「自分の身のまわりを見ると、高いスマホを使っている人はみんな仕事ができるし安いスマホを使っている人は、仕事ができない。高いスマホを使えば、仕事ができるようになる」というようなことを、他人をだまして自分が利益をえたい人が、言ったとする。
安いスマホを使っている人が、高いスマホを買って、高いスマホを使えば、仕事ができるようになるかというと、そうではない。
だいたい、まあ、「自分の身のまわりを見る」という言葉で、保険をかけている。突っ込まれたら、「『自分の身のまわりを見ると……』と言っているでしょ」と言って逃げることができる。
けど、まあ、「高いスマホを使っている人はみんな仕事ができる」というような印象をあたえることができる。
因果関係について考えない人は、ころっとだまされてしまう。因果関係について考えたほうがいい。
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たとえば、安月給の人が、きたないクレジットカードを使っているとする。この人がつとめている会社をかえないで、なおかつ、副業をしないで、おカネをもうけるのは、かなりむずかしい。
ようするに、高収入になれない。
もちろん、その会社で、ちょっとでもいいから出世するという方法もあるかもしれないけど、いまは、ちょっときついんじゃないかなぁ。
おカネが流れてくるパイプというものがあるとする。そのパイプをかえないと、なかなか、おカネが流れてくる量がかわらないのではないかということだ。
そして、たとえば、この安月給の人が、きれいなクレジットカード使えば、運があがって、おカネもちになるかというと、そうではないだろう。
まあ、きれいなクレジットカード使いはじめたら、宝くじに当たって、おカネもちになったというようなストーリを考えることもできる。あるいは、そういうことが、現実世界で起こる確率はゼロではないので、そういう人もいるかもしれない。
しかし、きれいなクレジットカードを使ったから、運がよくなって、宝くじが当たったわけではなくて、きれいなクレジットカードを使ったあと、たまたま、宝くじが当たっただけなのだ。
じゃあ、運をよくして、宝くじを当てるために、わざわざ、きれいなクレジットカードを使うようにした人のうち、どれだけの人が、宝くじを当てることができるのか?
「あと」なのか「から」なのか? それが問題だ。
これは、「あと」だ。
「から」じゃない。
きれいなクレジットカードを使えば、運がよくなって、宝くじが当たるようになると思っている人は、「あと」と「から」の区別がついてない。「から」じゃないので、宝くじが当たる確率はかわらない。
「運がよくなって」という言葉に、まどわされてはいけない。
そうすることによって、宝くじが当たる確率があがるのかどうかということを考えなければならないのである。
きれいなクレジットカードを使うことは、当たる確率にまったく影響をあたえない。当たる確率をまったくかえないものに、期待したってむだ。
ともかく、この世では、原因と結果を言い換えることがはやっていて、「あと」と「から」を混同することが、はやっている。どうしてなのかというと、信じやすい人をだますためだ。
原因と結果を言い換えているやつらは、それでおカネをもうけているのである。だまされたやつが、いらないものを買って、損をしているのである。
まあ、そういうことだ。
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「原因と結果を言い換えているやつらは、それでおカネをもうけている」と書いたけど、たとえば、運があがると思っている人だって、おなじことを言う。
運があがると思っている人は、だます側のカモネギだ。
だから、運があがると思っている人であって、なおかつ、それで商売をしていない人は、利益をえているわけではない。だから、ただ単に、他人に対して「原因と結果を言い換えたこと」を言う人は、別に、悪意があって、他人をだまそうとしているわけではない。
しかし、「原因と結果を言いかえる思考」になれてしまうと、次々に、だまされるようになるので、注意が必要だ。
ようするに、利益をあげるほうも、原因と結果を言いかえた話をするし、利益をえない人も、原因と結果を言い換えた話をする。
これは、教祖と信者の関係が成り立っている。だから、別に「高いスマホを使えば、運がよくなって、収入があがる」と思っている人が、「原因と結果を言い換えること」によっておカネをもうけているわけではない。
