなのは、たいした影響をあたえない」という条件を軽視した思考スタイルが発生する。

最初こそ、「たいした影響をあたえない」と言っているけど、すぐに、「だから、関係がない」と言って、完全に無視しはじめる。

けっきょく、「かりに条件があるにしろ、そんなのは、たいしたことじゃない」と条件の影響を無視して、なにごとかを言う。

そのなにがとかというのは、最初から、条件を無視したものなのである。

2024年10月24日木曜日

これで、食料をゲットした。しばらくは、いける

近所の工事現場が増えた。午後5時ぐらいから、眠ったようだ。午後9時5分ぐらいに、ネットスーパーの配達がきたので、チャイムの音で起きた。夏とはちがって、そのままの格好で、外に出れるので、たすかる。

外に出れると言っても、玄関までしか出ないけどね。この玄関と言うのは2階の玄関?で、1階の玄関のところに、荷物(注文した商品)をおいてもらう。

これで、食料をゲットした。しばらくは、いける。

ネットで、実写版のウイングマン(第1話)を見た。まさか、実写版で復活するとは思わなかったなぁ。けど、まあ、ちょっと前に、DMM TVの(先行放送)広告を見たから、知ってはいたけど……。まあ、見る方法はいくらでもあるけど、どうするかな?

「あおいさんの髪の毛は、水色っぽいほうがいいぞ」と思った。水色と言っても、いろいろとある。アニメ版の髪の毛の色は、青だ。アニメ版の青に似せたウイッグをつくると、(見た目が)重たくなるので、白に近い水色のウイッグをつくるべきだったなぁとは思う。

実写版の髪の毛(ウイッグ)は、白だ。青要素がない。

だから、「白と青の中間で、水色にしておけばよかったのに……」と思った。まあ、つやがある白系の水色のウイッグとして最適だったんじゃないかなと思う。

まあ、いいや。そういうものを、見られるところまでは、回復した。これ、だるかったら、見る気がない。Youtubeに公式の第1話があがっていから見たけど、見るのがもうちょっとたいへんだったら、見てないと思う。

注)「あおいさん」というのは、登場人物である「夢あおい」のこと。

 


あたらしく、東側の家を解体している

 あたらしく、東側の家を解体している。3方向で、工事をやっている。しかも、ななめ前のところを、北と西と考えると、4方向で工事をやっていることになる。いやーー。家もこわすことになると思うけど、近所でこれだけ、時期的にかさなって、工事があるなんて、ほんとうに、どうなっちゃっているんだ? ほんとうに、家を建て替える人が多い。持ち主が、かわっていることがほとんどだと思うので、厳密に言えば、建て替えではなくて、ふるい人が土地を売り、新しい人が、土地を買って、その土地の上に家を建てているのだと思う。けど、それも、建て替えに含めるとする。まあ、幼稚園はのぞく。園舎が大きいので、(こっち側の)相当に長い部分が補修工事の対象になっている。ともかく、工事現場にかこまれている。いま、はげしく、家をこわしている。

そういえば、「工事のお知らせ」という感じの書類が、ポストに入っていたわぁ。もう、時期とか場所とか、確認してない。

しかし、まあ、どうするかな?

 しかし、まあ、どうするかな?

これから、寝るわけだけど、どうしようかなーー。まだまだ、眠れない。

じつは、幼稚園も工事をしはじめた。これが、いまは、足場を組んでいる段階で、カーンカーンと金属音がする。工事現場にはさまれ感じがある。だから、どこらしかの工事がうるさいということになる。あとは、ミックスされて、うるさい。3カ所で、工事をしている。こまったなぁ。しかも、大規模工事なんだよな。

だから、昼間は、うるさい。昼間寝ている人間としてはつらい。まあ、あとちょっとで、夜眠る感じになると思うけど。

*     *     *

 

2024年10月22日火曜日

人生の雑感

 人の気持ちを考えると、言えなくなってしまうときがある。「こういうふうに言ったら、この人、こういうふうに思って傷つくのかな」と思って、言えないときがある。けど、それで誤解をうけることが多かった。これ、あっちをたてればこっちがたたずとおなじで、どっちかが傷つくわけだ。で、時間の流れというものがあって、ぼくもいそがしいときがあるわけ。だから、言えないときがある。けど、言っておくべきだったなぁと思う。相手の気持ちや、別の相手の気持ち考えないで、好き勝手に、そのとき思ったことを言っておけばよかったと思う。誤解をされることが多いんだよなぁ。ともかく、好き勝手かどうかは別にして、そのとき「言おうかな」と思っていたことは、その場で言っておけばよかったと、いまは思う。

やっぱり、ちょっとつらいかな?

 やっぱり、ちょっとつらいかな?

はやく時間がたってほしい。はやくしてくれ。

もう、がまんしたくないよなぁ。したくない。

もう、つかれたかなぁ。

2024年10月21日月曜日

『マザーボード愛』がなくなってしまった

 また、LED電灯のスイッチが、勝手に切りかわるという現象が発生した。これは、いやなんだよなぁ。調べてみる必要があるのだけど、憂鬱なので、できない。

やっと、動画を見られるぐらいには、復活した。しかし、どうしようかなーー。あんまり、見たくないしなぁ。けど、なんか、ほかにやることがないというか、やる気がしない。

*     *     *

いま、最近のCPUやGPUの動画を見たのだけど、いろいろと出ているなぁ。むかしは、性能比較とか、マザーボードとの最適な組み合わせとか、楽しんで見てたけど、いまは、あんまりおもしろくないなぁ。 ぼくが見てた頃は、動画じゃなくて、本やウエブサイトの説明だけどね。まあ、見てたというより、読んでいたが正確か。けど、写真も見てたからな。動画は見てなかったけど……。短い動画は見てたけど、メインじゃない。

『マザーボード愛』がなくなってしまった。

むかしは、マザーボードを見て、これ、きれいだな」と思っていたけど、いまはそれがない。自作ピーシーはそれなりに、楽しかったけど、あんまり、楽しくなくなった。終わったなぁ。

自作ピーシー動画を見ても、『めんどうだなぁ』と思ってしまう。

どうにかならないか。なんか、いろいろとやる気が出てくれればいいんだけどなぁ。 

*     *     *

自分が住んでいる階に、トイレとか風呂とか台所がないとだめだなぁ。これ、だるくて動けなくなると相当に、こたえる。

ところで、「とか」の使い方だけど、AとかBとかCとか」というように、最後の項目のあとにも、「とか」をつけるのが、正しい使い方だ。けど、最後の項目のあとは、「とか」をつけない言い方もある。ほんとうは、正しい使い方ではないけど、日常的に、自分がどういうふうに言っているかということを考えると、最後の「とか」はぬかして言っているのだ。

ちなみに、「最後の項目のあと」という言い方の場合『の』が重複しているのでよくない。けど、「最終項目のあと」とか「最後にある項目のあと」のほうが、不自然な感じもするんだよなぁ。


2024年10月20日日曜日

いったん、なおりそうになったのだけど、なおらなかった。

 いったん、なおりそうになったのだけど、なおらなかった。

頭が割れそうに痛いわけじゃないけど、なんか、頭蓋骨に沿って、へんな痛みを感じる。

 

2024年10月19日土曜日

えーー

 なんとか、洗濯とか風呂(入浴)とか、普通にやって、元気になるのをまとう。わりと、しんどい。そして、なんか先行きが、暗い。これは、理論じゃなくて、感覚のほうね。感覚的に、なんかやばい感じがするんだよなぁ。まあ、普通の人に、正しい陰謀論と、まちがってる陰謀論の区別なんてつくわけがない。しかし、これがこたえるなぁ。そして、界隈の人が、悪い人ばかりだったのである。これもこたえるねぇ。

まあ、いいや。ともかく、ここ、20日ぐらいは、一切合切、他人のことは考えないほうがい。キーワード検索なんかもしない。どうしても、気になってしまうんだけどね。けっきょく、自分に関係があることだから、気になってしまう。世間の動きというのが、自分の人生に影響をあたえてしまう。

うーー

 今年の夏は、ほんとうに、やばかった。よくないないじゃないかーーー。なかなか、よくならない。つらいばかりの日常だなぁ。

うー

 だるいけど、風呂に入った。ちゃんとわかしてから、入った。

もう、なんか、このあいだの状態がかなり復活している。普通に座っているだけなのに、はーはー言ってしまう。ちょっと息があがる状態になってしまう。けど、なんとなく、なおる感じがする。

横になっていても、つらい。腹がいたいのは、つらい。なんだか、全部、いやになっちゃった。これで、トイレの修理とか、風呂場の修理とか湯沸かし器の修理とか、外壁の修理とか、粗大ごみの処理とか、きつすぎる。 とくに、うちのなかに入らないとできないことに関しては、ダニやネズミの糞が気になる。

もう、全部だるいなぁ。

ティーサーバーがダメになってしまったのだ。茶こしの部分がちょっとぬめっとした感じになって、どうしても、つるつるにならない。茶こしの部分は全部金属だから、ゆでてみたんだけど、ダメだった。オーブントースターで5分ぐらい、加熱してみたんだけど、だめだった。8分にしてやってみたけど、だめだった。なので、すてることにして新しいのを買ったんだけど、新しいやつに問題があるのだ。使いにくい。ともかく、使いにくい。もともと使っていたやつが、なぜか、値上がりしていたので、買えなかった。安いやつを買ったら、ものとしては、いいのだろうけど、ぼくには使いにくいのだ。なので、あたらし、もともとのやつを買ったんだけど、箱をあける気持ちがないのだ。そして、今使っている、使いにくいやつをどうするかということで、もめている。ぼくの頭のなかでもめているんだよ。けど、正直言って、使いにくいものにつきあって、いいことなんてない。

2024年10月18日金曜日

からだが重い

 からだの感じが、蚊取り線香事件二日目に似ているんだよなぁ。吐き気とめまい。なんだか知らないけど、めまいが復活してしまった。なんだか知んないけど、からだが重い。今日は、工事の音が特別にうるさかった。工事の内容で、その日のうるささがちがう。今日は、がんがんがんがん、うるさっかなぁ。昼間が睡眠時間だから、こたえる。

体調、悪いけど、ともかく、改善を目指し、生き残る。

2024年10月17日木曜日

だるい。体調がわるい。

だるい。体調がわるい。なんか、吐き気がする。これは、このあいだのやつが続いているのか、それとも、なんかの原因で、このあいだのやつとは関係なく、吐き気がするのか、よくわからない。吐き気というのは、感覚としてはおなじだからなぁ。まあ、あのときのすごい吐き気ではない。けど、なんか、なおったのが、じつはなおってなくて、ちょっと残っているという感じもしないではない。なんかちょっと調子が悪いという感じの吐き気だ。たいしたことはない。けど、だるいのは、たしか。

このさき、どうなるんだろうな?

いろいろとわかっていることはあるのだけど、実際になってみないと、わからないということもある。結果はわかっているのだけど、そこに行くまでの、道中で、ちょっといろいろな変化があるという感じかな。まあ、はっきり言って、そこに行くまでに、どのくらい時間がかかるのかも、ちょっとわからないんだよなぁ。けど、悪魔の側に立たなかった人たちには、いい世の中になる。それは決まっている。けど、ぼく個人としては、いままで悪いことが起きすぎたというのがある。ここまで積み重なっていると、やっぱり、つらいものがある。

2024年10月15日火曜日

しかし、このさき、どうするかな?

 今日は、あったかいので、風呂に入った。湯船のなかで、シャワーをかけるという入浴方法だ。これができるのは、あったかい日だけなんだよな。

しかし、このさき、どうするかな?

 

今日も、体調が悪い

今日も、体調が悪い。特に、腹がいたいのはきいつ。

頭も、ぼーーっとする。

どうするかな?

