2022年2月7日月曜日

問題行為をしている人はハッピーで、意地をとおして、まったくなもやってないつもりなのだ

 ゴミを出してきた。ごみ袋が二個ある場合、普通は、ドアを開けっぱなしにして、ごみ集積場(出すところ)まで行く。二〇メートルぐらい先だから、ふりかえれば、自分のうちのドアは見える。けど、ネズミのことを考えて、わざわざ、ドアをしめた。二階に住んでいる?ので、いちおう、ごみ袋を持って庭に出て、庭から、もう一度ドアを目指して階段をあがり、ドアをしめた。めんどうくさい。階段というのは、外階段だ。

で、なんて言うのかな? そういうことにめんどうくささを感じつつも、あの道を行き来するとき、どうしても、ヘビメタ騒音のことを思い出してしまう。あの雰囲気、ほんとうに、ヘビメタ騒音が鳴っている雰囲気だ。ヘビメタ騒音が鳴っているなかから外に出たときの雰囲気だ。朝。夕方。夜。休みの日なら、昼間も午後の明るい時間も。ほんとう、ヘビメタ騒音に毎日たたられて毎日勉強できない状態だったんだけど、そういう状態で入学試験をうけに行くときの気分なんだよな。

あの道を、行き来するときに感じてしまう気分は……。

どれだけ言っても、しずかにしてくれなかった。「明日、入試だから、しずかにしてくれ」ど俺が何回もさけんだのに……きちがい兄貴の部屋に行って、本気でさけんだのに、むすーーっとした顔をして、一秒も静かにしてくれなかった。きちがいだから、一秒でもしずかにすると死んでしまうというような意地がある。そういう意地で、しずかにしてくれなかった。けど、きちがいだから「しずかにしてやった」と思っている。きちがいだから・・。きちがい親父の形相をして、きちがい兄貴が、そうした……ということを書いたわけだけど、ほんとうに、あいつらのそういうときの形相が似ているのだ。態度が、そっくりなんだよな。ほんとうに、きちがいとしか言いようがない態度。きちがいとしか言いようがない形相。きちがいとしか言いようがない「そのあとの認知」。そのあとの認知というのは、ほんとうに、あれだけ意地をはってやったことなのに、自分がやったことじゃないと思っているようなところがあるんだよ。自分はやらなかったと思っているようなところがある。すなくても、自分はまったく関係がない人間だと思っているのだ。心の底からそう思っている。そういう人間! そういう認知が普通に成り立ってしまう人間!! 話し合ってどうにかなるわけがないだろ。「お兄さんに言えばいい」「家族で話し合えばいい」……俺がどれだけ、そう、言われてきたか。うちの場合、問題行為をしている人はハッピーで、意地をとおして、まったくなもやってないつもりなのだ。迷惑行為をしたというつもりがまったくない。けど、毎日、自分がやりたくなったら、絶対の意地てやるんだよ。だから、やっている。毎日、そういう状態でやっているのに、やったというつもりがない状態なんだよ。記憶や認知がない状態なわけ。そういう、きちがい的な認知が普通に成り立っているのが、親父と兄貴だ。そういうきちがい的な認知が普通に成り立っている「うち」が「うち」だ。

