2019年9月23日月曜日

「たいへんさ」の「たいへんさ」がちがう 「できる」たいへんさ と 「できない」たいへんさ 『絶望感』の学習


人のブログに長文を連投するのはやばいから、こっちに書くけど……。「たいへんさ」の「たいへんさ」がちがうという問題があるのだ。

https://musyokuvlog.com/?p=16233
仕事するする詐欺は卒業と仕事候補↑


たとえばの話しなんだけど、マリモ氏にとって、『働く』ということが、マリモ氏にとってブログを書くぐらいのことだったら、マリモ氏はそんなに悲惨な気持ちにはならない。

もちろん、ブログを書き続けるのも「たいへんなこと」ではあるのだけど、その「たいへんさ」はそとで働くことの「たいへんさ」とはまったくちがう、たいへんさなのだ。

広告収入やYoutubeのためにブログを書くとなると、それなりにたいへんなのだけど、そこで感じる「たいへんさ」はそとで働くことの「たいへんさ」とはくらべものにならないほど小さい。逆に言えば、そとで働くということのたいへんさが、ものすごくデカイ。

このあいだも書いたけど、ブランクがある人が実際にアクセスできる仕事というのは、ブラック企業の仕事でしかないわけだから、『働く』ということは必然的に「たいへんなこと」になる。

『自己実現』とか『やりがい』というようなことを言う人が考えている「たいへんさ」とは質と量がちがう。『自己実現』とか『やりがい』というようなことを言う人は、ここらへんが、わかってないんだよな……。

ともかく、Aさんが言う場合の『たいへん』とBさんが言う『たいへん』の質がちがう場合がある。量に関しても、AさんとBさんとでは差がある場合がある。

たとえば、マリモ氏がたいへんだと言う場合は、毎日自殺を考えるほどたいへんなのである。俺の場合もそうだ。「たいへん」と言う言葉にこめられている意味が違う。普通の人が仕事をするときに感じるたいへんさというのは、マリモ氏が「ブログを更新するときに感じるようなたいへんさ」なのだ。

だから、『普通にできる』。「たいへんだ」と思うことが何回もあるかもしれないけど、それは、「できる」たいへんさなのだ。「もう、死ぬしかない」と思うようなたいへんさではない。「もう、死ぬしかない」と思うようなたいへんさは「できない」たいへんさなのだ。

もちろん、『普通に働いている人』のなかにも、鬱病になっているのに、働いている人たちもいる。その人たちが感じている「たいへんさ」はマリモ氏が普通のところで働く時に感じるたいへんさと似通ったものがあるだろう。

鬱病だけど通勤して働いている人たちが感じているたいへんさを、もっともっと強くすると、マリモ氏やぼくが(普通の仕事をするときに)感じる「たいへんさ」とだいたい同等になると思う。まだ通っているということは、まだがまんできるということを意味しているからだ。

いつか終わりがくるなら、終わりがきたときのたいへんさが、マリモ氏やぼくが感じているたいへんさと、だいたいおなじになる。(実際には、そういうことを繰り返しているから、『仕事をする』『働く』ということを考えた場合、ものすごく憂鬱な気持ちになるのだ。

これは、学習後だからそうなる。なんの学習かというと、まあ、語弊を考えずに簡単に言ってしまえば『失望感』の学習。『絶望感』の学習だ。

『甘えるな』とか『我慢してやっていれば、楽しさが見えてくる』というようなことを言う人たちが感じているたいへんさというのは、マリモ氏がマリモ氏のブログを更新するぐらいの「たいへんさ」なのだ。こういうところが見えてない。だから、「たいへんさ」という言葉で、別のことを話しているということになる。

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ぼくの場合は実はヘビメタ騒音というものがかかわっていて、それで、「できない」たいへんさをずっと経験することになった。ほんとうに毎朝『死ぬか生きるか』の問題なのである。ヘビメタのストレスで追い詰められると、いままで、できたことができなくなる。ヘビメタ騒音は同時に睡眠の問題だから、仕事場に通えば「できない」たいへんさを経験することになるのである。

いつも読んでくださるかたに感謝しております



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