個人的によかったことをちょっとだけ書いておこう。
・発酵タイプのキムチを食べられた
・ミニPCを買った(N100のやつ)22000円ぐらい。
・電気アンカ薄型を買った
・楽天・西友で、甘熟王バナナを買えるようになった(実際に、買った)
こんなところかな。電気アンカがこわれてしまって、まったくあったかくならなくなってしまったのだ。いまの時期、足の裏がつめたいのは、こたえる。これ、ぜんぜんちがうんだよね。足の裏があたたかいか、そうじゃないかのちがいはでかい。いま、新しいやつで、足の裏をあたためているのだけど、いい感じだ。古いやつは25年間ぐらいもったと思う。これは、ほんとうによくもった。
落選・西友に甘熟王バナナを入荷してくれれば買いますというような意見をかいておいたのだけど、そういう意見が多かったのか、甘熟王バナナを買えるようになった。楽天・西友と省略して書いてあるものは、楽天のネットスーパーのことだ。
まあ、全部、おカネに関係することばかりだ。「おカネじゃしあわせは買えない」とお金持ちの家に生まれた、おカネもちが言っているけど、その人は、おカネでしあわせを買いまくっている人だ。それに、気がついてないのだ。ずっと、おカネがある状態で暮らしてきたから、おカネがない状態のことがわからない。「おカネじゃしあわせは買えない」と言いつつ、こいつがやっていることは、全部、おカネがかかることなのだ。結婚だって、子どもをもつことだって、おカネがかかることだ。生活におカネがかかっている。妻や子どもとの生活を維持するのに、おカネがかかっているのに「おカネじゃしあわせは買えない」と本気で言っているのだ。どんだけ、自分が、カネをもっている生活をしてきたか、ぜんぜんわかってない。こいつが、食べているもは、俺が食べたことがないようなものであり、名前さえ知らないものだ。いつもそういう高級なものを食べているのに「おカネじゃしあわせは買えない」と本気で言っているのだ。おカネでしあわせを買っている。家族で高級なものを食べられるというのは、そういうことだ。800万円もするような高級な腕時計を、ぽんと買っておいて「おカネじゃしあわせは買えない」と本気で言っているのだ。いや、800万円の腕時計を買ったとき、ちょっとはしあわせな気持になっているだろ。人に「800万円の腕時計を買っちゃった」と言っているとき、ちょっとはしあわせな気持になっているだろう。「自分は800万円の腕時計をポンと買えるような財産があるんだぞ」と得意な気持になっているだろ。快適な家のなかで、子どもや妻と、食事をするときだって、ほんとうはカネがかかっている。まさしく、おカネでしあわせを買っている。こいつは、自分がなにを言っているのか、まったくわかってないやつだ。
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おカネに対する気持ちは、人それぞれにちがいがある。さらに言ってしまえば、じつは「金額」も影響している。ここで言う「金額」というのは、おカネの量のことだ。おカネの量は、「幸福感」に影響をあたえる。おカネそれ自体だけではなくて、「おカネの量」が 「幸福感」に影響をあたえる。「おカネじゃ、しあわせを買えない」なんて、よく言うよな。上位1%に入るようなおカネもちが「おカネじゃ、しあわせを買えない」と力説したって、聴いている人は、しらけちゃう。対象となるものが手に入るかどうか、ということは、幸福感に影響をあたえる。対象となるサービスをうけられるかどうかということは、幸福感に影響をあたえる。教育もサービスの中に含まれるとする。行きたい学校に行けるかどうかも、おカネが影響をあたえる。おカネでは買えないものもあるけど、それは、おカネじゃしあわせを買えないということではない。これを、勘違いしているんだよな。はっきり言ってしまえば、おカネで買えるしあわせだってあるのだ。おカネがないと不幸になることがある。おカネがじゅうぶんにあることによって、不幸になることをさけられるのであれば、それは、おカネでしあわせを買ったということだ。不幸であるという感情をさけられるのであれば、不幸であるという感情がしょうじるときよりも、相対的にしあわせになったと言える。その時点でカネによって不安をまのがれることができるのだから、相対的には幸福になったと言える。