 

2024年10月14日月曜日

これは、ゆゆしき事態だ。

「言えば、現実がかわる」というのは、ものすごく、楽な考え方なのだ。そして、実際にある条件を無視した考え方だ。ほんとうは、実際にある条件が、現実をつくりだしているのに、あたかも、実際にある条件なんて、まったく関係がないということを言いだす。ただ単に、言えば、世界がかわるのである。「おカネがたくさん入ってくる」と言えば、あらゆる実際の条件を無視して、おカネがたくさん入ってくるようになるのである……。彼らの妄想的な理論にしたがえばそうなる。ところが、現実は、時系列的な条件の組み合わせできあがっているようなところがある。本人が、かえたいと思う条件だって、言っただけでは、かえられない。実際の条件を無視しているから、言うだけでかえられるような気分になっているだけだ。そして、そういう気分にさせて、おカネもうけをしているやつらがいるのである。妄想的な理論には、トリックがあり、トリックにひっかかった人が、「言えば現実がかわる」ということを信じているだけなのである。

それだけなら、いいのだけど、数が多い。社会的な信念になってしまっているのである。つまり、共同幻想になってまっている。アホなくそ理論が共同幻想になってしまっている。これは、ゆゆしき事態だ。けど、「言えば現実がかわる」という妄想的な理論を信じている人は、それがわからない。

すぐに消す

一般人が軽く洗脳されてしまうから、俺がこまっているんだぞ。

まあ、そんなことを考えるときもあるね。

生ごみをすてられた

 生ごみをすてられた。これで、だいぶ進歩した感じがする。しかし、まだまだ、ゴミとの戦いが続く……。終わりなき戦いだ。

しかし、このさき、どうするかな?

外壁を見るたびに、そう思う。

「自分は」おカネが好きだから、おカネがよってくると……条件を無視して……自慢したいだけだ。

 闇献金ですら、きたないと考えるのはよくないということになってしまうのである。闇献金はきたない金(カネ)だと考えるような人は、おカネがない人だということになる。おカネがある人は、闇献金もポジティブに考えるのだ。

そもそも、おカネ自体がきたないわけではなくて、人間の行為がきたないわけだ。そして、その行為が慣習化しているのであれば、構造自体が、人間のきたない行為をうみだしているということになる。

おカネというのは、物理的なおカネと、精神的なおカネがある。闇献金のことをきたないという場合には、もちろん、物理的なきたなさを問題にしている話ではなくて、精神的なきたなさを問題にしているのである。

そして、何度も言うけど、おカネ自体には関係がないことだ。人間の行為の問題だから……。

けど、「きたないカネ」というような表現をすることもある。

だから、「きたないカネ」という表現はあいまいなのだけど、きたないカネにまつわる人間の行為も含んでいるような印象をあたえる。

彼らは「おカネもちは、おカネをきたないと思わないから、おカネもちなのである」と言う。

ようするに、闇献金のような行為を否定せず、むしろ、推奨している。おカネをきたないと思うのは、ともかく、いけないことなので、「闇献金がきたない」と思うこと自体が否定されてしまっている。

「おカネがきたないと思っている人は、貧乏人だ」というような考え方は、闇献金ですら、肯定してしまうのである。

ぼくの意見にしたがえば、闇献金に使われたおカネ自体がきたないかどうかは、別にして、行為自体は、きたないということになる。

しかし、彼らの意見にしたがえば、闇献金は、別にきたなくはないということになる。

「闇献金をきたないと思う人は、おカネにネガティブな人で、貧乏人なのである。貧乏人だから、闇献金がきたないとネガティブなことを言う」と、彼らは決めつけるのである。

こういう話が、あたかも、よい話として語られるのだ。

こんなのは、おかしい。

そして、「実際に行為がきたないではないか」とぼくが言えば、彼らは「だから、貧乏なんだ」「だから、ネガティブな人はおカネもうけがへたくそなんだ」と言うわけだ。

「おカネをきたないと思うと、おカネが、(あなたのことを)きらいになるから、よってこない」などと言うのだ。

「おカネが好きなになれば、おカネもあなたのことを、好きになって、よってくる」などと言うのだ。

*     *     *

こういう話が好きな人がいるけど、ぼくはどうかと思うね。おカネは無生物なので、理論的なことを話すなら、そういう言い方はよくない。

条件を無視して、「好きになれば、おカネがよってくる」なんて話は、アホくさい。

実際には、条件でがんじがらめになっているのだ。条件が悪ければ、おカネを好きになっても、おカネなんて、よってこない。

条件のいい人が、そういう「作り話」をしているだけだ。

「自分は」おカネが好きだから、おカネがよってくると……条件を無視して……自慢したいだけだ。 

*     *     *

これじゃまるで、闇献金に肯定的なおカネもちが、ポジティブないい人で、闇献金に否定的な貧乏人が、ネガティブな悪い人みたいじゃないか。

彼らは暗に「何事にもポジティブな人が性格がいい人で……おカネもちなんだ」「何事にもネガティブな性格が悪い人であり……貧乏人なんだ」ということを言う。

そして、「嫉妬」ということを言いだすのだ。

「貧乏人が、おカネがきたないと言うのは、カネ持ちに嫉妬をしているからだ」と彼らは決めつける。

「貧乏人が、闇献金はきたないと言うのは、カネ持ちに嫉妬をしているからだ」と彼らは決めつける。

「嫉妬をするから、そんなことを言っている」と彼らは決めつける。

「嫉妬をしやすい悪い人だから、おカネがきたないと、ネガティブなことを言うのだ」と彼らは決めつける。

ここでも、「嫉妬をしない(自分ら)カネ持ちは、いい人で、嫉妬をしやすい貧乏人は、悪い人だ」というイメージを……あたえようとする。

*     *     *

カネ持ちではないけど、貧乏人ではない人たちが、おカネもちであって、なおかつ成功法則にこっている人たちの言うことを聴いて……「そうだ。そうだ。その通りだ」と言い出す。

4ブロックの人は、まあまあ、貧乏人なんだけど、3ブロック以下の人に「おカネをきたないと思うから、おカネがよってこない」「おカネを、好きになれば、おカネがよってくる」「何事も、ポジティブに考えるのが重要」……などと、説教をしはじめる。

そして、5ブロックの人は、4ブロックの人に、6ブロックの人は5ブロックの人に、「それぞれ正しいと思っていること」をつたえる。

自分のほうが相対的に高い立場だと思えば、さも、自分が考え出したように、カネ持ちであって、なおかつ成功法則にこだわる人から教えてもらった考えをくちにする。

だから、「闇献金がきたないということにこだわるのは、いいことではない」ということになってしまう。

社会全体がそういう方向に動き出してしまう。

何度も言うけど、条件を無視してはいけない。条件が悪ければ、おカネを好きになっても、おカネは、もうからない。条件が悪ければ、おカネを好きになることで、一点突破なんてできない。条件が悪ければ、おカネを好きになっても、おカネもちになれない。

彼らは、嘘つきで、わなを仕掛けているのである。あたかも、「おカネを好きになることで」一点突破ができるようなことを言う。

けど、条件が、おカネがない状態をつくりだしている。

条件をかえなければ、おカネなんて入ってこない。条件をかえなければ、どれだけ、自分がおカネのことを好きになっても、なにもかわらない。


2024年10月13日日曜日

ともかく、粗大ごみをすてないことには、さきにすすまない。

 し、か、し、どうしたもんだ? どうしようかなぁーー。

どのみち、粗大ごみ業者の人は、ダニに刺されることになるなぁ。これを、さけたいんだけど、ビニール系のレインコートをあげることしか考えつかないなぁ。まあ、作業したところで、着るやつと、車に乗り込むときに切るやつは、わけたほうがいいだろう。なので、ひとりにつき、2枚必要になる。それを、注文して買ってみたのだけど、相手がいやがる場合もあるし、そこらへんは、相手の意志を尊重しよう。あんまり気にしてないかもしれないしなぁ。たとえば、植木職人の人は、虫に刺されるのだけど、あんまり気にしてないか、気にないようにしているみたいだ。虫よけスプレーで自分の身を完全に守れるのかというと、ちがうみたいだしなぁ。服の上にかけるにしろ、スプレー成分を吸い込むことになれば、気にする人は気にするからなぁ。作業につきものなのかなぁ。ネズミの糞があるところに行くということは、ダニに刺されるということも、織り込みずみなのかもしれない。けど、こんなことで、悩みたくなかったなぁ。ちがうんだよ。普通のうちにいるダニと、ネズミが入りこんでしまったところにいるダニがちがう。まあ、普通のうちにいるダニもいるけど、ネズミが入りこんでしまったところには、普通のうちにはいないダニも紛れ込んでいる可能性がある。

ともかく、粗大ごみをすてないことには、さきにすすまない。

*     *     *

あとは、これに関係なく、どうしようかなと思うことが、複数個ある。どうしようかなーー。

ダニに刺されたあとは残っているけど、とりあえず生きている。ご飯も食べている。

 

はやく、してくれ

 あー。まじで、つまんない。はやく、してくれ。展開がおそすぎて、スローモーションを見ているみたいだ。「まだ、そんなこと、やってんのか」という気持になる。うーーー。これは、きつい。

 あとは、フロイト全集やカレン・ホーナイ全集をどうするかなぁ。これらの本も、「ダニ本」になってしまったので、どうするかまよう。「もう、どうでもいいか」という気持もある。フロイト、ユング、カレン・ホーナイ、岸田秀、小室直樹、小浜逸郎、クレッチマー、ヘルマン・ヘッセ、その他、いろいろな分野の専門書……。どうしようかな。主に、心理学と経済学なんだよなぁ。経済学と言っても、経済人類学とか経済思想とかが、メインだなぁ。

「もう、一度、死んだ」という感じのことが起こるかもしれないので、どうしようかな?

サブスク……なんだけど

 サブスク……なんだけど、「むかし見ようと思っていたもの」というのが、あんまり見たく感じないんだよね。「あっ、これ、あるなら、見てみようかな」と思うけど、いざ見るとなると、めんどうくさい気持ちのほうが、でかいということに気がつく。ちなみに、アマゾンプライムと、マイ・ヒーローを契約している。これ、むかしだったら、相当に「くいついているの」だけど、いまは、なんか、意欲がたりない。かなり無駄にカネを払っている感じがする。

けど、重いし、場所をとる。

 気が狂いそうになったので?本箱の整理をした。フロッピーディスクをどうするかまよう。これ、すごい重さなのである。本箱の半分ぐらい、フロッピーディスクで埋まっている。たぶん、全部、ハードディスクに書き出して、もっているはずなんだけど、書きだしてないやつが入っていたらやばいので、捨てるわけにはいかない。しかし、フロッピーディスクというのは、なんのゴミなんだ? 不燃ごみか? これ、どうするかなぁ? 場所代や引っ越し代を考えると、ほんとうは、処分するべきなんだけど、処分できない。持っていくことになるなぁ。持って行った先で、今後考えよう。なんてたって、世界がかわってしまうかもしれないからなぁ。まあ、大きな時代の変化があるかもしれない。まあ、とりあえず、持っていくしかないなぁ。けど、重いし、場所をとる。

作業は、刺されたくないので、重装備で行った。スチーム洗浄機も使った。けど、これが、紙だと、ぬれてしまってよくないなぁ。紙の上に、数年分のほこりが積もっていて、そのほこりのなかにダニがいる場合がある。普通のダニではなくて、刺すダニだ。掃除機で対処することはできない。まあ、レイコップを買ったけど、出してない。けど、あれは、構造的にうまくいかない。ダニを吸うけど、排気口にダニを一切出さないやつか、ダニを殺す機能があるやつじゃないとだめだな。けど、掃除機の口(くち)のところが問題なんだよな。あとは、束ねてない紙だから、あつかいがむずかしい。

そして、あのスペースで、そういう掃除機(レイコップ)などをいじるのはむずかしい。相当に、むずかしい。とりあえず、スチームでダニを殺すしかないなぁ。あとは、ダニの処理をせず、ほこりの処理をせず、ビニール袋に封印して、そのビニール袋を冷凍庫に入れて、何週間か置いておけば、ダニは、死ぬ。ダニが死んだほこりは、扱いやすいので、普通に掃除機で吸える。

今回、シンナー用のガスマスクをしたけど、やっぱり、息が苦しくなるなぁ。

引っ越しがたいへんだ。

中古の安い家は、なにかみんな、問題をかかえているんだよなぁ。

2024年10月12日土曜日

腹がいたいのは、やばい。

 なんか、ひとりで暮らしていると、腹がいたくなったとき、さみしさを感じる。このあいだもそうだったんだけど、腹がいたいと、「このまま死ぬのかな」というような気持ちになるのだ。腹がいたいのは、やばい。

ダニやネズミの糞、外壁の老朽化や給湯器の老朽化で、なんか、ピンチなんだよなぁ。「いったい、俺はなんだったんだろう」と思う。

なんとか、逃げ切るつもりだったけど、どうも、あやしい。

 なんとか、逃げ切るつもりだったけど、どうも、あやしい。

ネズミの糞を処理したけど、もう、いやなんだよね。きちがい親父が「俺が(ネズミシートで)捕まえるからいい」 「俺が(ネズミシートで)捕まえるからいい」 「俺が(ネズミシートで)捕まえるからいい」と、絶叫して、工事をさせてくれなかったんだよね。そのあいだにすごいことになった。なっている。俺が、片付けているんだぞ。

