みんな、シェディングのことなんて、まったく考えてないみたいだけど、これは、すごい問題だぞ。しかし、どうしたもんだ?
じつは、まだ、右目はちょっとおかしい。これ、復活してしまうときがあるんだよなぁ。
ひとつひとつのことが、めんどうくさい。
いろいろな記憶がうかんでくる。これ、みんな、他人との会話の記憶なんだけど、あんまりいい記憶じゃないのである。ようするに、長期騒音以降、他人というものが……。長期騒音がかかわっている。長期騒音がなければ、ぼくのなかの「他人観」は、普通の「他人観」だったのである。長期騒音で「他人観」がかわった。長期騒音で能力をうしなったことによって、他者との関係がかわった。能力というのは、いろいろな能力だ。たとえば、普通に眠る能力、普通に起きる能力……こういう基本的な部分で、いろいろな障害がしょうじる。こんなのは、ない。
騒音と友人関係と、どう関係があるんだ? と思うかもしれないけど、ものすごく、関係がある。もう、ぜんぜん、ちがう。長期騒音以前と、長期騒音以降では、ぜんぜんちがう。長期騒音というもの自体が人生のなかで生じなかった人にとってみれば、そんなちがいはぜんぜん関係がないものだ。けど、長期騒音というもの自体が人生のなかで生じたぼくにとっては、ものすごく、関係があることだ。長期騒音のことが人生の八割ぐらいをしめている。そういう、大きな割合をしめている。家族の出す騒音が人生に占める割合なんて、普通の人は、多くても、一厘だろう。一割なんて占めるわけがない。なおさら人生の八割なんて、ありえない。けど、そのありえないことが起こってしまったんだなぁ。
ともかく、長期騒音以降の人間関係が、ぼくにとって、全部、不愉快なものなのである。だから、不愉快な記憶しか浮かんでこない。
なかった人に