むかし、「おカネはありがとうの量」という言い方がはやった。けど、おカネはありがとうの量だとは言えない側面がある。しかし、これも、「全体詐欺」みたいなもので、「おカネはありがとうの量だ」と思った人は「すべて」のおカネがありがとうの象徴だと思ってしまうところがある。
ようするに、この人たちは、ありがとうを象徴してないないおカネというものについて考えてない。おカネがありがとうの気持ちを「あらわしている」場合もあるけど、そうではない場合もあるのだ。
しかし、「おカネ」というちゅうょう的な言葉には、おカネがすべて含まれる。ようするに、この文脈だとすべてのカネが、ありがとうの気持ちをあらわしているということになってしまうのである。こういうことに対する、無頓着さというのは、精神世界の人たちの、弱点だ。どうして、こういう詐欺にひっかかってしまうのか。どうして、詐欺的な説明を「真実だ」と思い込んでしまうのか。部分について言っているのか、全体について言っているのかと言うことは、常に考えなければならないことなのである。
「おカネがありがとうの量」なのであれば、おカネをいっぱい持っている人は、いっぱい「ありがとう」と思われた人だということになってしまうのである。「おカネがありがとうの量」なのであれば、おカネがない人は、人から「ありがとう」と思われることをしてこなかった人だということになってしまうのである。
けど、実際には、生まれながらの差がある。「生まれたうち」の親が、カネ持ちなら、最初から、だいぶカネをもっている状態がしょうじるのである。いっぽう、「生まれたうち」の親が、貧乏なら、最初から、カネをもってない状態がしょうじるのである。「ありがとうの量」は関係がない。
自分がかせぐときは、自分の行いに対して、人が「ありがとう」という気持ちを込めておカネを払ってくれるのだから、人からありがとうと思われる行為をした人には、おカネが入ってくるという理屈なのだ。けど、これは、おカネの流れの「一側面」を言ったにすぎない。
そうじゃない場合だって当然ある。
強欲な経営者が、労働者の賃金をかすめとった場合だって、おカネは、強欲な経営者のほうに流れる。もっと、制度として固定されている場合だってある。
ようするに、搾取をするのがあたりまえということになっている場合、搾取可能な側には、おカネが流れ込んでくることになる。すべてのおカネが「ありがとうの象徴」なのであれば、もちろん、搾取可能な側に流れ込んでくるカネだって「ありがとうの量を指ししめしている」ということになってしまう。ようするに、「全体詐欺」が成り立っている。
ようするに、おカネがありがとうの量をしめしている場合があるけど、おカネがありがとうの量をしめしてない場合もある。ところが、おカネがありがとうの量をしめしているということにしてしまうと、おカネがありがとうの量をしめしてない場合については考えなくなってしまう。
全体詐欺だ。
「おカネはありがとうの量」だと言っている人は、おカネがありがとうの量をしめしてない場合について、まったく考えない状態になってしまうのだ。なので、おカネがありがとうの量をしめしてない場合については、公然と無視して、すべての場合において「おカネはありがとうの量だ」と思い込んで、すべての場合において「おカネはありがとうの量だ」という前提で、ものを言うようになる。
精神の堕落である。
だまされているのである。
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「全体詐欺」というのは、正確に書くと「部分→全体・抽象性詐欺」ということになる。
ひとつの側面について言っているにすぎないのだけど、全体についてのべているような印象を人々にあたえるのだ。その理論を聴いた人は、全体についてのべていると思ってしまう。その話のなかで、抽象的な言葉が使われている。この抽象的な言葉は、部分集合を全体集合のように、錯覚させるための抽象的な言葉だ。Aという部分集合とBという部分集合があり、Aという部分集合とBという部分集合で全体集合を形成しているとする。その場合、ーという部分集合は、当然ながら、全体集合ではない。けど、抽象的な言葉を使うと、抽象的な言葉を使ったときに、Aという部分集合が、あたかも、全体集合であるかのような印象をあたえることができるのだ。当然、Aという部分集合は、全体集合ではない。けど、説明をうけて、「その通りだと納得した人」は、それ以降、Aという部分集合を全体集合のように思ってしまう。
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ちなみに、一度、Aという部分集合を全体集合のように思ってしまった人は、たとえ、「A派部分集合であって全体集合ではない」という説明をうけても、こんどは、納得しないようなところがある。これ、単純な人は、「Aは部分集合であって全体集合ではない」という説明をされても、「そういう場合もあるかもしれないけど、Aは全体集合だ。これで正しい」と言いだすのだ。単純な人は……Bという部分集合があるということを、いちおうは、認めるけど、そのあとすぐに、Bという部分集合を無視してしまう。