近代的な市場経済システムというのは、それまでにある社会のきずな・慣習・文化・価値観を引き裂くものなのである。「社会のきずな・慣習、文化・価値観」と書いたけど、ひとことで言うと、慣習だ。ようするに、近代的な市場経済市システムをもつまえの社会というのは、まあ、慣習で成り立っている。
慣習というのは、価値観を代表したものなんだよ。そして、慣習には歴史的な意味があるんだよ。
ようするに、慣習が、経済を構成していた。
経済システムというのが、慣習のなかに「とけこんでいる」状態なのだ。ところが、社会の中に溶け込んでいる慣習を近代的な経済システムが破壊するのである。
ようするに、平和的な経済の移行であれ、戦争による植民地化であれ、(他国が)慣習がとけこんでいる経済システムを近代的な市場システムに書き換えていくのである。これは、排他的なものであって、慣習のほうは、いってみれば、近代的な市場経済システムをうけいれたときに、負けが決まっている。
市場経済システムのスケールで経済発展ということを考えると、とても低いレベルの経済発展レベルであるにもかかわらず、慣習がとけこんだ社会では、幸福度が、高いのである。
しかし、経済発展をするとともに、幸福度がさがるのである。ようするに、すでに高度に発展した市場経済システムをもつ社会からすれば、じゅうぶんに低い経済発展レベルでも、幸福度は、高いレベルでたもたれていたのである。
ところが、近代的な市場経済を導入すると、経済がとけこんでいる慣習をこわしてしまうので、幸福度がさがるのである。
ようするに、経済発展レベルが超・低い状態から、経済発展レベルが低い状態に「上昇」すると、それにともなって、幸福度がさがるのである。どうしてかというと、経済発展レベルが上昇したのは、じつは、慣習の中に溶け込んでいる経済システムの破壊がすすんだからなのだ。
たとえば、儀式というのは、じつは経済的な行為なのである。そして、市場経済システムに置き換わる仮定で、儀式が不要なものになり、儀式によってつくられていた人間のきずながほどけ、その結果、幸福度がさがるのである。
これ、儀式がとけこんでいる経済システムが、儀式がとけこんでいない経済システムに置き換わるので、それまで、儀式によって培われてきた人間関係の糸がほどけてしまうのである。
人間が幸福を感じるというのは、自分と(社会のなかの)他の人間や、自分と社会との関係において、幸福を感じるのである。なので、儀式の中に溶け込んでいた経済システムや慣習の中に溶け込んでいた経済システムが破壊されると、その分だけ、幸福度がさがるのである。
言ってみれば、市場経済システムが、文化を破壊するのである。
これ、未開な社会というものを考えみたばあい、どこまでが経済的な行為であり、どこまでが儀式的な行為であるのという境目がじつはないのである。おなじことは、慣習にも成り立つ。どこまでが経済的な行為であり、どこまでが慣習的な行為てあるのかという境目はない。
これは、おなじものを、どのような視点で見るのかということにつきる。ようするに、市場経済社会を見る目にならされていると、一見、まったく経済的な意味がない、儀式や慣習が、じつは、経済的な意味をもっているということに気がつかないのである。
なので、近代的な市場経済にさらされた時点で、社会は、改変されていくようになるのである。
時系列的には、慣習がとけこんだ経済システムのほうが、近代的な市場経済システムの浸透によって、破壊されていくのである。時系列的にいうと、近代市場経済システムをもつ他国が、影響をあたえていない状態から、小さい部分が近代市場経済システムに置き換わり、そのあと、大きな部分が近代市場経済システムに置き換わるのである。
この過程がすすむときに、価値の喪失を経験するのである。
これは、それまで、近代市場経済システムに浸食されていない部分が、部分的にその改変されていく状態のなかで、慣習がとけこんだ経済システムがだんだんと、近代市場経済システムに浸食されていく中で、慣習がとけこんだ経済システムが支えていた価値観がなくなるということなのである。
なので、価値観を共有できなくなり、そのぶん、価値観に支えられていた人間関係が希薄になるのである。ようするに、価値観に支えられていた幸福感がなくなる。価値観というのは、この場合、慣習がとけこんだ経済システムが支えていた価値観のことだ。
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未開社会→近代的な市場経済発展度(ゼロ)→幸福度(大)
↓
近代的な市場経済が浸透・部分的→幸福度(中)
↓
近代的な市場経済が浸透・大部分→幸福度(低)
近代的な市場経済が発達したから、幸福度が低くなる。その社会(未開な社会)が市場経済的に発達したから、発達した分だけ、幸福度があがるのではなくて、発達した分だけ幸福度がさがる。
けどじゃあ、近代的な市場経済をうけいれてない未開社会に住む人は、みんな幸せなのかというとそうではないのだ。たとえば、飢饉がある。飢饉で、食べ物が食べられなくなれば、当然、幸福度がさがる。疫病がはやれば、幸福度がさがる。となりの国・隣の共同体がせめてくれば、幸福度がさがる。
けど、近代的な市場経済システムというのは、それまであった、慣習がとけこんでいる経済システムを破壊してしまうのである。慣習がとけこんでいる経済システムによって発生していたしあわせな出来事は、破壊される。
それから、ひとつの行為を儀式的な行為とみなすか、経済的な行為とみなすかという問題がつきまとっている。たとえば、結婚式について考えてみよう。結婚に関係する儀式だと思えば、結婚に関係する儀式なのである。そして、結婚式にまつわる行動を、経済的な行動だとみなせば、経済的な行動なのである。慣習がとけこんでいる社会においては、儀式そのものでしかないけど、ものの交換や参加者の飲み食いなど、儀式そのものが、経済的な活動を含んでいると言える。ようするに、結婚式にまつわる行動を、経済的な行動とみなすのか、儀式的な行動だとみなすのかによって、見え方がちがってるのである。じつは、結婚式のみならず、恋愛というものに関しても、近代的な市場経済システムは、その根本的な部分を書き換えてしまう。近代的な市場システムが供給するイメージにもとづいた恋愛を人々は模索するようになる。これは、映画やテレビ、デパートのような文化システムによってもたらされる。「物語」は、消費されるのである。「物語」が市場経済のなかで消費されて、個々人の頭のなかに「恋愛」というイメージがつくりあげられる。それは、原始共同体のなかの「恋愛」とは意味合いがちがうのである。
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参考文献
カール ポランニー 『経済の文明史』
カール ポランニー 『大転換 市場社会の形成と崩壊』
栗本慎一郎 『法・社会・習俗』
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