2020年12月6日日曜日

「どんなことでも」と言いがちになるのだけど、例外が出てくる

 「どんなことでも」と言いがちになるのだけど、例外が出てくる。というか、例外を最初から、言っておかなければだめなのである。例外を言ってしまうと、じつは「どんなことでも」ではないということに気がついてしまう。

「どんなことでも、脳内変換すれば楽しいことになる」

「どんなことでも、楽しんだほうが勝ち」

まあ、俺も使うけど、高杉晋作の「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは 心なりけり」 などという言葉を使って「どんなことでも、楽しんだほうが勝ち」というようなことを言ったりする。これ、「すみなすものは 心なりけり」は高杉晋作じゃないみたいだね。「おもしろきこともなき世をおもしろく」……これは、高杉晋作らしい言葉。いかにも言いそう。それして、それが似合う。

まあ、話を元に戻そう。

物語を信じることができるかどうか……。これが、問題なのだ。信じられなければ、すくなくても、その方法では脳内変換ができない。つまらないことが楽しいことにならない。これが現実。意志の力を信じる意志教徒は、意識的に物語を信じようと思えば、心の底から信じることができると……信じている。けど、彼らにしたって、物語を選択している。

強迫神経症になやむ人が、精神分析家から、強迫神経症になった理由を聞いたとする。この理由を信じることができるかどうか……これが問題なのだ。まあ、直感的に「当たっている!!」と思えば、あたっていることが多いと思う。 ようするに、この場合は「ふにおちる」「ふにおちた」というような経験があるかどうかということになる。(いまどき、精神分析なんてやっている人は少ないけどね。いまは、ポップな認知療法だよ。認知療法は理由なんて関係がないというパラダイムを採用している。認知療法と強迫神経症の相性は悪い。強迫神経症患者のなかには、ほんとうに精神分析で説明できる理由で強迫神経症(強迫性障害)になっている人が含まれるからだ。これも、人数の問題なんだよね。)

まあ、話を元に戻そう。

ほんとうは、その物語を信じていないのに、信じていると思い込もうとしている場合は、物語の持つ力自体が弱くなる。完全に信じ込んでないとだめなのだ。 トイレ掃除をすれば、しあわせになれるという物語を信じていれば、いやなトイレ掃除も、しあわせを感じるトイレ掃除になる。仕事だって同じだよ。

 

仕事に関する裁量権がある人のほうが、仕事に関する裁量権がない人よりも、仕事が楽しいと感じる……というデータがある。なら、やはり、裁量権は関係があるのか? 仕事の楽しさとは関係はあるけど、それは、「脳内変換」とは関係がない。別の話だ。裁量権があれば、脳内変換なんてしなくても、楽しいと感じることができるのだ。これは、そういう話だ。「裁量権があるとき、自分で考えて自分なりの工夫をすれば楽しくなる」ということと、「つまらないことでも脳内変換すれば楽しくなる」ということは、わけて考えるべきなんだよ。

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あと、言っておくけど、ぼくは質問した人じゃありません。いちおう、誤解のないように……。 

質問した人はたぶんだけど、脳内変換なんてしても、楽しくならない。それは、物語を信じられないからだ。「楽しくない」と感じてしまっている自分を知っているからだ。脳内変換して、無理やり楽しいことだと思い込むということはできない。脳内変換しているときに、認識されているのは「無理やり楽しいことだと思い込もうとしている自分」だ。繰り返しになるけど、自分がその「物語」を信じてないと、脳内変換なんてしても、楽しくならない。

すべてのことが楽しくないというレベルに達しているなら、これはもう、別の機制があると考えるべきなのだ。「脳内変換」で解決できるような話ではない。 

けど、すべてのことが楽しくないと言っている人は、「脳内変換」レベルの助言を受けることになる。これは、まずい。基本的にまずいことなんだよ。これ。わからないだろうけど……。

 

 

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