「貧乏な人は、おカネがきたないものだと思っている。闇献金も、きたないおカネではない」というようなことを言う人がいる。
いろいろなことが混じっているんだよね。
これ、けっこうな頻度で言われることだ。
「おカネがない人は、おカネがきたないものだと思っている」「だから、おカネがないんだ」という意見だね。
これも、10ブロック、9ブロックの人が言うわけ。生まれたときから10ブロックにいる。生まれたときから9ブロックにいる。だから、自分たちは、おカネがきたないものだと思ってない。だから、おカネもちなんだという意見だ。
ロジックのねじれがわかるだろうか?
はっきり言えば、おカネかをきたないものだと思っているか、おカネをきれいなものだと思っているかということは、おカネをどのくらい持っているかということとは、関係がない。
1ブロックの人は、1ブロックに生まれたから、おカネがないし、おカネをかせごうにも、だいたい1割しか勝てないので、常におカネがなくてピーピー言っている状態だ。
10ブロックの人は、おカネがあるし、お金をかせごうとすれば、10割の確率で勝てるのである。9ブロックの人も、おカネがあるし、お金をかせごうとすれば、だいたい9割の確率で勝てるのである。
おカネがないとか、おカネがあるという状態のちがいをつくりだしているのは、どのブロックに生まれたかということだ。
おカネをきたないと思っているか、きれいだと思っているかは関係がないのである。
1ブロックの人は、おカネに関して、負のストーリーをもっているのである。おカネがなくて、くるしい思いをしたのである。おカネがなくて、くるしい思いをすれば、そのときの負の感情が、おカネという概念と結びつくことがある。なので、おカネは、きたないと感じることもあるわけだ。
けど、これは、おカネ自体ではなくて、おカネがないという状態がつくりだしたものだ。
「闇献金は、きたない」と言う場合の、「きたない」というのは、比喩的な意味で、「きたない」と言っているのである。しくみが、きたないわけでしょ。そして、そのきたないしくみによって、まわりまわって、自分が不利益をこうむっている。
だから、そういうことをまとめて、比喩的な意味で、「きたない」と言っているのである。
「政治家がやっていることがきたない。闇献金するほうも、やっていることがきたない」という気持が、込められているのである。不当なことをしているという気持がある。
……「きたない」という言葉には、そういう気持が込められている。
なので、これは、「おカネはきたない」という言葉に、かわりやすい。だって、そもそも、ブロックの格差が、おカネがないということからしょうじる、自分の不幸な体験をつくりだしているのだから、「おカネはきたない」と思ってもしかたがないところがある。そして、上ブロックの人たちが、不当におカネをえているのだから、「あいつらはきたないことをしている」という感情がうまれ、そのきたないことに関係したカネは、きたないカネだということになる。
闇献金をあたえる側と、もらう側がいて、社会制度がゆがめられているのだから、全体的には、きたないことをしているのである。
この構造にかかわるおカネは、この人たち(もらうほうと、あげるほう)によって、「きたないカネ」と表現されるカネになっているのである。
カネ自体には問題はなくて、行為が問題なのだし、そういう行為が伝統的に成り立っている構造も、問題だ。実際に、もらうほう政治家とあげるほうの人たちは、きたないことをしているので、その行為にかかるカネが「きたないカネ」と呼ばれてしまうのである。
あるいは、呼ばれてしまうだけのことなのである。
なので、その行為にかかわるカネがきたないものであるというのは、事実なのである。もちろん、これは、その行為にかかわるおカネが、物理的にきたないということではない。
しかし、これも、おカネが物理的にきたないと思っている人は、おカネがない(お金持ちになれない)というような話と、いっしょにされることがある。物理的なきたなさに関する話と、物理的ではなくて精神的にきたないという話が、ごっちゃになっている。あるいは、つねに、ごっちゃにされるようになっている。だから、「おカネがない人は、おカネがきたないものだと思っている」「だから、おカネがないんだ」と言う人は、自分が物理的なきたなさについて話をしているのか、精神的なきたなさについて話をしているかということを、峻別して話さなければならないのである。けど、つねに、ごっちゃにして話すのである。だから、この人たちが、まず物理的なきたなさについて語っているのか、あるいは、精神的なきたなさについて語っているのかを、はっきりさせなければならない。