まあ、これは、不幸でも幸福でもない状態をどういう状態だと考えるかにもよるけどね。普段、意識してないけど、(おカネが)なければわかる。おカネで、「しあわせにつながること」を買える。おカネで、しあわせな暮らしを維持できるなら、それは、おカネでしあわせを買っているというとだ。おカネでは買えないしあわせも、あるにはある。けど、それは、部分であって全体ではない。おカネでは買えないしあわせというのも、じつは、人によってちがう。人の価値観によってちがう。人の「気持ち」によってちがう。「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言った場合は、文字通り、買うことができないということを言っているのである。この場合は、おカネで買えるしあわせはないということを言っているのである。おカネでは、かなしず、しあわせや、しあわせにつながことは買えないということを言っているのである。自分が言っていることが、わかっているのかな? わかってないんじゃないかな。この人は、「おカネでは、買えないしあわせもある」ということを「おカネじゃ、しあわせは買えない」と表現している可能性がある。「おカネでは、買えないしあわせもある」という場合は「おカネで買えるしあわせもある」ということを暗示しているし、理論的にそうなる。しかし、「おカネじゃ、しあわせは買えない」と言っている場合はおカネで買えるしあわせは、皆無だということを言っているのである。本人が言いたいことと、本人が言っていることが、ちがうんじゃないかな。
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将来の自分を考えた場合の、現在のカネというものも考えなければならない。将来みじめな思いをするのではないかと不安を、おカネで解消できるなら、その分だけ、幸福度があがっている。
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それから、これはもう、すでに書いたことだけど、「おカネがあるのに不幸そうな人がいた」とする。この場合「不幸そうな人だと思っている人」と、「おカネがある人」は、ちがう人物だ。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは、超がつくほどのおカネもちなのだけど、愛人に殺されたとする。Bさんがその話を聴いて「Aさんは、おカネがあったのに、不幸な結末になったから、Aさんは不幸だったちがいがない」と思っただけなのだ。
この場合、Bさんがそう考えているだけで、当のAさんは、じつは、しあわせだったかしれないのだ。Aさんがしあわせだと感じていたかどうかということは、わからない。
しかも、自分が不幸だと思うか、自分が幸福だと思うかというのは、時間によってちがう。人間の人生のなかで、不幸だと感じる時間もあるし、幸福だと感じる時間もあるはずだ。さっきまで、自分は不幸だと感じていた人が、いまは、幸福だと感じる場合もあるし、さっきまで、幸福だと感じていた人が、いまは、不幸だと感じる場合もある。
幸福だと感じている人、不幸だと感じている人というような表現だと、あたかも、幸福だと感じている人は、一生、幸福だと感じている(いた)というイメージがあり、不幸だと感じている人は、一生、不幸だと感じている(いた)というイメージがある。このイメージがまちがっているのである。完全に固定的なものじゃないんだよね。感情によって変化するものだ。ようするに、自信が幸福であるか不幸であるかということは、そのときどきの感情によってちがう……と考えるのが自然だ。もちろん、ずっと、自分は幸福だと考えて、一度も、自分は不幸だと考えずに、一生を終えた人もいる可能性がある。また、ずっと、自分は不幸だと考えて、一度も、自分は幸福だと考えずに、一生を終えた人もいる可能性がある。しかし、普通は、不幸を感じやすい人も、人生のなかで、幸福を感じることもあり、普通は、幸福を感じやすい人も、不幸を感じることもあると思う。ようするに、多くの人は、自分は幸福だと考えて、一度も、自分は不幸だと考えずに、一生を終えた人ではなく、また、自分は不幸だと考えて、一度も、自分は幸福だと考えずに、一生を終えた人でもないのだ。