工事の人でも、粗大ごみ業者の人でも、気をつかうだろ。

ともかく、すごく複雑なことになってしまうんだよな。ネズミ関連問題がなければ、こんなの、気にしないですんだのに。

*     *     *

ネズミ対策工事業者の人は、「晴れた日にバルサンをたけば、全部死ぬから大丈夫」と言っていたのだけど、ダメだった。ガスがまわらないところがある。紙でも、かさなっている部分はだめなのだ。座布団も、表面にしか(ガスが)届かないので、内側に逃げられるとだめだ。ダメなところがいっぱいある。タンスの引き出しだって、全部あけておかなければならない。そして、あけておいても、たとえば、タオルとタオルがかさなっている場合は、ダメなのである。

やばい

 やばい。給湯器をかえてくれと、圧力がかかっている。いろいろと、やばい。引っ越すなら、そんなものは必要がない。しかし……。人には言えない、あれやこれやがある。主に、ネズミ関係だけど。きちがい親父が、親父の人生の最後に、ろくでもないことをしてくれた。ずっと、たたられている。

いま、じつは、だるい。引っ越しなんて、できない。引っ越しの用意もできない。自転車屋のこともあるから、不動産屋も行きたくない。けど、どんどん、家の老朽化が進み、どんどん、植物が育ってしまう。梅の木が、すごい。竹を切ったら、梅の木が猛烈に伸びた。あれも、処分しておかないと、横のうちに枝がのびる。竹は切ったけど……相当に切ったけど、また、いろいろなところに、つきだしている。縁台の下にどばーーっとのびている。縁台の気の割れ目から、竹が噴き出しているような感じだ。あれ、横にのびるような形態で、のびているんだよな。防草シートのあいだにどばーーっとのびている。きりがない。 

ともかく、家に人を入れたくないわけ。きちがい親父があんなことやこんなことをしなければ、そんなことになってない。言いにくいんだよ。いちいち、言いにくい。

もし、給湯器をかえるとすると、やはり、うちに入って確認する部分ができる。あとは、シャワーも蛇口も、かえたほうがいいので、かえたいとは思っている。十数万かかる。 けど、引っ越すなら、関係がない。

*     *     *

近くのアパートを借りて、風呂に入るときは、そこに行くという手もあるんだけど、シェディングがこまる。見えないし、ちょっとずつ吸わされるというのがいやだ。

2024年10月11日金曜日

しかし、このさきどうするかな?

「あとちょっと」という感じなんだけど、ほんとうに、どうしようかなぁ。とりあえず、風呂に入った。風呂に入るのも、体調が悪いとしんどいのだけど、あたたかくなったうちに入っておいたほうがいいと思って、入っておいた。まあ、入れてよかった。

 しかし、このさきどうするかな?

ネズミがいるみたいなんだよな。出て行ってはくれないか。

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現実的なことを考えると、相当に近くじゃないと、部屋を借りてもしかたがないと思う。けど、トランスミッション(シェディング)が気になるんだよな。気がつかないうちに、ナノ粒子を吸い込んでしまっているというのは、気になる。やはり、一軒家のほうがいいんだよね。一軒家を借りるとなるとかなりの勢いで、おカネがなくなるわけなので、いまいち、踏ん切りがつかない。

 けど、はやいところ、部屋を借りて、一度、このうちに、バルサンをかけたほうがいい。俺がいない時間をつくって、バルサンをたいたほうがいいだろう。だから、退避用の場所が必要なんだけど、ほんとうに、借りる元気がないのである。

 

 


温度変化にからだがついていかない

 温度変化にからだがついていかない。温度変化というのは、気温の変化のこと。あーー。こんどは、暑くなってきた。正直言って、猛烈にだるい。どうしようかな? このいやな感じ……。横になっていてもつらいし、眠るわけにはいかないし、どうするかな?

夏と冬しかない

 なんか、夏と冬しかない感じがする。秋がない。春がない。ないないない。これ、ほんとう、夏と冬しかないなぁ。じょじょに、温度がさがってくれないとこまるんだよ。そして、「温度がさがったなぁ」と思ったら、急に暑くなる。こまるんだよ。いま、寒いんだけど、このあいだ、一度暑いときがあったからなぁ。からだがついていかない。なんか、襟がついているジャージのようなものを二枚着て眠ったら、首がいたい。ジャージの生地じゃないけど、つくりはおなじ。

正直言って、体調が悪い。このあいだのがまだ残っている感じなのに、そのうえに、首のいたさが付け加わるとは……。

2024年10月10日木曜日

「おカネがない人は、性格が悪い。おカネがある人は、性格がいい」

 おカネがない人は、ネガティブだ。おカネがない人は、暗い。おカネがない人は、何事にもトライしようとする気持ちがない。おカネがない人は、あまえている。おカネがない人は、だらしがない人だ。おカネがない人は、格好悪い。

おカネがある人は、ポジティブだ。おカネがある人は、明るい。おカネがある人は、何事にもトライしようとする気持ちがある。おカネがある人は、あまえていない。おカネがある人は、清潔だ。おカネがある人は、格好良い。

おカネがある人と書いたけど、おカネもちでもいい。ともかく、おカネがない人のことをさげて、おカネがあるとのことをほめあげるようなことが、社会に流通している。

けど、みんな、条件を無視している。

条件について、ちょっとだけ、ふれる場合も、条件は、ちょっとだけしか影響をあたえていないという前提でものを言うのである。

これは、ようするに、「おカネがない人は、性格が悪い。おカネがある人は、性格がいい」というイメージを量産していることになる。

問題なのは、条件がつくりだすものなのに、性格がつくりだしていると、言い換えられることだ。9ブロックの子どもと1ブロックの子どもをいれかえた場合についてのべたけど、1ブロックの子どもは、9ブロックの子どもにくらべて、実際に挫折体験が多いのである。

10回リクエストして、9回、自分がほしいものを買ってもらえる子どもと、10回リクエストしても、1回しか自分がほしいものを買ってもらえない子どもとでは、挫折体験の多さがちがう。どれだけ言ったって、買ってもらえなかったということは、それをゲットできなかったという意味で、挫折体験なのである。ゼロブロックの子どもは、10回リクエストして、10回とも、拒絶されるので、1ブロックの子どもよりも、挫折体験が多い。どれだけ言ったって、買ってもらえなかったということが繰り返されれば、リクエストすることをやめてしまうだろう。それが、消極的と言えば、消極的ということになる。ようするに、ゼロブロックの子どもの、消極的な性格は、条件によってつくられたものなのである。ゼロブロックの子どものもともとの性格は関係は、とりあえず、関係がない。これは、じつは、いろいろなことがかかわっているので、一概には言えないのだけど、人間というものを考えると、やはり、傾向としては、挫折体験が多い人間のほうが、あきらめやすいという傾向がある。あくまで、傾向だ。そして、それは、時系列的につみ上がっていくのである。それこそ、赤ん坊のころから。まあ、本人が記憶しているのは、幼児期ぐらいからだけど……。遺伝子的な条件も、あきらめやすさに影響をあたえるとは思うけど、挫折体験の回数や頻度のほうが、あきらめやすさに影響をあたえる。

ともかく、お金のない家の子どものほうが、おカネのある家の子どもよりも、挫折体験が多い傾向がある。実際には、親の性格も、影響をあたえる。けど、親にカネがあるかどうかといのは、親の属性だ。親という条件を考えると、親にカネがあるかどうかという条件は、親の条件のサブカテゴリーの条件だということになる。だから、親の条件のうち、カネにかかわる部分をぬかした条件も、じつは、関係している。しかし、、親のカネに関する条件は、子どもの挫折体験に大きな影響をあたえている。無視することはできない。

いずれにせよ、カネがない人に悪いイメージをあたえて、カネがある人に良いイメージをあたえようとしているのである。それが、「うえ」のほうから、ふってくる。「正しいこと」としてふってくる。みんなが、そう思ってしまう。けど、そういうイメージは、条件を無視して、つくられるのである。特に、時系列的な条件なんて、徹底的に無視される。わずかに言及された場合でも、「ちょっとしか影響をあたえない」ということになってしまうのである。こういう態度自体が問題だ。

*     *     *

「おカネがない人は、性格が悪い。おカネがある人は、性格がいい」というイメージについて、ちょっと語っておく。これ、じつは、平均以下の人も、大好きなのである。自分たちのことを悪く言うことがはやっているのである。ようするに、納得してしまっている。ブロックで言えば、4ブロック以下の人も、「おカネがない人は、性格が悪い。おカネがある人は、性格がいい」と思ってしまっているところがある。これは、洗脳されて、そう思っているだけだ。上から、条件を無視したまちがった考え方が、ふってくるのである。条件を無視したまちがった考え方が、正しい考え方として、流通してしまっているという問題がある。

条件が悪い人は、挫折を味わうようにできているのである。

 「おカネを好きなれば、おカネが入ってくる」と言っている人は、気持ちの問題で、おカネが入ってくるようになると言っているわけだけど、気持ちの問題じゃないのである。条件がある。じつに、さまざまな条件がある。じつにさまざまな条件が、時系列的に絡み合って、「いまの状態」をつくりだしている。さまざまな条件のほうが、「おカネを好きになること」よりも、現在における「ちから」がでかいのである。そういうふうに、思うだけで、簡単に状態をかえられるようなことを言うのは、よくない。これ、あんまりよくできてない「詐欺」だ。こんなの、だまされやすい人しかだまされない。

セミナー講師と受講生のように、実際におカネの流れがある場合だけではなくて、凡人Aさんと凡人Bさんのように、おカネの流れが発生しない場合でも、有害なことにはかわりがない。簡単にできるようなことを言うけど、簡単にできることじゃない。もともとが、嘘なんだよ。まちがった前提の上に成り立っている、嘘だ。条件が悪い人は、挫折を味わうようにできているのである。最初から、ガセネタだ。


「子どもは働けないからしかたがない。大人になって働けばいい」

 「子どもは働けないからしかたがない。大人になって働けばいい」とか「大人は労働ができるので、そんなことは関係がない」と思う人がいると思う。

けど、関係ないのは、労働ができるかどうかということだ。「おカネがない人は、おカネがきらいだ。おカネを好きになはれば、おカネが入ってくるようになる」という話をしていたのだ。

対処方法は、おカネが好きになることだ。

労働をすることじゃない。

労働の話なんて関係がないのである。思っただけで、思霊が、思ったことを現実化するように、「おカネを好きになっただけで」おカネが入ってくるようになるのである。言っただけで、言霊が、言ったことを現実化するように、「おカネを好きになっただけで」おカネが入ってくるようになるのである。

「おカネを好きになれば、おカネが入ってくるようになる」「思霊」「言霊」……全部、労働とは関係がない。

XをすればYになるというような言い方をするのであれば、おカネを好きになれば、おカネが入ってくるようになるのである。

おカネが入ってくると思えば、おカネが入ってくるのである。おカネが入ってくると言えば、おカネが入ってくるのである。

「好きになるだけ、思うだけ、言うだけ」……で、おカネがはってくるのである。

労働?

関係、ない。

「好きになるだけ、思うだけ、言うだけ」……全部、簡単な一点突破なのである。そうするだけで、おカネが入ってくるようになるである。そのように言っているのである。

この一点突破が、現実において意味がある一点突破かというと、ぜんぜん意味がない一点突破なのだ。どうしてかというと、そんなことをしても、状態がわからないからだ。

「おカネがなくて、ほしいものが買えない子どもは、おカネがきらいなのだろうか?」

「おカネがなくて、ほしいものが買えない子どもは、おカネがきらいなのだろうか?」と書いた。いいや。きらいじゃないだろ。おカネをもらって、ほしいものを買いたいのだから、おカネがきらいであるはずがない。

けど、けっきょく、どうあがいても、親が買ってくれなかったので、ほしいものを手に入れられなかったとする。

その場合、「不公平だ」という感情がうまれる。

たとえば、まわりの子どもが買ってもらっているのに、自分だけ、勝ってもらえないのは、不公平だという感情がうまれる。これは、嫉妬心と言えば、嫉妬心だけど、それほど、悪いものなのだろうか。やつらは、嫉妬心という言葉を使って、あたかも、この子どもが、悪い子どもであるように言う。

たとえば、9ブロックの子どもは、10回リクエストすると、9回は、好きなもの買ってもらえるとする。そして、ゼロブロックの子どもは、10回リクエストしても、0回しか買ってもらえないとする。

ようするに、ゼロブロックの子どもは、どれだけリクエストしても1回も買ってもらうことができないとする。

この場合、もし、情報がいきわたっているのであれば、ゼロブロックの子どもは……あきらめるまでは……「不公平だ」と思うだろう。

しかし、それは、ゼロブロックの特別な子どもが、特別に嫉妬心が強いから、感じることなのだろうか? 思うことなのだろうか?

もしかりに、9ブロックの子どもと、ゼロブロックの子どもをいれかえたら、今度は、9ブロックの子どもが、ゼロブロックの子供のように「不公平だ」と感じるのではないか。

ようするに、ゼロブロックの子どもが、特別に、嫉妬心が強いわけではなくて、人間というのは、そういうふうに感じるようにできているのではないか。

こんなもの、なぐられたらいたいのとおなじだ。もちろん、例外はいる。神経がうまく機能していなければ、いたさは感じない。けど、それこそ、神は、人間をいたさを感じるようにつくった。

ゼロブロックの子どもだって、なぐられたらいたい。9ブロックの子どもだって、なぐられたらいたい。

こんな不公平な対応をされて、不愉快な思いをしない子どもがいるだろうか。あるいは、人間がいるだろうか。

2024年10月9日水曜日

「おカネがない人は、おカネがきらいな人だ」→「おカネがきらいな人は、おカネがない人だ」

さまざまな条件を無視して「おカネを好きになれば、おカネがもうかるようになる」と言うやつがいる。さまざまな条件を無視するべきではない。

実際には、さまざまな条件があるので、おカネを好きになっても、おカネがもうかるようにはならない。

こういう一点突破を主張するやつは、(あなたのことを)だますつもりでいる。

条件を無視して、くそを言うやつらを、信用してはいけない。

*     *     *

ところで、おカネが好きじゃない人なんているの?

まあ、いたとしても、例外的な少数派だな。おカネがありすぎて、きらいになっているのではないかな?

これも、言葉のトリックで、「おカネがきたない」と思っている人たちは、自動的に「おカネが好きじゃない人」になっているのだ。

特定の用途で使われているおカネが、きたないおカネだと比喩的に表現する人だって、おカネがきらいなわけではないだろ。

あいまいなことを言うやつは、自分でなにを言ってるか、よくわかってないやつだ。

*     *     *

さまざまな条件によって、おカネがない生活をしている人が「おカネを好きになった」とする。

おカネが入ってくるようになるか?

ならない。

おカネを好きになるだけで、おカネが入ってくるのであれば、もう、とっくにおカネが入ってきている。おカネが入ってくるので、おカネがない生活をしてない。

おカネがない生活をしている人に「おカネを好きになれば、おカネが入ってくるようになる」と言うのは、意味がないことなのである。

「好きになれば」それで問題が解決するようなことを言っているけど、好きなのに、問題が発生し、継続しているのである。

こういう、くそ理論をふりまわすやつは、自分が言っていることがよくわかってないやつだ。

*     *     *

おカネがなくて、好きなことができない人は、おカネがきらいなのだろうか?

おカネがなくて、ほしいものが買えない子どもは、おカネがきらいなのだろうか?

「おカネがない人は、おカネがきらいな人だ」という勝手な決めつけがある。

よく注意して聞かないと、こういうところにも、ひっかけがある。言っている人が、このひっかけに気がついてない場合がある。

ようするに、言っている人も、ぜんぜん、自分が言っていることがわかってない。

どういう前提で、どういうことを言っているのか、言っている本人が、わかってない。

さらにおろかなことに、「おカネがきらいな人は、おカネがない人だ」と思っているのである。

ようするに、「おカネがない人は、おカネがきらいな人だ」→「おカネがきらいな人は、おカネがない人だ」と一回転させて、無意味なことを言っている。

「おカネがきたないと考えるのはよくないことだ」

 おカネがきたないと考えるのは、よくないことだ。おカネがきたないと考えている人は、貧乏で、性格が悪い……ということを、うっすらと言うことで、闇献金や、闇献金にかかわる構造、人をだまして金儲けをする行為まで、うっすら、肯定されてしまっている。

そして、うっすらとだけど……闇献金にかかわる人たちや人をだましておカネ儲けをする人たちが、おカネもちで、性格がいいということになってしまうのだ。おカネ儲けがうまい人たちは、いい人たちなので、いい人たちがやることは、いいことだということも、うっすらと、言っている。

おカネがきたないと考えることを、否定することで、逆に、おカネをきたないと考えてないでおカネ儲けをする人たちが、うっすらと、肯定されている。

ようするに、尊敬するべきは、おカネがきたないと考えない人たちで、軽蔑するべきは、おカネがきたないと考えている人たちなのだ。「おカネがきたないと考えるのはよくないことだ」ということで、こういうことまで、全部、におわせてしまう。

*     *     *

完全に電子マネー化されたとき、この人たちは、対象としての物質的な硬貨や紙幣をうしなう。理論の根本をうしなうことになるなぁ。

対象としての物理的な「おカネ」がないのだから、きたないもくそもない。

だから、「おカネがきたないと思うことはよくないことだ」というところからひっぱって、おカネがない人たちをディスることもできなくなる。

「おカネがきたないと思うことはよくないことだ」というところからひっぱって、おカネもちを尊敬の対象にすることもできなくなる。

「おカネがきたないと思うことはよくないことだ」というところからひっぱって、きたないおカネをかせぐときにやる行為を、正当化できなくなる。 

*     *     *

物質的な硬貨や紙幣があると、物理的なきたなさと、精神的なきたなさをごっちゃにして、話しをすることができるのである。

まず、ここに、「ひっかけ」がある。トリックがある。

最初から最後まで、じつは、あいまいな話をしているのだけど、「おカネがきたないと考えるのはよくないことだ」ということは、つたわるのである。

そして、「おカネがきたないと考える人」に悪いイメージをあたえることに成功している。

いっぽう、「おカネがきたないと考えない人」によいイメージをあたえることに成功している。そして、おカネをもうけるときの範囲は気にしないということになる。

ようするに、どんなことをしても、おカネをもうけることができるなら、それは、正義だということになる。

「どんなことをしても、おカネをもうけることができるなら、それは、正義だ」と考える人たちを、「おカネがきたないと考える人」は、ある意味、批判しているわけだ。「おカネがきたないと考えるのはよくないことだ」という人たちは、批判している人が、悪いというイメージをあたえる。「どんなことをしても、おカネをもうけることができるなら、それは、正義だ」と考える人が正しくて、それを批判しているほうが、まちがっているということを、暗に言っている。

ようするに、「おカネはきたないものではないということがわかってないから、そういう批判をするようになるのだ」ということを言って、「おカネがきたないと考える人」のことを暗に批判するのである。

物理的なきたなさと、精神的なきたなさをごっちゃにして、話しをすることができるので、内容を特定して、批判することができないような構造になっている。まあ、本人は、本人の頭のなかでも、あんまり整理できてないことを、ごっちゃにして話しているだけなのだが、やっかいだ。

2024年10月8日火曜日

あと、ちょっと。

 さて、どうするかな? 今日、書きたいことは、だいぶ書いたから、いいや。あとは、料理でもつくるかな。きのうつくった味噌汁をまだ、食べ終わってない。あれ食べて、鍋をあけて作らなければならない。二つの鍋にものが入っている状態というのは、まずい。冷蔵庫のことを考えても、まずい。昨日のうちに、食料品を買っておいてよかった。いろいろと、つくれるものがある。

けど、頭がつまっている感じというのが、続いているんだよなぁ。いたいわけじゃないんだけど、なんかいやなんだよなぁ。右目は、なおった。これは、もう、なおったと言える。これも、まだちょっと、残っている感じはあるのだけど95%ぐらいはなおった。 

このさき、どうするかな? 人生のことだけど。どーーするかなーー。まあ、ぼくだけではなくて、人類にとって、たいへん大きな変化がやってくるわけなんだけど、いつやってくるのか、わからない。近いうちにやってくる。おそくても、2025年の2月あたりにはやってくると思うなぁ。あと、ちょっとだ。あと、ちょっと。

あと、ちょっとがんばればいい……。

印象操作をしている。

 まあ、おカネが好きな人が性格のいい人で、おカネがきらいな人は性格が悪い人だというイメージつくりだしているんだよ。おカネが好きになっただけで、運があがって、高収入になるのだから、簡単だろ。けど、おカネが好きになれば、運があがるということになるのだけど、おカネが好きな人だって、運がない人はいるよ。これ、おカネが好きとか、おカネがきらいということは、まったく関係がないのである。「運」というのは、ジョーカーワードで、運という言葉を使えば、成功とかおカネがあるというようなことに関しては、どんなことだって、説明できるのだ。もっともそうな説明ができる。けど、それは、現実の言い換えだから、意味がない。意味がないどころか、誤解や妄想がうまれて、まともな考えをもてなくなる。現実が見えなくなる。ともかく、おカネが好きな人が性格のいい人で、おカネがきらいな人は性格が悪い人だという印象を(ほかの人に)あたえたいやつがいるんだよ。「おカネが好きな人のころには、おカネが集まって、おカネがおカネが集まらない」ということを言うけど、これも、因果関係を無視して、妄想的なことを言っているにすぎないのである。右矢印で、思考の流れをあらわすとする。おカネが好きな人は性格がいい人→おカネが好きな人のところには、おカネが集まる→(おカネが好きな)おカネもちは、性格がいい人だ……ということになる。おカネがきらいな人は性格が悪い人→おカネがきらいだからおカネが集まらない→(おカネがきらいな)貧乏人は性格が悪い人だ……ということになる。印象操作をしている。

雑感

 悪い人がいると、緊張度が増すのである。とりあえず、いい人と悪い人とどちらでもない人の割合を考えないとだめだな。けど、悪い人が10%ぐらいでも、悪い人がいるという効果を、じゅうぶんに発揮するのである。これは、ようするに、掲示板に「あらし」がいるのとおなじだ。掲示板にあらしが全体の10%いるだけで、ものごくいやなことがしょうじる。基本的には、ものすごくいやなことがしょうじることを、さけることができない。そして、あらしが粘着する掲示板でずっとおちついた話をするなんてことはできない。あらしの書き込みだけ非表示にできる専用ブラウザーがあるとする。それだって、けっきょく、あらしに目をつけられた掲示板は、いい人や普通の人が、きえていくので、意味がないということになる。掲示板で話したけど、SNSでも似たようなところがある。もっとも、SNSは、ブロックがけっこう強烈なので、ある程度は身を守ることができる。けど、なにか不愉快な思いをしたあとにブロックするわけだから、ずっと使い続けていれば、ずっと不愉快な思いをするということになる。それから、運用が問題だ。そして、SNSでおカネをもうけようとする人たちが、うざい宣伝をしてくるので、うざいということが発生してしまう。あとは、単純に、気が合わない人がいる。気が合わないと感じる出来事が発生したあと、「気が合わない」と感じるわけだから、無傷ではない。それから、いろいろと気をつかう。たとえば、こっちが、食べ物の話をしたら、ものすごくまずそうな店のURLをはってきた人がいたわけだけど、URLをはってほしくはなかったわけ。どうしてかというと、店のURLがはってあるということは、ぼくがその店の宣伝をしているようになるから、いやなんだよ。けど、それを相手に言ってしまうと、問題が起こるような気がした。なので、気をつかって、まずそうな店のまずそうな料理について、いちおう、反応をしたのだけど、その反応が、相手には気にくわなかったみたいなんだよな。まあ、俺は、まずそうだと書くのも失礼だと思って、まずそうだとは書かなかったんだけど、へんなところで、相手の機嫌が悪くなったのだ。本人も、自己紹介欄で、「自分は性格が悪いとよく言われる」みたいなことを書いていたので、ほんとうは、あんまり、つきあいたくなかったんだけど、いちおう礼儀で、おうじたんだよな。ともかく、いろいろと気をつかう割に、不愉快な思いをすることがある。気をつかえば、不愉快な思いをすることをさけられるというわけではない。あれ、ほんとうに「こういうところに行けば」みたいなノリで、まずそうな店のURLをはったわけで、悪意はないんだよなぁ。反応にこまるやつというのが、いる。この反応にこまるやつというのは、悪い人ではないのだけど、反応にこまる。ともかく、運営側の宣伝もいやだし、いろいろといやなことがつみかさなってしまう。

そんなことより

 「おカネがきたないと思っている人は、おカネがきらいだからダメなんだ。おカネのことがきらいだと、おカネもその人をきらって、にげていく」なんてことを言うわけよ。じゃあ、その人がおカネをきれいなものだと思えば、おカネが入ってくるようになるのかと言えば、そうならない。そうなると言っているのが、彼らなんだけどね。そんなことより、構造的な格差について語ろうよ。生まれの格差について語って、解決方法を探りだそうよ。

まあ、ハイパーベーシックインカムは、ひとつの解決方法だ。

*     *     *

何度も言うけど、おカネを擬人化して話すのはよくない。おカネには意志がない。これ、ほんとうは、生まれの格差がおカネの格差をうみだしているのに、「すき」だとか「きらい」だとか、話のレベルが低すぎる。「きらいだからだめなんだ」「きらいだから、おカネがないんだ」という話になってしまう。「おまえが、おカネをきらいだから、おカネもおまえのことがきらいなんだよ。だから、貧乏なんだよ」と生まれの格差を無視して話したって、ただの悪口にしかならないぞ。 

条件の悪い人のせいにして、条件の悪い人を、ディスりまくる。よくない。よくない。

ここでも、価値観が逆転していて?あたかも、こうやって、条件の悪い人をディスりまくる人が、いい人だと思われるようになっている。条件が悪くて、おカネがない人は、悪い人なのである。だから、ダメだとダメ出しをされても、しかたがないのである。いっぽう、勝手な妄想理論をでっちあげ、人のことを悪く言った人が、いい人だと(信者)から言われるのである。信者のほうが人数が多い。割合が大きい。

*     *     *

お札やコインではなくて、電子マネーになったら、「おカネがきたないと思っている人は、おカネがきらいだからダメなんだ。おカネのことがきらいだと、おカネもその人をきらって、にげていく」と言っていた人は、なんと言いだすのだろうか?

普通の人をだまして、その気にさせて、高いものを売りつけることは、道徳的にいいことなのか

 「銀座のママが語る出世する男の特徴」なんて話をして、けっきょく、高い靴を買わせようとする人たちがいる。銀座のママというのも、ただの銀座のママではなくて、ものすごいベテランだったり、なんだか知らないけど、すごい人たちの接待をしてきた銀座のままだということになっている。

たとえば、「靴がきれいな人は、出世する」と銀座のママが言ったとする。靴がきれいというのは、靴自体が高いということを意味していない。

けど、記事を読んでいると、きれいな靴というのが、ようするに、高い靴であり、メンテナンスがいきとどいた靴のことなのだということがわかる。

けど、これも、原因と結果を言い換えているだけかもしれない。ようするに、たとえば、高くてメンテナンスがいきとどいたきれいな靴をはいている人は、すでにカネ持ちなのかもしれない。

カネもちが高くてメンテナンスがいきとどいたきれいな靴をはいているだけかもしれない。これも、スマホで話した話とおなじだ。だから、もう、話さない。

問題は、「カネをきたないものだと思っている」か「カネをきたなくないものだと思っているか」ということだ。あるいは、それにまつわる問題だ。

たとえば、普通の人をだまして、その気にさせて、高いものを売りつけることは、道徳的にいいことなのか、悪いことなのかということだ。

カネをきたないものだと思っている人は、普通の人をだまして、その気にさせて、高いものを売りつけることが、道徳的に悪いことだと思っている人だというイメージをあたえているのである。

そして、普通の人をだまして、その気にさせて、高いものを売りつけることが、道徳的にいいことだと思っている人は、カネをきれいなものだと思っている人だというイメージをあたえているのである。

ようするに、「おカネがきたないと思っている人は、貧乏で、おカネがきれいだと思っている人は、おカネもちだ」というような話につながっている。

おカネをきれいだと思っている人というのは、おカネが好きな人なのである。

いっぽう、おカネがきたないと思っている人は、おカネがきらいなのである。

……こういう思考方法。あー、もう、いやだなぁ。

 

「高いスマホを使うと、運がよくなって、収入があがる」

「自分の身のまわりを見ると、高いスマホを使っている人はみんな仕事ができるし安いスマホを使っている人は、仕事ができない。高いスマホを使えば、仕事ができるようになる」というようなことを、他人をだまして自分が利益をえたい人が、言ったとする。

安いスマホを使っている人が、高いスマホを買って、高いスマホを使えば、仕事ができるようになるかというと、そうではない。

だいたい、まあ、「自分の身のまわりを見る」という言葉で、保険をかけている。突っ込まれたら、「『自分の身のまわりを見ると……』と言っているでしょ」と言って逃げることができる。

けど、まあ、「高いスマホを使っている人はみんな仕事ができる」というような印象をあたえることができる。

因果関係について考えない人は、ころっとだまされてしまう。因果関係について考えたほうがいい。

*     *     *

たとえば、安月給の人が、きたないクレジットカードを使っているとする。この人がつとめている会社をかえないで、なおかつ、副業をしないで、おカネをもうけるのは、かなりむずかしい。

ようするに、高収入になれない。

もちろん、その会社で、ちょっとでもいいから出世するという方法もあるかもしれないけど、いまは、ちょっときついんじゃないかなぁ。

おカネが流れてくるパイプというものがあるとする。そのパイプをかえないと、なかなか、おカネが流れてくる量がかわらないのではないかということだ。

そして、たとえば、この安月給の人が、きれいなクレジットカード使えば、運があがって、おカネもちになるかというと、そうではないだろう。

まあ、きれいなクレジットカード使いはじめたら、宝くじに当たって、おカネもちになったというようなストーリを考えることもできる。あるいは、そういうことが、現実世界で起こる確率はゼロではないので、そういう人もいるかもしれない。

しかし、きれいなクレジットカードを使ったから、運がよくなって、宝くじが当たったわけではなくて、きれいなクレジットカードを使ったあと、たまたま、宝くじが当たっただけなのだ。

じゃあ、運をよくして、宝くじを当てるために、わざわざ、きれいなクレジットカードを使うようにした人のうち、どれだけの人が、宝くじを当てることができるのか?

「あと」なのか「から」なのか? それが問題だ。

これは、「あと」だ。

「から」じゃない。

きれいなクレジットカードを使えば、運がよくなって、宝くじが当たるようになると思っている人は、「あと」と「から」の区別がついてない。「から」じゃないので、宝くじが当たる確率はかわらない。

「運がよくなって」という言葉に、まどわされてはいけない。

そうすることによって、宝くじが当たる確率があがるのかどうかということを考えなければならないのである。

きれいなクレジットカードを使うことは、当たる確率にまったく影響をあたえない。当たる確率をまったくかえないものに、期待したってむだ。

ともかく、この世では、原因と結果を言い換えることがはやっていて、「あと」と「から」を混同することが、はやっている。どうしてなのかというと、信じやすい人をだますためだ。

原因と結果を言い換えているやつらは、それでおカネをもうけているのである。だまされたやつが、いらないものを買って、損をしているのである。

まあ、そういうことだ。

*     *     *

「原因と結果を言い換えているやつらは、それでおカネをもうけている」と書いたけど、たとえば、運があがると思っている人だって、おなじことを言う。

運があがると思っている人は、だます側のカモネギだ。

だから、運があがると思っている人であって、なおかつ、それで商売をしていない人は、利益をえているわけではない。だから、ただ単に、他人に対して「原因と結果を言い換えたこと」を言う人は、別に、悪意があって、他人をだまそうとしているわけではない。

しかし、「原因と結果を言いかえる思考」になれてしまうと、次々に、だまされるようになるので、注意が必要だ。

ようするに、利益をあげるほうも、原因と結果を言いかえた話をするし、利益をえない人も、原因と結果を言い換えた話をする。

これは、教祖と信者の関係が成り立っている。だから、別に「高いスマホを使えば、運がよくなって、収入があがる」と思っている人が、「原因と結果を言い換えること」によっておカネをもうけているわけではない。

もし、「高いスマホを使えば、運がよくなって、収入があがる」と思って、高いスマホを買った人がいたとすると、その人は、だます側の人ではなくて、だまされる側の人だ。

ようするに、教祖側の人は、利益をえているけど、信者側の人は、利益をえてない。

*     *     *

基本的には、教祖側の人というのは、それで商売をしている。だから、高いスマホをもつことによって運をあげて、おカネをもうけたわけではなくて、カモネギに、高いスマホを買わせることによって、運をあげて、おカネをもうけた人だ。

「運をあげて」と書いたけど、別に、運をあげてという言葉をぬかしても、そのまま、おなじことが成り立つ。

原因と結果を言い換えた話にだまされるほうも、だされるほうだけど、だますほうは、そのぶんだけ、運が悪くなっているのではないかと思う。

けど、それは、ぼくの特殊な考え方で、だまされた人も含めて、だました人は、運がよくなると思っているのである。

もちろん、これが、明言されることはないのだけど、原因と結果を言い換えるような思考方法になれていると、だれが、善人で、だれが悪人か、まったくわからなくなってしまうので、だまされた人間は、だます人間を善人だと思ってしまうのである。

それも、けっきょく、そのぶんだけ、運が悪くなったのではないかと、ぼくは思うけど、だまされている人は、そうは思わない。

ほんとうに、教祖と信者の関係が「うすく」成り立っている。原因と結果を言い換えて、嘘をつき、ものを買わせるなんて、悪いことだと思うけどなぁ。そして、運をさげることだと思うけどなぁ。

信者も、ほかの人には、えらそうに、説教をするのだ。「原因と結果を言い換える」思考方法になれている人は、たとえ、おカネがもうからなくても、教祖が言ったことを、ほかの人に、言う。

特に、実際にやったあと、いいことが起こったという場合は、注意が必要だ。「あと」と「から」の区別がついていない人だから、真実だと思ってしまう。

たとえば、「高いスマホを使うと、運がよくなって、収入があがる」という話を教祖から聞いた人がいるとする。まあ、信者だ。その人が、実際に高いスマホを使ったあと、収入があがるということが発生したとする。

その場合は、その人は、「高いスマホを使えば、運がよくなって、収入があがる」ということを信じてしまう。もっともっと、強く信じてしまう。この話は真実だと確信してしまう。

けど、真実ではない。嘘だ。

こういう人は、ほかの人に言いことを教えてあげようと思って、「高いスマホを使えば、運がよくなって、収入があがる」と、ほかの人に言うようになる。この人は、別に、それでおカネをもうけているわけではない。

だから、これは、おカネのためにやっていることではない。

しかし、教祖の役には立っているし、嘘をひろめてしまっている。はたして、運がよくなる行為をしているのだろうか?

運が悪くなる行為をしているのだろうか?

あるいは、運なんてまったく関係がない行為をしているのであろうか?

たとえば、信者の話を聴いて、高いスマホを買った人が、おカネがない状態のままなのであれば、「運があがらなかったじゃないか」というような気持ちはしょうじるだろう。高いスマホを買ったあと、よけいにおカネにこまるようなことがあるかもしれない。

その場合はどうなのだろうか?

やすい月給なのに、リボ払いで高いスマホを買ったら、よけいに貧乏になって、くるしい状態になってしまうではないか。高いスマホを買ったことによって、運があがっているのに、よけいに、くるしい状態になるのか?

運というのは、じつは、関係がない。運というのは、ジョーカーワード(マジックワード)だ。なんとだって言える。

けど、運がいいとか運が悪いとか、運があがるとかうんがさがるという言い方はある。ぼくは、運というのは官界系がないという立場にたっているので、運があがるとか、さがるというのは、関係がないことだと思っているけど、彼らの流儀にあわせて言えば……高いスマホを買ったことによって、支払いがくるしくなり、生活の余裕がなくなり、運がさがっていると言えなくはない。

*     *     *

あと、「高いスマホを使うと、運がよくなって、収入があがる」ではなくて、ほんとうは「高いスマホを使うと、運がよくなって、収入があがる」と(彼らは)言いたいのだよ。

彼らは……。だますために、「高いスマホを使うと」と言っているけど、彼らが、対象者に、ほんとうに求めているアクションは、「高いスマホを買うこと」だ。

 

カードがきたない人は、おカネがない。カードがきれいな人は、おカネがある

 だいたい、おカネがきたないかどうかなんて、カード時代には関係がない。カードがきたないかどうかの話になってしまう。カードがきたない人は、おカネがない。カードがきれいな人は、おカネがある。そんなことはない。カードですらなくなって、スマホに表示される表示画面がきたない人は、おカネがないとか、スマホに表示される画面がきれいな人はおカネがあるというような話になってしまう。

カードに関していうと、ATMで使った分だけ、カードがなんとなく、きたくなる。使い込まれたカードはきたなくて、使われてないカードはきれいだ。おカネがない人が、クレジットカードを手にしたけど、外ではまったく使わない場合は、ずっと、クレジットカードは、きれいなままだ。ネットで買い物をするときだけ、番号の確認のために、クレジットカードを見るけど、クレジットカード自体は、机の引き出しの中に入れておく場合は、クレジットカードは、きれいなままだ。キャッシュカードやデビットカードにも、同様のことが言える。

クレジットカード、キャッシュカード、デビットカードがきれいかどうかと、おカネがあるかないかということは、関係がない。 

*     *     *

スマホに表示される表示画面がきたない人は、おカネがないとか、スマホに表示される画面がきれいな人はおカネがあるということについて、ちょっと語っておこう。それじゃあ、スマホ本体はどうなのかという話だ。これは、カネがない人は、機種変更を頻繁に繰り返すわけにはいかないし、そんなに高性能なスマホを買うわけにはいかないという事情があるから、安いスマホを長く使っている場合がある。高くて、新しいスマホを使っている人は、カネがある場合がある。けど、それは、カネがある人は、高いスマホをもっている確率が高く、カネがない人は安いスマホをもっている確率が高いということを意味しているだけだ。カネかをもっている人が高いスマホを買って、カネをもってない人が安いスマホを買うということは、いちおう、考えられることだ。カネをたくさん持っているということが、原因。高いスマホをもっているということが、結果だ。これを、逆向きの話にしてしまってはいけないのである。ようするに、原因と結果をいれかえて話をするべきではない。たとえば、「高いスマホを使っている人は、高いスマホを使っているので、おカネが入ってくる」とか、「高いスマホを使っている人は、高いスマホを使っているから、高収入になる」とかというような話にしてしまっては、いけない。

「おカネと性格を結び付けて語るやつ」

 カネがないやつは、カネをきたないと思っているからカネがないんだ」ということなのだけど、これが、意外にやっかいな話なのだ。言っているほうが、言っていることについて、よく考えているわけではなく、なんとなく言っているだけの話だからだ。はっきり言えば、「カネをきたないと思っているから、カネがないんだ」というのは、嘘だ。まちがい。妄想。

じゃあ、なんで、話が複雑になるかというと、カネが物理的にきたないという層の話や、カネが心理的にきたないという層の話や、裏献金の話がいっしょになっているから、最終的には、なにを言っているのか、わからなくなる。ようするに、なんとなく、雰囲気で言っているだけで、特定できる意味がない。ところが、雰囲気で言っているのにもかかわらず、雰囲気で「言いたいことはなんとなくわかる」というような特殊な状態をつくりだしている。

ごちゃごちゃにして語るというのは、特に、テクニックではない。これ、言っている本人が、明確に区別して考えてないから、そういうごちゃごちゃな話になる。

何度も言うけど、条件を無視して、「おカネがある」とか「おカネがない」という話をしてもしかたがない。そして、条件を無視して「おカネがある人はこういう人だ」とか「おカネがない人はこういう人だ」とか「おカネがある人はこういう性格をしている」とか「おカネがない人はこういう性格をしている」とかという話をするのは、もっともっと、無意味だ。

しかも、「おカネをえやすい人」と「おカネをえにくい人」について、語る場合は、どうしても、おカネをえにくい人をディスることになり、おカネをえやすい人をほめることになる。おカネのあるなしと、性格の話を結びけるのは、ほんとうに、よくない。これは、うちくだかなければならない妄想をつくりだしている。 

条件を無視して、「おカネと性格を結び付けて語るやつ」を見たら悪魔の協力者だと思っていい。

「やっと、そこかよ」「やっと、それかぁ」と思うことが多い。

 これから、いいことが起こるはずなんだけど、なぜか、ぼくのこころはブルーだ。まあ、なぜかではなくて、ネズミ問題やダニの刺されあと問題が、こころをブルーにしているのかもしれない。ともかく、おそい。スローモーションを見ているようだ。「やっと、そこかよ」「やっと、それかぁ」と思うことが多い。

それにしても、どうして、みんな、気がつかないの?

これも、もやもやした気持ちをつくるものなんだよなぁ。

ともかく、あんまり調子がよくない。ダニ刺されのあとが気になる。

2024年10月7日月曜日

カネがないやつは、カネをきたないと思っているからカネがないんだ

 「貧乏な人は、おカネがきたないものだと思っている。闇献金も、きたないおカネではない」というようなことを言う人がいる。

いろいろなことが混じっているんだよね。

これ、けっこうな頻度で言われることだ。

「おカネがない人は、おカネがきたないものだと思っている」「だから、おカネがないんだ」という意見だね。

これも、10ブロック、9ブロックの人が言うわけ。生まれたときから10ブロックにいる。生まれたときから9ブロックにいる。だから、自分たちは、おカネがきたないものだと思ってない。だから、おカネもちなんだという意見だ。

ロジックのねじれがわかるだろうか?

はっきり言えば、おカネかをきたないものだと思っているか、おカネをきれいなものだと思っているかということは、おカネをどのくらい持っているかということとは、関係がない。

1ブロックの人は、1ブロックに生まれたから、おカネがないし、おカネをかせごうにも、だいたい1割しか勝てないので、常におカネがなくてピーピー言っている状態だ。

10ブロックの人は、おカネがあるし、お金をかせごうとすれば、10割の確率で勝てるのである。9ブロックの人も、おカネがあるし、お金をかせごうとすれば、だいたい9割の確率で勝てるのである。

おカネがないとか、おカネがあるという状態のちがいをつくりだしているのは、どのブロックに生まれたかということだ。

おカネをきたないと思っているか、きれいだと思っているかは関係がないのである。

1ブロックの人は、おカネに関して、負のストーリーをもっているのである。おカネがなくて、くるしい思いをしたのである。おカネがなくて、くるしい思いをすれば、そのときの負の感情が、おカネという概念と結びつくことがある。なので、おカネは、きたないと感じることもあるわけだ。

けど、これは、おカネ自体ではなくて、おカネがないという状態がつくりだしたものだ。

「闇献金は、きたない」と言う場合の、「きたない」というのは、比喩的な意味で、「きたない」と言っているのである。しくみが、きたないわけでしょ。そして、そのきたないしくみによって、まわりまわって、自分が不利益をこうむっている。

だから、そういうことをまとめて、比喩的な意味で、「きたない」と言っているのである。

「政治家がやっていることがきたない。闇献金するほうも、やっていることがきたない」という気持が、込められているのである。不当なことをしているという気持がある。

……「きたない」という言葉には、そういう気持が込められている。

なので、これは、「おカネはきたない」という言葉に、かわりやすい。だって、そもそも、ブロックの格差が、おカネがないということからしょうじる、自分の不幸な体験をつくりだしているのだから、「おカネはきたない」と思ってもしかたがないところがある。そして、上ブロックの人たちが、不当におカネをえているのだから、「あいつらはきたないことをしている」という感情がうまれ、そのきたないことに関係したカネは、きたないカネだということになる。

闇献金をあたえる側と、もらう側がいて、社会制度がゆがめられているのだから、全体的には、きたないことをしているのである。

この構造にかかわるおカネは、この人たち(もらうほうと、あげるほう)によって、「きたないカネ」と表現されるカネになっているのである。

カネ自体には問題はなくて、行為が問題なのだし、そういう行為が伝統的に成り立っている構造も、問題だ。実際に、もらうほう政治家とあげるほうの人たちは、きたないことをしているので、その行為にかかるカネが「きたないカネ」と呼ばれてしまうのである。

あるいは、呼ばれてしまうだけのことなのである。

なので、その行為にかかわるカネがきたないものであるというのは、事実なのである。もちろん、これは、その行為にかかわるおカネが、物理的にきたないということではない。

しかし、これも、おカネが物理的にきたないと思っている人は、おカネがない(お金持ちになれない)というような話と、いっしょにされることがある。物理的なきたなさに関する話と、物理的ではなくて精神的にきたないという話が、ごっちゃになっている。あるいは、つねに、ごっちゃにされるようになっている。だから、「おカネがない人は、おカネがきたないものだと思っている」「だから、おカネがないんだ」と言う人は、自分が物理的なきたなさについて話をしているのか、精神的なきたなさについて話をしているかということを、峻別して話さなければならないのである。けど、つねに、ごっちゃにして話すのである。だから、この人たちが、まず物理的なきたなさについて語っているのか、あるいは、精神的なきたなさについて語っているのかを、はっきりさせなければならない。けど、はっきりさせることはないまま、ただ、なんとなく、言いたいことだけを言うということになってしまう。こういうやり方も、じつは、きたない。これは、話者のグレードによってちがうのだけど、無意識的にやっているやつと、意図的にやっているやつがいる。「やっている」というのは、この場合は、「ごっちゃにして話す」ということだ。無意識てな場合は、話しているほうが、物理的なきたなさと精神的なきたなさをわけて考えているわけではないので、聴いているほうも、わけて考えて聴くということが、むずかしくなる。あるいは、できなくなる。だって、話しているほうが、わかってないのだから、しかたがない。この話をしているやつらには、「カネのないやつらのせいにする」という意図がある。「カネがない理由は、おカネをきたないと思っているからだ」ということにしたいのである。ブロックの格差から目をそらさせるという、かくされた意図がある。ともかく、「カネがないやつは、カネをきたないと思っているからカネがないんだ。生まれの格差なんて関係がないんだ」ということにしておきたいのである。

*     *     *

あっ、そうだ。カネがきたないと思っているからカネがない」という話には続きがあった。「カネがきたない」と思っているからカネがないわけだから、カネがきれいだと思えば、カネがはってくるようになるのである。ところが、これが、嘘。カス方法。まったく役に立たない、くそ方法なのだ。言っておくけど、カネがないのは、きたないと思っている「から」ではない。だから、きたないと思わなくても、カネがない状態はかわらない。きれいだと思ってもカネがないとい状態に、なんの変化もない。ただ、抑圧ブロック構造には鈍感になるだろう。自分の「思い」をかえるだけで、カネのあるなしを、自由に操作できる気持ちになるからだ。ところが、自分の思いをかえても、カネなんて、入ってこないのである。入ってくるしくみがなければ、入ってこない。ブロックごとに勝率が決まっているなら、だいたい、その勝率でしか勝てない。勝てないという状態は、「思いよう」ではどうにもならない。

*     *     *

これ、思霊や言霊とつながっているんだよ。ほんとうに、きたないやつらだな。こうやって、人をだまして、抑圧構造に対して鈍感にさせる。ほんとうは、格差をうみだす構造が問題なんだよ。最初から、格差があるから、差がある。おカネがある人と、おカネがない人の差がある。もちろん、現実社会は、おカネだけではなくて、その人の能力や容姿も関係しているので、能力や容姿で、うえのほうに行く人たちも(たしょうは)いる。けど、それは、最初にあたえられた格差の「ちから」よりも、ちいさな「ちから」だ。まあ、ブロックで言えば2ブロック分ぐらいは、上にあがれるかもしれないけど、9ブロック分、うえにあがることができないようになっている。まあ、3ブロック分以上はむりかな。そんな感じだ。でっ、あがるときの圧力というのが問題になる。これは、「負の圧力」だ。たとえば、1ブロックのやつが2ブロックにあがるなら、ほかの1ブロックのやつを、押しのけてあがらなければならなくなるのである。押しのけると言ったけど、どつきまくるという場合もあるだろ。その場合、どつかれたほうは、おもしろくないのである。どつかれたほうには、うらみの感情がしょうじる。どついたほうは、まったく気にしないということになる。そりゃ、気にしてたら、うえに行けないだろ。だから、「負の圧力」がうまれることになる。けど、まあ、ぼくのモデルだと、ブロック間の移動はできないことになっている。現実社会について、たしょう考えるならそういうところがあるということだ。

