いろいろ、いやなことを思い出すなぁー。しかも、「そのとき」はわからなかったことまで、わかる。俺はもう、まるまる界にいるんじゃないか。ひとつひとつのことが、いやなんだよな。
あとは、幸福論だけど、やっぱり、幸福自慢に聞こえるんだよなