2020年12月21日月曜日

「あれは、そういうことだったのか」ということが、いまわかったりする

 起きて、さけ茶漬けを食べた。うまかった。

あーー。

あれがこうして、ああだった。あれは失敗した。俺は教えたくなる時があるんだよな。そうすると、説明してしまう。「つまづいている人がいたら、教えてあげてください」と言われたから、いろいろ説明してしまったのだけど、どうも、俺の態度が、教えられた人には気に食わなかったんだろうと思う。だいたい、相手はぼくのことを年下だと思っているけど、ぼくは、年上だったんだ。まあ、いいけど。年上だと思っている態度が出たのかな? この手の失敗は、人生のなかで二回ぐらいある。しかし、いろいろと、細かい記憶があがってくる。それが、みんな「あのとき、こうしなければよかった」とか「あのとき、こうすればよかった」というような後悔につながる記憶なのだ。改善するべきところは改善しようと思うけど、相手の気持ちというのが、完全に読めるわけじゃないからなぁ。不満を言ったので、そういうふうに感じているんだということが、わかったわけで、言われたときは、すでに説明したあとなんだよな。で、自分のところで失敗してるんだけど……。自分のことだけ、考えておけばよかった。

 

あれは、いちおう、反省して、繰り返さないようにしよう。で、繰り返さないように「注意する点」が増えると、いいのかというと、そうでもないのだ。気にしすぎて、別の失敗?を誘発する。というか、「適度」というのは、結果論であって、その場では、適度というのが、それほど、微妙なラインでは、決まってないと思える。微妙ではないラインでは決まっていると思うけど。ぼくは、もともと、きちがいおやじにやられたので、人の気持ちを気にするほうなのである。いま書いた「説明しすぎた」ということだって、人によっては、生きているあいだずっと、反省しないと思う。そういう人は、死んだ後も、反省しないだろう。人によっては、相手の態度がなまいきだということで、憤慨するかもしれない。その場合は、相手が反省するべきで、自分は反省するべきではないという気持ちでいっぱいになるだろう。一生涯、自分のほうが悪かったのもしれないということに、気がつくことがないのではないか。たしかに、ぼくはきちがいおやじにやられたので、「微妙なラインまで」気にするところがある。「微妙なライン」まで気にすると、相手によって、「適度」という範囲がちがうので、たいへん、微妙なことになってしまうのである。

ともかく、あれは、ぼくのなかでは「失敗」。反省するべきことだ。今度は、ああいうふうに説明しないようにしよう。

けど、ほんとうに、細かい記憶がうかんでくるんだよな。俺ともっと深い仲の友達になりたかった人の気持ちが、突然!浮かんできたりする。きちがい長期騒音で、いろいろと、あって、その人には、ある種コンプレックスがあった。だから、精神的な距離を保っていた。それが、逆に、よそよそしい態度になってあらわれたわけだ……というか、一歩、つねに(その人に関しては)引いていた。

ともかく、相手のほうの気持ちが伝わってくるようなシーンを、思い出してしまうのである。思い出しているときは、相手の気持ちになってしまうようなところがある。で、「あれは、そういうことだったのか」ということが、いまわかったりする。なんか、ほんとうに、まるまる界にいるようだ。

いつも読んでくださるかたに感謝しております



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