*     *     *

言霊、思霊、「カネがないやつは、カネをきたないと思っているからカネがないんだ」という考え方……全部、社会構造は無視して、自分の気持ちだけ集中して、状態をかえようとする考え方だ。社会構造を無視しているので、無理がある。自分の気持ちだけで、自分の状態がどうにかなるなら、みんなそうしている。社会構造がうみだす力のほうがおおきくて、なかなか、自分の気分をかえても、状態がかわらないから、こまっているんじゃないか。そういうところを、無視しているのである。あるいは、ニセの解答を教えてあげて、(その人を)悪い方向に引っ張っている。全部、嘘。最初から、理論的にまちがっている。妄想理論。

ネットスーパーの注文をした

 昨日、熱湯消毒をしたあと、洗濯機で、洗濯をした。二回も、洗濯機をまわしてしまった。昨日の夕方に洗濯が終わったので、今日は、干さなければならない。

干した。けど、掛布団シーツはまだ、外に干してない。まだ、部屋のなかにある。どうしてかというと、一回に干せる量が決まっているからだ。まず、普通のものを干して、回収したあと、あとで、掛布団シーツだけ、干すことにする。けど、明日は、雨なんだよなぁ。予報だけどさ……。これは、あたる感じがする。

*     *     *

いちおう、ネットスーパーの注文をした。今日の、午後6時から、午後8時にうけとる予定だ。これも、正直言って、めんどうくさい。けど、まあ、いくらをゲットする予定だ。ひさびさに、いくらを食べたくなった。冷凍庫(冷蔵庫の冷凍室)が、霜でいっぱいなので、どうにかしなければならないと思っているのだけど、あけられるときがないので……つまり、冷凍食品がはいってないときがないので……なかなかむずかしい。

ほんとうは、小さい冷凍庫がほしい。安い。買える。けど、置き場所がこまるんだよなーー。ネズミダニ問題がなければ、そんなことでは、こまらないと思うのだけど……。


2024年10月5日土曜日

雑感 後で消す

 白が黒に対して、すでにやったことがあるとする。あるんだけど、そのことに関しては、黒は情報をもっている。だから、インテルがある程度、ばらすことがある。けど、これは、インテルがバカにされるように言っているだけだ。ほんとうの情報を、言うには言うけど、バカな情報を盛り合わせて言うので、ほんとうの情報まで、バカな情報だと(一般人に)思わせることができるのだ。いつもの手口だ。基本的には、白は、白で、動いている。インテルが言っていることとは、まったく関係がない。けど、黒は、知っている部分かあるので、それについて、ばかばかしく聞こえる情報を、ばかばかしいやり方で開示しているだけだ。インテルは、一般人にバカだと思われてなんぼのものなのである。そりゃ、黒は、白についての情報をもっているから、ある程度、わかる部分もあるのだけど、基本的には、白は、インテルが言っていることとは、まったく関係なしに動ているのである。だから、ネサラゲサラも黒のインテルが言っているようなかたちでは、ないし、EBSも、黒のインテルが言っているようなかたちでは、ない。ありえない。これ、ネットに出ているインテルはみんな、黒なのである。情報撹乱と、一般人に対する逆方向の洗脳が、彼らの仕事だ。そして、かなり統制されているのである。ネサラゲサラもEBSも、インテル側のアイディアなのである。個別のインテルじゃなくて、インテルに情報を出している人たちのアイディアだ。

たとえば、現実的な線で減税はあるのだけど、だから、ネサラゲサラが実行されたのかというと、そうではないのである。大学までの教育を無償化したとしても、それは、ネサラゲサラとは、まったく関係がないことなのである。

 

雑感

 白の計画が終わったら、遊びまくろうと思う。遊ぶというか、まあ、いろいろなところに行ってみようと思う。まあ、いままでの人生で、あんまりやらなかったことを、やるつもりだ。けど、まあ、それにもあきるだろう。あきたらあきたで、やりたいことが出てくるはずだ。だいたい、研究と創造はやり続けるからね。ともかく、いろいろなところに行ってみたいなぁ。

雑感

 しかし、まあ、個人的にはどうしようかな?

体がだるい。ともかく、はやくしてほしい。けど、のろのろなんだろうなぁ。 


雑感

 白の邪魔はしたくない。簡潔に言うと、やはり、ネサラゲサラはないし、EBSはない。けど、たとえば、インターネットのありかたがかわるんだよ。それから、告知はある。告知はあるけど、EBSはないし、ネサラゲサラはないけど、インターネットのありかたがかわる。

アンド回路思考とオア回路思考については、書いたけど、読んだ人はいるかな? まあ、下書きにもどしてしまったけどね。法律や制度に関する限り、オア回路思考で話をしてはいけない。

 

どうするかな?

 さて、どうするかな? いろいろと、どうするかな? 社会の動きについては、だいたいのことがわかったし、白が究極的に目指しているものについては、わかったのだけど、しかし、どうするかな? なまみのぼくは、どうするかな~~?

エクソソームは目に見えないしなぁ。

見えないダニがいるしなぁ。

粗大ごみ業者の人が、ダニに刺されるのはいやなんだけど、確率を0%にはできないんだよね。どうしても、作業をするとなると、かなりの高確率で刺されることになると、思う。まあ、いやなら、引き受けないという手もあるわけだしなぁ。ビニールレインコート(上)を提供してあげてもいいけど、いやがるかもしれない。あとは、作業をする人が、ものすごくでかい人の場合は、あのビニールレインコートは着れないかもしれない。このあいだは、すごくでかい人がきた。

どうするかな?

いまの状態だと、どこをかたづけるにしろ、ダニに刺される可能性があるんだよな。

眠りたい。

 はやく、しあわせな気持で、眠りたい。

ものすごく、不愉快な出来事を思い出したりする。ほんとうに、家族がきちがいだと、全部がボロボロになる。いやなことばっかりだったなぁ。


2024年10月4日金曜日

スローモーション

 もう、ほんとうに、スローモーションを見ているようなんだよなぁ。ほんとうに、展開がおそい。100分の1倍速スローモーションだ。

結果が、わかった。そこまでの道筋も、だいたい、わかった。あとは、実行されるのをまっているだけなんだけど、つらい。実生活は、つらいからなぁ。そりゃ、いままでの延長線上にあるのだから、つらいに決まっている。ともかく、はやくしてほしい。

どのみち、ぼくは、勝つ

 いまは、あんまりいい状態ではないけど、どのみち、ぼくは、勝つ。もう、決まっている。もう、決まっているんだよ。

目がいたい

 目がいたい。これは、だいたい、あの蚊取り線香事件のあとから、はじまっていたんだけどなぁ。けど、蚊取り線香事件のあと、郵便物・ポスティング物の処理をしたとき、また、かゆくなったんだよなぁ。ほうっておけぱなおるかと思っていたのだけど、なんか、今日はひどい。実際、調子がいいときは、なおっていた。だったら、昨日の夜、ダメになったと考えられるのだけど、昨日の夜は、特になにもやってない。ともかく、あの事件のあと、断続的に目が悪くなっているんだよね。なおったり、悪くなったりしている。ずっと調子がいいわけじゃない。あるいは、窓をあけて、外の空気をなかにいれたとき、花粉みたいな感じで、いろいろな粒子がとんできて、悪くなったのかもしれない。けど、右目がおかしい。左目は、だいじょうぶだ。

2024年10月3日木曜日

上の人たちによって、洗脳されて、圧力をうみだす側になっている。

 精神世界の人たちは、社会をよくしようと思っているのだけど、じつは、精神世界の人たちが、抑圧構造のなかで、圧力をうみだす「道具」になっている。まあ、上の人たちによって、洗脳されて、圧力をうみだす側になっている。

精神世界の人たちだけではなくて、プラグマティズムの影響をうけた人は、精神世界の人たちとおなじようなまちがいをおかし、精神世界の人たちとおなじような存在になっている。ようするに上の人たちによって、洗脳されて、圧力をうみだす側になっている。

*     *     *

ビジネス系……プラグマティズム、自助論、努力論、自己責任論、認知療法、行動療法、認知行動療法、行動主義心理学、アドラー心理学、日本労働教的な労働観

精神世界系……言霊、思霊、引き寄せ、すべて感謝主義、受け止め方主義

共通点は、生まれの条件をガン無視すること

共通点は、構造的な問題を個人の問題にすりかえてしまうこと

じつは、こういう精神世界的な考え方が、抑圧構造をうみだしている。

 ぼくは、ここで「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というような考えたを批判しているわけなのだけど、これには理由がある。じつは、こういう精神世界的な考え方が、抑圧構造をうみだしている。これ、生まれの条件が悪い人を抑圧するための道具なのだ。精神世界的な考え方が好きな人は、本人の意思とは関係なく?抑圧構造に貢献して、圧力をうみだしている。ようするに、精神世界的な人が増えれば増えるほど、社会が悪くなっていくのであるる。社会の圧力が、よけいに高くなるのである。この社会の圧力というのは、よくない圧力だ。

条件の差を無視して、へんなことを言うな!

 精神世界の人と、条件が悪い人の相性が悪すぎる。条件が悪い人というのは、生まれの条件が悪い人だ。1ブロックと2ブロックのちがいについて話したけど、精神世界の人が、たいして、めぐまれていない条件だったとしても、生まれの条件がものすごく悪い人よりは、ましなのである。そして、この世で生きていると、それは、つらいことがある。生まれの条件がわいる人よりも、めぐまれてている人だって、生きていれば、つらいことがある。だから、別に、生まれの条件が悪い人以外の人が、つらいことを経験したことがないということを言っているわけではないのである。しかし、生まれの条件が悪い人は、性格が極端に悪い家族にかこまれているので、条件が悪い状態が長く続くことになるのである。じゃあ、まあ、性格が極端に悪い家族のことを、きちがい的な家族と言ったとしよう。きちがい的な家族のもとにうまれた人は、生まれながらに条件が悪い人だ。生まれたときだけではなくて、成長しているあいだ、ずっと、条件が悪いのである。それは、きちがい的な家族が、きちがい的なことを仕掛けてくるからだ。きちがい的な家族が、きちがい的な行動をするからだ。どうしたって、影響をうける。影響をうけないですませるということができない。けど、これだって、影響をうけないことは可能だ」と精神世界の人は言うわけである。「すべては受け止め方の問題だから、影響をうけないことは可能」なのである。「すべては受け止め方の問題だ」ということについて、批判されれば、「自分だってつらい思いをした(ことがある)」と言いかえしてくる。ほぼ、100%の確率で、こいつらは、こういうふうに言いかえしてくる。けど、きちがい的な家族のもとにうまれてきた人と、きちがい的な家族のもとにうまれてこなかった人では、ものすごい、差がある。差があるんだ。しかし、精神世界の人は、その差を、認めない。「自分だって苦労した」「すべては受け止め方の問題だ」「明るいことを考えれば明るいことが起こる」「暗いことを考えたから、ダメなんだ」と言ってくる。こいつらは、条件を無視して、無理なことを言ってくる。「きちがい家族の影響をうけないことは可能だ」というのも、無理なことのひとつだ。こいつらの言っていることは、すべてがすべて、こういう調子だ。条件の無視。無理難題。こいつらは、もうちょっと、まともに、現実を見たほうがいい。

ともかく、条件の差がある。条件の差を無視して、へんなことを言うな!

ともかく、条件の差がある。条件の差を無視して、無理なことを言うな!

