2021年2月4日木曜日

きれいごとは百害あって一利なしだわ。

 ほんとう、何十年も前のことなのに、思い出すと、昨日のことみたいなんだよな。数時間前のことのように感じることもある。もちろん、何十年も前のことだと知っているけど……。感覚として、なんか、「ちょっと前の出来事」であるような感じがするのであーる。『感情的時間』というのがあるような気がする。

それにしても、何十年も前のちょっとした「会話」なんて、関係がないのに、浮かんでくるなぁ。会話と言っても、両方とも感情的になっているからなぁ。そういう場合は……。

問題なのは、楽しい会話はまったく思い出さないのに、腹立たしい会話はよく思い出すということだ。さらに、俺を苦しめているのが、俺が部分的に悪かった場合の会話だ。

ともかく、なんか、そういう会話が浮かんでこなければいいのにと思う。

けど、いろいろな「方法」はきれいごとなんだよ。きれいごとにどっぷりつかった人たちが、考え出したものなんだよ。ぼくの現実というのは、そういう人たちの現実とはちがうんだよ。はっきり言えば、経験してきたことがちがう。

現実を説明できない嘘くさいきれいごと……こんなの、本気で信じられるわけがないだろ。「方法」の前提である「きれいごとの世界」を信じられないのだから、「方法」も、信じられないのであーる。だから、そういう方法は、まったく役に立たない。まったく役に立たないどころか、マイナスなんだよ。そういうきれいごとを、強気モードで信じると、かならず、悪いことが起こるのだ。俺が悪かった場合の出来事って、そういうきれいごとの影響を受けているときが多い。もちろん、そうではない場合もあるのだけど……。たとえば、Fちゃんのことは小学1年生のときだから、当然そういう「方法」や「方法の前提であるきれいごと」について知っていたわけじゃない。だから、ぜんぶがぜんぶというわけではない。けど、きれいごとに「とりつかれている」と、やっぱり、現実世界でもめ事が起こるんだよ。ほんとう、きれいごとは百害あって一利なしだわ。

いつも読んでくださるかたに感謝しております



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