「おカネがなくて、ほしいものが買えない子どもは、おカネがきらいなのだろうか?」と書いた。いいや。きらいじゃないだろ。おカネをもらって、ほしいものを買いたいのだから、おカネがきらいであるはずがない。
けど、けっきょく、どうあがいても、親が買ってくれなかったので、ほしいものを手に入れられなかったとする。
その場合、「不公平だ」という感情がうまれる。
たとえば、まわりの子どもが買ってもらっているのに、自分だけ、勝ってもらえないのは、不公平だという感情がうまれる。これは、嫉妬心と言えば、嫉妬心だけど、それほど、悪いものなのだろうか。やつらは、嫉妬心という言葉を使って、あたかも、この子どもが、悪い子どもであるように言う。
たとえば、9ブロックの子どもは、10回リクエストすると、9回は、好きなもの買ってもらえるとする。そして、ゼロブロックの子どもは、10回リクエストしても、0回しか買ってもらえないとする。
ようするに、ゼロブロックの子どもは、どれだけリクエストしても1回も買ってもらうことができないとする。
この場合、もし、情報がいきわたっているのであれば、ゼロブロックの子どもは……あきらめるまでは……「不公平だ」と思うだろう。
しかし、それは、ゼロブロックの特別な子どもが、特別に嫉妬心が強いから、感じることなのだろうか? 思うことなのだろうか?
もしかりに、9ブロックの子どもと、ゼロブロックの子どもをいれかえたら、今度は、9ブロックの子どもが、ゼロブロックの子供のように「不公平だ」と感じるのではないか。
ようするに、ゼロブロックの子どもが、特別に、嫉妬心が強いわけではなくて、人間というのは、そういうふうに感じるようにできているのではないか。
こんなもの、なぐられたらいたいのとおなじだ。もちろん、例外はいる。神経がうまく機能していなければ、いたさは感じない。けど、それこそ、神は、人間をいたさを感じるようにつくった。
ゼロブロックの子どもだって、なぐられたらいたい。9ブロックの子どもだって、なぐられたらいたい。
こんな不公平な対応をされて、不愉快な思いをしない子どもがいるだろうか。あるいは、人間がいるだろうか。