2021年3月9日火曜日

その理論が成立するには、「こころが破壊されていなければ」という条件が付く

 段ボールのごみと、ペットボトルのごみと、空き缶のごみを出した。しかし、段ボールのごみを出すのはたいへんだ。ひもで、しっかりむすぶのがむずかしい。

そのあと、セブンイレブンに行って、いろいろと買った。メインは、ゼロコーラだ。炭酸飲料がやめられない。普通の人にとって「酒」みたいなものなんだろうな。ソラマメを見たら、ソラマメを食いたくなったので、ソラマメを買ってきた。けど、食うつもりでいたんだけど、ちょっと考えている。ゼロコーラを飲んだあと、なにも食べないで寝てしまおうかなと考えている。

あとは、あいかわらずだが「つまらない」という言葉が頭のなかを回転している。つまらないつまらないつまらない。つまらないんだよぉ。つまらない。

言いたいことは、長期騒音についてであり、長期騒音がぼくの「こころ」を破壊してしまったということだ。長期騒音にこころを破壊されたので、すべてが、楽しく感じない状態になってしまった。これは、だれといても、かわらない。だから、俺と一緒にいる人は、つまらない思いをすると思う。けど、だからと言って「楽しいふり」はできない。「こころ」が完全に破壊されてない人は、「楽しいふり」をしていれば「楽しくなる」というくそ理論を展開しがちだ。しかし、それは、まちがっている。その理論が成立するには、「こころが破壊されていなければ」という条件が付く。無条件に成り立つことではないのだけど。けど、中立的な人は、それが、「誰にでも成り立つ」絶対法則だと思ってしまう。だから、そういう人とは、ぼくはつきあえない。さらに、俺がつまらなそうにしていることに、たえられる人じゃないとつきあえない。これは、長期騒音の結果で、別に俺が、もともとそういう人間だったということではないのだ。普通の人はぼくの長期騒音に対応する経験が、ないので、ぼくの言っていることがわからない。「そんなのは……」と思うことになる。そういう意味で、ぼくは、そういう人たちにとって「めんどうくさい人」なのである。

 

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