2020年12月6日日曜日

裁量権がない仕事ですら、脳内変換すれば、とても意味があることになる


裁量権の問題は、関係がない。これも、あとだし。あとだしは、だめだよ。
「どんなことでも」と書いてしまってはいけない。裁量権がないこと以外は、どんなことでも、と書くべきだった。もちろん、裁量権がないということと、仕事であるということは、排他的ではないので、条件が二つあることになる。これは、「アンド」 ではなくて「オア」だ。裁量権がある仕事もあるし、裁量権がない仕事もある。「自分がやっている仕事は裁量権がない仕事だったので、脳内変換しても楽しむことができない」ということが前提なら、「どんなことでも」などと書くべきではなかった。


裁量権がない仕事ですら、脳内変換すれば、とても意味があることになるのである。
たとえば、自分がこの仕事をすることによって、ほかの人がしあわせになると信じているのであれば、裁量権がない繰り返しの仕事であったとしても、楽しくなる。この仕事を何回も何回もすると、自分は、地獄ではなくて天国に行けると思えば、この仕事が楽しくなるだろう。すくなくても、いやな仕事ではなくなる。いやな仕事でも、そういう物語があれば、いやな仕事ではなくなるのである。これは、裁量権とは関係がない。裁量権がないからつまらないということではない。脳内で、変換したから、楽しく思えるのだ。まさに、脳内変換のよい例だ。


しかし、たとえば、自分がこの仕事をすることによって、ほかの人がしあわせになるという物語を信じることができるかどうかというのがカギになる。裁量権なんて関係がない。物語を信じることができるかどうか?これが問題だ。物語を信じることができなかったらだめなのである。


セミリタイア愛好者は会社がこういう物語を提供しても、信じることができない。だから、いやな仕事はいやな仕事のままなのである。たとえば、公共施設の掃除だって、掃除をすることによって、自分の徳が上がり、しあわせになることができるし、他人をしあわせにすることができると信じていれば、裁量権がなくても、しあわせになるのである。行為自体はかわってないから、裁量権の問題じゃない。

セミリタイア愛好者がいみきらう?会社側が出してくる「いいはなし」と同じようなことを、セミリタイア生活について言っているということになってしまう。

「ものは思いよう」。

「どんなにつまらないことも、脳内変換をすれば、楽しくなる」。 

「なんでも楽しんでやったほうが勝ち」。

いつも読んでくださるかたに感謝しております



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