けど、はっきりさせることはないまま、ただ、なんとなく、言いたいことだけを言うということになってしまう。こういうやり方も、じつは、きたない。これは、話者のグレードによってちがうのだけど、無意識的にやっているやつと、意図的にやっているやつがいる。「やっている」というのは、この場合は、「ごっちゃにして話す」ということだ。無意識てな場合は、話しているほうが、物理的なきたなさと精神的なきたなさをわけて考えているわけではないので、聴いているほうも、わけて考えて聴くということが、むずかしくなる。あるいは、できなくなる。だって、話しているほうが、わかってないのだから、しかたがない。この話をしているやつらには、「カネのないやつらのせいにする」という意図がある。「カネがない理由は、おカネをきたないと思っているからだ」ということにしたいのである。ブロックの格差から目をそらさせるという、かくされた意図がある。ともかく、「カネがないやつは、カネをきたないと思っているからカネがないんだ。生まれの格差なんて関係がないんだ」ということにしておきたいのである。
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あっ、そうだ。カネがきたないと思っているからカネがない」という話には続きがあった。「カネがきたない」と思っているからカネがないわけだから、カネがきれいだと思えば、カネがはってくるようになるのである。ところが、これが、嘘。カス方法。まったく役に立たない、くそ方法なのだ。言っておくけど、カネがないのは、きたないと思っている「から」ではない。だから、きたないと思わなくても、カネがない状態はかわらない。きれいだと思ってもカネがないとい状態に、なんの変化もない。ただ、抑圧ブロック構造には鈍感になるだろう。自分の「思い」をかえるだけで、カネのあるなしを、自由に操作できる気持ちになるからだ。ところが、自分の思いをかえても、カネなんて、入ってこないのである。入ってくるしくみがなければ、入ってこない。ブロックごとに勝率が決まっているなら、だいたい、その勝率でしか勝てない。勝てないという状態は、「思いよう」ではどうにもならない。
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これ、思霊や言霊とつながっているんだよ。ほんとうに、きたないやつらだな。こうやって、人をだまして、抑圧構造に対して鈍感にさせる。ほんとうは、格差をうみだす構造が問題なんだよ。最初から、格差があるから、差がある。おカネがある人と、おカネがない人の差がある。もちろん、現実社会は、おカネだけではなくて、その人の能力や容姿も関係しているので、能力や容姿で、うえのほうに行く人たちも(たしょうは)いる。けど、それは、最初にあたえられた格差の「ちから」よりも、ちいさな「ちから」だ。まあ、ブロックで言えば2ブロック分ぐらいは、上にあがれるかもしれないけど、9ブロック分、うえにあがることができないようになっている。まあ、3ブロック分以上はむりかな。そんな感じだ。でっ、あがるときの圧力というのが問題になる。これは、「負の圧力」だ。たとえば、1ブロックのやつが2ブロックにあがるなら、ほかの1ブロックのやつを、押しのけてあがらなければならなくなるのである。押しのけると言ったけど、どつきまくるという場合もあるだろ。その場合、どつかれたほうは、おもしろくないのである。どつかれたほうには、うらみの感情がしょうじる。どついたほうは、まったく気にしないということになる。そりゃ、気にしてたら、うえに行けないだろ。だから、「負の圧力」がうまれることになる。けど、まあ、ぼくのモデルだと、ブロック間の移動はできないことになっている。現実社会について、たしょう考えるならそういうところがあるということだ。
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言霊、思霊、「カネがないやつは、カネをきたないと思っているからカネがないんだ」という考え方……全部、社会構造は無視して、自分の気持ちだけ集中して、状態をかえようとする考え方だ。社会構造を無視しているので、無理がある。自分の気持ちだけで、自分の状態がどうにかなるなら、みんなそうしている。社会構造がうみだす力のほうがおおきくて、なかなか、自分の気分をかえても、状態がかわらないから、こまっているんじゃないか。そういうところを、無視しているのである。あるいは、ニセの解答を教えてあげて、(その人を)悪い方向に引っ張っている。全部、嘘。最初から、理論的にまちがっている。妄想理論。