きちがい親父にしろ、きちがい兄貴にしろ、とめられない。殺すしかない。その場で、殺すしかない。絶対に、聞かない。言うことを聞かない。きちがい親父が……本来なら、模範を示すべき立場の父親が……そういう態度で、頭がおかしい迷惑行為を頑固に、頑固にやる。これが「うち」なんだよ。親父の脳みそがそうなんだから、二四時間中、二四時間、そういうふうに「うごく」んだよ。もちろん、寝ているときは、どうだか知んないけど、何時に起こされたって、二四時間中、二四時間、そういう「モード」で暮らしているからそういう行動をする。迷惑行為をきちがい的な意地でする。その場合、迷惑行為をきちがい的な意地でやったという気持ちも、認知もないんだよ。そういう状態なんだよ。ごく!!ふつーーー!!にやっている。そういう生活しかないんだよね。だって、そういう頭を搭載しているのだから、そういう生活しかない。感じ方自体が、そういう感じ方なんだよ。自分のことしか頭にないから、自分がやりたいことをする。相手がなにを言ったって聞かない。しかも、やったつもりがないんだよね。きちがい的な意地で、不退転の決意でやったのに、やったつもりがないんだよね。やったつもりがないままなんだよね。こっちが「やった」と言えば、「やってない」と発狂する。ともかく、自分に不都合なことを言われたら、発狂して、否定して、それでおしまいなんだよ。あるいは、「しずかにしてくれ」と言われたときとおなじようにむすーーっとした顔をして、やりきる。無視して、やりきる。「やった」と言われることも「しずかにしてくれ」と言われることも、両方とも「ほんにんにとって」不都合なことなんだよ。認めたら、対応しなければならない不都合なことなんだよ。もし、認めてしまったら、自分がいやなことをしなければならなくなる。もし、認めてしまったら、自分が我慢しなければならなくなる。自分がやりたいことを我慢しなければならなくなる。それは、発狂的な意地で絶対にいやなので、「みとめるところ」から発狂して、無意識的に無視してしまう。そうたら、「やったってやってないこと」なんだよ。こだわりがある部分なのに、「どうでもいいこと」になってしまう。やめてやる必要性がしょうじるなら、もちろん、きちがい親父やきちがい兄貴にとっても、どうでもいいことじゃない。どうでもいいことじゃない。びた一文ゆずれないことだ。絶対に自分意地を通したいことだ。ぜったいーーいっにぜったーーいに、ゆずりたくないことだ。だから、認知認識する前に、無視してしまう。それがあの態度だ。認知認識する前に無視してやりきると、ほんとうに、やったことになってないし、言われたことになってないのだ。いつもいつも、そういうやり方で無視してやりきる。二四時間中二四時間、そういう頭を搭載しているから、それで、矛盾を感じない。本人だけは矛盾を感じないのだ。俺が、兄貴のことを言っているのか親父のことを言っているのか、わからないと思う人がいるかもしれないけど、俺は兄貴と親父のことを言っている。主語は「兄貴と親父」だ。ほんとうに、態度が同じなのである。親父の態度の、兄貴バージョンがヘビメタ騒音だ。親父の態度で、きちがい兄貴がヘビメタ騒音を鳴らしきった。毎日毎日、きちがい的な意地でを鳴らすけど、毎日毎日、現在進行形で、問題だと思わないのだ。だから、一日に一三時間鳴らしても、問題だと思わない。その日が、俺の入試前日でも、まったく問題だと思わない。一三時間鳴らしてたって、五分間、〇・一デシベルでもさげてやったら「ゆずってやったゆずってやった」「ゆずってやったのになんだ!!」と発狂することができるのである。これが、兄貴の態度だ。この親父バージョンが、親父のきちがい行為や親父の「わけのわからない」感情的な爆発なのだ。こっちに向かって、わけのわからない感情をぶつけてくる。わけのわからないことで、怒り狂ってくる。そりゃ、そういう脳みそを二四時間中二四時間搭載しているので、親父と一緒にいるのに、そういう攻撃をうけないということがないんだよ。これは、「うち」のはなしだ。親父だって、よそのうちに行けば、しずかになるのである。そのときだけだけど!! けど、親父は、きちがいだから、「よそ」と「うち」を使いわけているという気持ちはまったくない。兄貴にしたっておなじなんだよ。俺の話を聞くと、兄貴がよそでも問題行為を起こしそうな感じがするだろ。けど、問題行為を起こすのは、つねに、「うち」なんだよ。よその人がいない場所で、そうするの!!!!のぉぉ!!! 何度も言うけど、親父も兄貴も、意識的に「つかいわけている」わけじゃないんだよ。だから、やっかいなんだよ。こういう問題を抱えた父親や兄がいないやつは、ぼくが言っていることについて誤解するし、ぼくについて誤解をする。

いつも読んでくださるかたに感謝しております



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