「明るいことを考えると、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方は、
すでに、くるしい思いをしている人を、さらにくるしめる。
条件が、「苦しい状態」をつくりだしている。条件が、その人にとって「苦しい世界」をかたちづくっている。環境だ。条件だ。人によって、条件がちがうのである。「どんなうちにうまれたか」ということも、条件のひとつだ。
そして、この条件は「本人にはどうすることもできないこと」である期間が長い。
そして、いわゆる、密告による救済だけど、これが救済になってないのだ。つねに、建前とは、逆のことがおこなわれると考えたほうがいい。だから、社会的な救済はないと言っていい。
条件が悪い人には、いろいろと不愉快な出来事が発生するようになっているのである。条件がいい人には、いろいろと、楽しい出来事が発生するようになっているのである。
条件が悪い人は「運が悪い」と表現されることが、たびたび起こるようになっているのである。条件がいい人は、「運がいい」と表現されることが、たびたび起こるようになっているのである。
条件が、出来事の質を決めてしまっている。そして、「不可避である」部分がある。ところが、他人の条件を無視してしまう人は、他人に対して、「さけられることだ」と言ってしまう。しかし、助言される側の人間にとっては、さけられないことである場合が多い。
そりゃ、他人の……詳細だが頑丈な条件は、なかなか見えないところがあるので、「さけられることだ」と言ってしまう。
条件について言われれば、条件の概要は理解できるはずだと思ってる鈍感な人たちがいるけど、ほんとうは、条件について言われても、鈍感な人たちが、(対象となる人の)条件を無視してしまえば、助言をされる側の条件は、助言をされる人に影響をあたえてないことになってしまうのである。
鈍感な人たちは、他人の条件について、考え違いをしてしまうのである。
たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、助言をする側だとする。Bさんは、助言をされる側だとする。
Bさんにとっては、不可避な条件なのだけど、鈍感なAさんにとっては、他人の話だから、Bさんの条件は不可避な条件には、見えないのである。
Aさんは、Bさんの条件を簡単に回避できるような条件だと思ってしまうのである。
ところが、Bさんにしてみれば、回避不可能な条件なのである。そして、条件からしょうじる「わるいこと」も回避不可能なのである。
この回避不可能性について、軽く見る人たちがいる。
ともかく、Aさんのような能天気な人たち、Aさんのような鈍感な人たちにとってみれば、他人の深刻な出来事は、たいして深刻な出来事ではないのである。そして、深刻な出来事をもたらす条件は、たいした条件ではないのである。
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冒頭にもどると、 「明るいことを考えると、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」いうのは、真っ赤な嘘だ。
ほんとうは「条件がいいと、明るいことが起こりやすくなり、条件が悪いと暗いことが起こりやすくなる」だけなのである。
だから、条件が悪いと、どれだけ明るいことを考えても、なかなか明るいことが起こらないということに直面することになる。条件の悪い人は、どれだけ明るいことを考えても、明るいことが発生せず、暗いことが起こり続けるということになる。
それは、悪い条件が、暗いことを発生させるのだから、条件がかわらない限り、高い確率で、暗いことが起こり続けるのである。
ところが、それを、「暗いことを考えているからダメなんだ」と、悪い条件の人のせいにする人たちが、あらわれる。
精神世界の人たちだ。
精神世界の人たちというのは、基本的に、幼児的万能感が捨てきれない人たちだ。幼児的万能感に強く支配されている人たちだ。
だから、基本的な思考が、幼児的万能感によって支えられた思考になる。その思考を、「悪い人たち」によって使われ、簡単に洗脳されてしまう……。
えらそうなことを言って、もともと、条件が悪い人のことを、言葉でいじめているのである。条件が悪い人に、『負のストローク』をあたえているのである。もちろん、悪気はない。ほんとうに、相手のことを考えるのが、苦手なだけなのである。