おカネがきたないと考えるのは、よくないことだ。おカネがきたないと考えている人は、貧乏で、性格が悪い……ということを、うっすらと言うことで、闇献金や、闇献金にかかわる構造、人をだまして金儲けをする行為まで、うっすら、肯定されてしまっている。
そして、うっすらとだけど……闇献金にかかわる人たちや人をだましておカネ儲けをする人たちが、おカネもちで、性格がいいということになってしまうのだ。おカネ儲けがうまい人たちは、いい人たちなので、いい人たちがやることは、いいことだということも、うっすらと、言っている。
おカネがきたないと考えることを、否定することで、逆に、おカネをきたないと考えてないでおカネ儲けをする人たちが、うっすらと、肯定されている。
ようするに、尊敬するべきは、おカネがきたないと考えない人たちで、軽蔑するべきは、おカネがきたないと考えている人たちなのだ。「おカネがきたないと考えるのはよくないことだ」ということで、こういうことまで、全部、におわせてしまう。
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完全に電子マネー化されたとき、この人たちは、対象としての物質的な硬貨や紙幣をうしなう。理論の根本をうしなうことになるなぁ。
対象としての物理的な「おカネ」がないのだから、きたないもくそもない。
だから、「おカネがきたないと思うことはよくないことだ」というところからひっぱって、おカネがない人たちをディスることもできなくなる。
「おカネがきたないと思うことはよくないことだ」というところからひっぱって、おカネもちを尊敬の対象にすることもできなくなる。
「おカネがきたないと思うことはよくないことだ」というところからひっぱって、きたないおカネをかせぐときにやる行為を、正当化できなくなる。
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物質的な硬貨や紙幣があると、物理的なきたなさと、精神的なきたなさをごっちゃにして、話しをすることができるのである。
まず、ここに、「ひっかけ」がある。トリックがある。
最初から最後まで、じつは、あいまいな話をしているのだけど、「おカネがきたないと考えるのはよくないことだ」ということは、つたわるのである。
そして、「おカネがきたないと考える人」に悪いイメージをあたえることに成功している。
いっぽう、「おカネがきたないと考えない人」によいイメージをあたえることに成功している。そして、おカネをもうけるときの範囲は気にしないということになる。
ようするに、どんなことをしても、おカネをもうけることができるなら、それは、正義だということになる。
「どんなことをしても、おカネをもうけることができるなら、それは、正義だ」と考える人たちを、「おカネがきたないと考える人」は、ある意味、批判しているわけだ。「おカネがきたないと考えるのはよくないことだ」という人たちは、批判している人が、悪いというイメージをあたえる。「どんなことをしても、おカネをもうけることができるなら、それは、正義だ」と考える人が正しくて、それを批判しているほうが、まちがっているということを、暗に言っている。
ようするに、「おカネはきたないものではないということがわかってないから、そういう批判をするようになるのだ」ということを言って、「おカネがきたないと考える人」のことを暗に批判するのである。
物理的なきたなさと、精神的なきたなさをごっちゃにして、話しをすることができるので、内容を特定して、批判することができないような構造になっている。まあ、本人は、本人の頭のなかでも、あんまり整理できてないことを、ごっちゃにして話しているだけなのだが、やっかいだ。