2019年10月2日水曜日

ものを食いたくないときにものを食べること 興味論 心的エネルギー論


涙が出るほどひまだ。
けど、じゃあ、いそがしくなればいいのかというとそうではないのだ。
だいたい、昨日、俺としては眠るはずだった午後五時に電話がかかってきてから、おかしくなった。いろいろ省略するけど、やらなければならないことができて、一時間ぐらい、我慢して起きていた。これが問題なんだよ。
で、そろそろ、眠たくなるはずなんだけど、ぜんぜん眠たくならない。だるいけど、眠たいわけではない。ひたすら、だるい。
あと、実は今日も工事をやっているので、電動工具の音が鳴っている。きーーってね。

つかれて、なにもできない状態なんだけど、……。

あとは、渡り廊下の窓を開けると、となりから丸見えというのがどうにかならないかと思っている。あーー。

ものを食いたくないときにものを食べることを考えて楽しいかってことだよ。あるいは、ものを食いたくないときに、むりやりものを食べて楽しいかってことだよ。食べたいときは自然に食べたくなるだろ。食べたいときに食べたいものを食べれば、満足するだろ。ひとまずは……。けど、食べたくない状態がずっと続いたらどうなる? こまるだろ。
食欲で話したけど、すべてのことに対する興味もおなじだ。むりやり、興味を持とうなんてことはできないんだよ。まあ、習慣づけとか、自分をだますとかそういうことを考える人がいるわけだけど、それは、エネルギーが枯渇した状態じゃない。それでどうにかなるのは、エネルギーが枯渇した状態で興味がない(あらゆることに興味がわかない)場合じゃない。習慣づけができるということは、エネルギーがあまっているということだ。自分をだましてやる場合も、ほんとうは、だましてやる部分は一部分で、自然に、その分野のことに興味がわいてくるから続くんだよ。自然にその分野のことに興味がわかない場合は、自分をだまして続けようとしても続かない。こういうちがいがある。けど、自分をだますとか言っている人は、興味を持つとかそういう部分を自分で制御できると思っているんだよ。けど、それはちがう。自分で制御できると思っている人は、エネルギーがある状態でなおかつ自然に興味を持つ部分が壊れてないから、そうできる。自分をだますつもりが、だまされている。
たとえば、意志と無意識をわけるとする。意識と無意識じゃないということにしておく。意志というのは、この場合、意識のなかで一番 意志的な部分だ。意志が「これに興味を持て、これに興味を持て」と言っていると、無意識がだまされて、興味を持つようになるという理論を展開しているんだよ……そういう人たちは。けど、それはまちがっている。無意識は意志の命令で動かない。意志が「動かせる」と思っているのは、無意識のおかげなんだよ。意志が無意識にだまされている。


ほんとうは、眠るのが一番なんだけど、眠れないからこまっている。

いつも読んでくださるかたに感謝しております



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