もし、「高いスマホを使えば、運がよくなって、収入があがる」と思って、高いスマホを買った人がいたとすると、その人は、だます側の人ではなくて、だまされる側の人だ。
ようするに、教祖側の人は、利益をえているけど、信者側の人は、利益をえてない。
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基本的には、教祖側の人というのは、それで商売をしている。だから、高いスマホをもつことによって運をあげて、おカネをもうけたわけではなくて、カモネギに、高いスマホを買わせることによって、運をあげて、おカネをもうけた人だ。
「運をあげて」と書いたけど、別に、運をあげてという言葉をぬかしても、そのまま、おなじことが成り立つ。
原因と結果を言い換えた話にだまされるほうも、だされるほうだけど、だますほうは、そのぶんだけ、運が悪くなっているのではないかと思う。
けど、それは、ぼくの特殊な考え方で、だまされた人も含めて、だました人は、運がよくなると思っているのである。
もちろん、これが、明言されることはないのだけど、原因と結果を言い換えるような思考方法になれていると、だれが、善人で、だれが悪人か、まったくわからなくなってしまうので、だまされた人間は、だます人間を善人だと思ってしまうのである。
それも、けっきょく、そのぶんだけ、運が悪くなったのではないかと、ぼくは思うけど、だまされている人は、そうは思わない。
ほんとうに、教祖と信者の関係が「うすく」成り立っている。原因と結果を言い換えて、嘘をつき、ものを買わせるなんて、悪いことだと思うけどなぁ。そして、運をさげることだと思うけどなぁ。
信者も、ほかの人には、えらそうに、説教をするのだ。「原因と結果を言い換える」思考方法になれている人は、たとえ、おカネがもうからなくても、教祖が言ったことを、ほかの人に、言う。
特に、実際にやったあと、いいことが起こったという場合は、注意が必要だ。「あと」と「から」の区別がついていない人だから、真実だと思ってしまう。
たとえば、「高いスマホを使うと、運がよくなって、収入があがる」という話を教祖から聞いた人がいるとする。まあ、信者だ。その人が、実際に高いスマホを使ったあと、収入があがるということが発生したとする。
その場合は、その人は、「高いスマホを使えば、運がよくなって、収入があがる」ということを信じてしまう。もっともっと、強く信じてしまう。この話は真実だと確信してしまう。
けど、真実ではない。嘘だ。
こういう人は、ほかの人に言いことを教えてあげようと思って、「高いスマホを使えば、運がよくなって、収入があがる」と、ほかの人に言うようになる。この人は、別に、それでおカネをもうけているわけではない。
だから、これは、おカネのためにやっていることではない。
しかし、教祖の役には立っているし、嘘をひろめてしまっている。はたして、運がよくなる行為をしているのだろうか?
運が悪くなる行為をしているのだろうか?
あるいは、運なんてまったく関係がない行為をしているのであろうか?
たとえば、信者の話を聴いて、高いスマホを買った人が、おカネがない状態のままなのであれば、「運があがらなかったじゃないか」というような気持ちはしょうじるだろう。高いスマホを買ったあと、よけいにおカネにこまるようなことがあるかもしれない。
その場合はどうなのだろうか?
やすい月給なのに、リボ払いで高いスマホを買ったら、よけいに貧乏になって、くるしい状態になってしまうではないか。高いスマホを買ったことによって、運があがっているのに、よけいに、くるしい状態になるのか?
運というのは、じつは、関係がない。運というのは、ジョーカーワード(マジックワード)だ。なんとだって言える。
けど、運がいいとか運が悪いとか、運があがるとかうんがさがるという言い方はある。ぼくは、運というのは官界系がないという立場にたっているので、運があがるとか、さがるというのは、関係がないことだと思っているけど、彼らの流儀にあわせて言えば……高いスマホを買ったことによって、支払いがくるしくなり、生活の余裕がなくなり、運がさがっていると言えなくはない。
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あと、「高いスマホを使うと、運がよくなって、収入があがる」ではなくて、ほんとうは「高いスマホを使うと、運がよくなって、収入があがる」と(彼らは)言いたいのだよ。
彼らは……。だますために、「高いスマホを使うと」と言っているけど、彼らが、対象者に、ほんとうに求めているアクションは、「高いスマホを買うこと」だ。