2021年8月23日月曜日

貧乏生活の場合、月に2万円とか3万円というのは、わりとでかい影響を与える

 このまま生きて、死ぬのか? 生活費はあるんだけどな。ぱーっと使ってしまおうかな。俺の長期騒音生活がどれだけ惨めだったか、どれだけ腹立たしいものだったか。まあ、そんなことは、だれにもわからない。それにしても、世間の人の感覚だよな……。

まっくらなうちに買い物に行くか、明るくなってから買い物に行くか、まようなぁ。金、金、金。学費、学費、学費。もう、無理だったんだよな……。あのときから……。もう、無理だったんだよ。それにしても、長期騒音さえなければどうにかなかった。

ともかく、引っ越さないとな。「うしろのかね」ってぼくが言っているものがある。「うしろのかね」というのは、寿命から、一年前、二年前、三年前というように、うしろから数えた金だ。寿命がわからないので、輪郭がぼけやる。この、うしろの金が、年金の範囲内に収まるなら問題はないんだよ。けど、年金は、そんなにもらえない。それがわかっている。なので、年金をおぎなう金が必要だということになる。しかし、おぎなう金が実際にいくらになるのかわからないのだ。たとえば、おぎなう金が、一年に100万円必要だとする。2年で、200万円だ。この、200万円を、今使ってしまうのである。年金の範囲内というのは、なんていうのかな? 居住費がかかわってくるわけ。そりゃ、ふるい家で固定資産税が、月に5000円分なら、年金の範囲内で、くそ貧乏生活ができる。このくそ貧乏生活は、本当に、本当に、本当に余裕がないくそ貧乏生活だ。歳をとって、またあの、くそ貧乏生活に「かえる」となると、こころがくるしい。使い切って、年金がたりないぶんは、生活保護という手があるんだけど、そのころ、生活保護という制度が「いまとおなじかたちで」残っているとは限らない。今と同じかたちで残っていたとして、俺がもらえるかどうかはわからない。窓口で追い返されてしまうかもしれないのだ。そして、そういうめんどうなことはしたくないのだ。歳をとって、生活保護をもらいに行って、窓口で追い返されるというような経験をした場合、ぼくは、相当にみじめな気持ちになると思う。そんなことは、さけたい。一発で、絶対にもらえなければならない。けど、どうかな?というのはある。まあ、数十年後のことなんて、わからない。まあ、もう、ともかく、全部がめんどい。むなしい。

 

そんな時に「いま、うしろの金を使ってしまおうか」と思うのである。うしろの金を使うことで、余裕のある引っ越しができる。中古マンションだけど、管理費と修繕費がかかる。これが、わりとひびく。そんなとき、「うしろの金を使えば、問題はないな」と思うわけだ。うしろのかね、うしろのかね。どうなるかわからないけど、うしろのかね。

貧乏生活の場合、月に2万円とか3万円というのは、わりとでかい影響を与える。その、3万円があるかどうかで、生活の質がちがってくるのだ。歳をとって「余裕のない貧乏生活」はしたくない。もう、いやだ。「余裕のある貧乏生活」なら、いい。ぎちぎちの、余裕がない貧乏生活なんて、たえられるわけがないだろ。それは、若いからたえられる。もう、あの気分は味わいたくない。絶対に、余裕がなければならない。生活保護? 余裕がありすぎる貧乏生活だよ。 

ただ、自由はない。これが微妙なことなんだけど、「旅行に行こうと思えば行けるけど、行かない」というのと、「旅行に行こうと思っても、行けない」というのは、気分がちがう。実際には、旅行に行かなくても、気分がちがう。自由が制限されている気分というのは味わいたくない。なので、生活保護はできるのであればもらいたくない。世間体は関係ないけど、自由度は関係がある。どうせ行かないのだろうから、気分だけの問題なんだけどな。

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