 

大根は、そろそろ使わないとだめなんだよな

 昨日まで、ボロボロだったんだけど、今日は、ちょっと復活している。これから、大根を切るつもりなのだけど、大根を切るという力がなかったんだよね。まったくやる気がしなかった。けど、今日は、大根を切るつもりになっているので、ちょっとはちがうのだろう。

大根を切って、まあ、大根と肉の味噌汁をつくろうと思っている。あとは、カット野菜を投入することにした。カット野菜はいろいろと問題があるので、使うのをさけてきたけど、「ない」よりはましかなと思って使うことにした。ぼくのような人間だと、カット野菜を買っておいて、カット野菜をくさらせてしまうということがあるわけなんだよね。カット野菜は、いろいろな処理がしてあるので、問題がある。たぶん、処理の問題が、添加物のような問題になってる。処理された野菜をくって、だいじょうぶなのかなとも、思うけど、どうしても、野菜を切りたくないときがあるので、いちおう、買っておこうかなと思っている。

大根は、そろそろ使わないとだめなんだよな。だから、使う。大根を入れるなら、別にカット野菜を追加して入れる必要はないのだけど、気分で、入れる。

ボロボロにつかれているときは、ほんとうに動きたくない。動けない。でっ、あんまり言いたくないのだけど、動けない時間がけっこう長い。布団に「うちつけられた」ような状態で眠っている。これも、眠っていればいいのだけど、横になったまま起きている場合がある。横になっている時間が、いい時間であればいいのだけど、横になって時間が、くるしかったりする。くるしい状態で横になっているのは、くるしい。トートロジーなんだけどね。

まあ、ともかく、野菜を切れるところまで復活した。

2024年10月2日水曜日

ガタがきてこまっているのに、さらに、よけいな用事を頼まれてしまったのとおなじ状態

 まず、「おまえの身に悪いことが起こっているのは、おまえが悪いことを考えているからだ」とダメ出しをするのである。

そして、まったく役に立たないばかりか、むしろ、有害なことを教えるのである。し

かし、有害なことを教えたとは思ってないのである。

この条件というのは、見えない条件ばかりなので、実際に、その人……助言の対象となる人……本人……の身になって生活してしみないとわからないということが、いっぱいある。

どういう強さの条件が、どの程度の数、成り立っているかということが、他人にはわからないのである。だから、他人というものは、その人……助言の対象となる人……本人……に成り立っている強い条件を無視してしまう。

そして、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」とアホなことを言う。

しかし、悪い条件が複数、成り立っている状態で「明るいことを考える」と、逆に「暗いことが起こる確率」が高くなるのである。

「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と助言をする人たちは……「自分のこととして考える」ということがない人たちなので、それは、対象者に成り立っている多数の条件なんて、無視だ。

「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と他人に言う人たちは、他人のことを自分のこととして考えることがないので、無理なことを言えるのである。「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と他人に簡単に言える人は、他人の条件について、考える力が非常に弱い。相手の表面しか見えない。相手の条件は、無視している場合が多い。

これは、助言される人に、圧力が加わったということだ。助言される人は、誤情報を教えられたということだ。誤情報であるということは、ほかのところで述べている。「明るいことを考えれば明るいことが起こる」というのは、妄想なのである。基本的にはまちがった情報だ。誤情報だ。

そもそも、わるい状態で暮らしている人は、ぎりぎりの無理をしている。そういう状態で、圧力をかけられたらどうなるか?

ストスレ対抗でいっぱいいっぱいになっているのに、さらにがんばるということになる。いっぱいいっぱいで、いろいろなところに、ガタがきてこまっているのに、さらに、よけいな用事を頼まれてしまったのとおなじ状態になる。

たとえば、「明るいことを」を無理や考えたことにより、悪いことが発生したって、そんなことは、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と言った人は、まったく気にしない。もともと、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と簡単に言う人は、自分勝手な人で、幼稚な人なので、相手がこまるというとは、認めない。幼稚と言ってしまったけど、これは、幼児的万能感に支配されているということだ。

くるしい状態で明るいことを考えるということが、どれだけ、無理なことか、ぜんぜんわかってないのだ。くるしい状態といっても、まあ、種類がある。程度の問題がある。質の問題がある。「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と言う人は、相手の条件を無視して、相手の状態を無視して、幼児的万能感に支配されたことを言うので、たちが悪い。

まあ、はげしく、つらい状態で、「明るいことを考える」ということが、どういうことなのかわかってないのである。そんなのは、考えられるはずがないのである。そして、もし、考えるとしても、からだの状態を無視して、無理やりに「明るいことを想像する」ということだから、むなしさがつきまとうことになるのである。「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と言う人たちは、明るいことを考えられる状態しか想定してない。

いたくて、いたくてたまらないときに、「明るいこと」を考えてもしかたがないのである。いたくて、いたくて、たまらないときに、「明るいこと」を考えたって、いたさで、その「明るいこと」は消えてしまうだろう。

くるしいときも、おなじなのである。めちゃくちゃにくるしいとき、「明るい」ことを考えたって、なんのなぐさめにもならない。そもそも、考えることができない。

たとえば、きちがい的な騒音が鳴っている状態で、「明るいこと」を考えても、明るいことは、消滅して、怒りが沸き起こってくるのである。「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と言う人たちは、明るいことを普通に考えることができるよゆうがある状態しか、想定してない。

けど、そういう状態でないときがある。そして、複数の悪い条件が重なった場合は、明るいことを普通に考えることができない状態なのである。これを無視するな。

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「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と言う人について考えてみよう。

まず、「暗いことを考えると暗いことが起こる」というのは、事実、くるしい状態の人をせめている言葉なのだ。暗い出来事が発生してくるしんでいるのは、「おまえが、過去のある時点で、暗いことを考えたからなのだ」という考え方がある。「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と言う人は、相手の現在の状態について、そう考えているのである。

「おまえの身に悪いことが起こっているのは、おまえが悪いことを考えているからだ」とダメ出しをしてしまう時点で、この人は、相手のことをまったく考えてないということがわかる。

この人というのは、「おまえの身に悪いことが起こっているのは、おまえが悪いことを考えているからだ」とだれかに言った人のことだ。

「おまえの身に悪いことが起こっているのは、おまえが悪いことを考えているからだ」ということは「おまえの身に暗いことが起こっているのは、おまえが暗いことを考えているからだ」ということに置き換えることができる。

こんな、アホな決めつけをして、他人を攻撃している人が、他人の状態について深く考えられる人であるはずがない。

他人の状態についてまったく考えることができな人だから、幼稚な考えにしたがって、「暗いことを考えたから、暗いことが起きたんだ」と決めつけてしまう。

この発言をしているときは、相手の条件なんてまったく考えてないんだよ。

そして、「(自分が)相手の条件をまったく考えてないということ」について無自覚なんだよ。

「条件がいいと、明るいことが起こりやすくなり、条件が悪いと暗いことが起こりやすくなる」

 「明るいことを考えると、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方は、

すでに、くるしい思いをしている人を、さらにくるしめる。

条件が、「苦しい状態」をつくりだしている。条件が、その人にとって「苦しい世界」をかたちづくっている。環境だ。条件だ。人によって、条件がちがうのである。「どんなうちにうまれたか」ということも、条件のひとつだ。

そして、この条件は「本人にはどうすることもできないこと」である期間が長い。

そして、いわゆる、密告による救済だけど、これが救済になってないのだ。つねに、建前とは、逆のことがおこなわれると考えたほうがいい。だから、社会的な救済はないと言っていい。

条件が悪い人には、いろいろと不愉快な出来事が発生するようになっているのである。条件がいい人には、いろいろと、楽しい出来事が発生するようになっているのである。

条件が悪い人は「運が悪い」と表現されることが、たびたび起こるようになっているのである。条件がいい人は、「運がいい」と表現されることが、たびたび起こるようになっているのである。

条件が、出来事の質を決めてしまっている。そして、「不可避である」部分がある。ところが、他人の条件を無視してしまう人は、他人に対して、「さけられることだ」と言ってしまう。しかし、助言される側の人間にとっては、さけられないことである場合が多い。

そりゃ、他人の……詳細だが頑丈な条件は、なかなか見えないところがあるので、「さけられることだ」と言ってしまう。

条件について言われれば、条件の概要は理解できるはずだと思ってる鈍感な人たちがいるけど、ほんとうは、条件について言われても、鈍感な人たちが、(対象となる人の)条件を無視してしまえば、助言をされる側の条件は、助言をされる人に影響をあたえてないことになってしまうのである。

鈍感な人たちは、他人の条件について、考え違いをしてしまうのである。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、助言をする側だとする。Bさんは、助言をされる側だとする。

Bさんにとっては、不可避な条件なのだけど、鈍感なAさんにとっては、他人の話だから、Bさんの条件は不可避な条件には、見えないのである。

Aさんは、Bさんの条件を簡単に回避できるような条件だと思ってしまうのである。

ところが、Bさんにしてみれば、回避不可能な条件なのである。そして、条件からしょうじる「わるいこと」も回避不可能なのである。

この回避不可能性について、軽く見る人たちがいる。

ともかく、Aさんのような能天気な人たち、Aさんのような鈍感な人たちにとってみれば、他人の深刻な出来事は、たいして深刻な出来事ではないのである。そして、深刻な出来事をもたらす条件は、たいした条件ではないのである。

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冒頭にもどると、 「明るいことを考えると、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」いうのは、真っ赤な嘘だ。

ほんとうは「条件がいいと、明るいことが起こりやすくなり、条件が悪いと暗いことが起こりやすくなる」だけなのである。

だから、条件が悪いと、どれだけ明るいことを考えても、なかなか明るいことが起こらないということに直面することになる。条件の悪い人は、どれだけ明るいことを考えても、明るいことが発生せず、暗いことが起こり続けるということになる。

それは、悪い条件が、暗いことを発生させるのだから、条件がかわらない限り、高い確率で、暗いことが起こり続けるのである。

ところが、それを、「暗いことを考えているからダメなんだ」と、悪い条件の人のせいにする人たちが、あらわれる。

精神世界の人たちだ。

精神世界の人たちというのは、基本的に、幼児的万能感が捨てきれない人たちだ。幼児的万能感に強く支配されている人たちだ。

だから、基本的な思考が、幼児的万能感によって支えられた思考になる。その思考を、「悪い人たち」によって使われ、簡単に洗脳されてしまう……。

えらそうなことを言って、もともと、条件が悪い人のことを、言葉でいじめているのである。条件が悪い人に、『負のストローク』をあたえているのである。もちろん、悪気はない。ほんとうに、相手のことを考えるのが、苦手なだけなのである。

2ブロックの人は、1ブロックの人よりも、めぐまれている

 2ブロックの人は、1ブロックの人よりも、めぐまれている。 2ブロックの人は、1ブロックの人よりも、条件がいい。

だから、たとえば、2ブロックの人は1ブロックの人には、説教できるので、「上の人が洗脳用に用意した文言」を1ブロックの人に言うわけ。

たとえば、「努力をすれば成功する」とか「明るいことを考えれば明るいことが起こる」というようなことを言う。

2ブロックの人は、1ブロックの人よりも勝てるわけ。実際、勝てるわけ。

だから、2ブロックの人は1ブロックの人に対しては、えらそうなことを言ってもいいと思っている。

他人に「洗脳用の考え方」をおしつけてもいいと思っているわけ。

「洗脳用の考え方」は、ほんとうは、いいように、おしつけられたものなのだけど、「自分で考えて、自分で正しいと思ったから、選択した」とそういう人たち……単純な人たち……だまされやすい人たち……洗脳されやすい人たちは、考えているわけ。

だから、「自分」では、宗教的なことや、常識的なことは、うたがいようがないことだと思っているわけ。

けど、「上の人が洗脳用に用意した文言」というのは、理論的には破綻している。だまされやすい人や洗脳されやすい人は、「上の人が洗脳用に用意した文言」というのは、理論的には破綻しているということに、気がつかない。

 

だから、一見「もっともらしそうなこと」には注意が必要だ。

 上のやつらが、努力論をはやらすと決めたら、努力論がはやることになっているのである。上のやつらが、自己責任論をはやらすと決めたら、自己責任論がはやることになっているのである。

ブロックで説明してきたけど、10ブロックより上のブロックがあるとすると、こういうことをはやらせるということを決めるブロックは、10ブロックより上のブロックだ。

10ブロックは、そいつらが決めたことの恩恵を受けるブロックだ。9ブロックもおなじだ。10ブロックや9ブロックの上位ブロックは、楽なのである。

「常識」や「下位ブロックの人が信じていること」が、彼らに優位に働くのだ。

努力論だって、下位ブロックの人が信じてくれると、上位ブロックの人はやりやすくなる。上位ブロック人が、どんどん利益をえるということになる。そういうしくみが成り立っている。

「そういうしくみ自体に、文句を言わないようにする」というのが重要なことだ。

上位ブロック、中位ブロック、低位ブロックのすべての人が、「そういうしくみ自体」に文句を言わないようにするのだ。彼らは、中位ブロック、低位ブロックの人が、文句を言わないように洗脳する。

自己責任論だって、「そういうしくみに文句を言わせないようにする効果」がある。

そりゃ、上位ブロックの人は、文句を言うはずがないので、中位ブロック、下位ブロックの人が文句を言わないようにするということは重要なことだ。

中位ブロック、下位ブロックの人が文句を言わないような思想をふりまいておくのである。「その思想が正しい」と中位ブロック、下位ブロックの人たちを洗脳しておくのである。だから、一見「もっともらしそうなこと」には注意が必要だ。

いつも読んでくださるかたに感謝しております



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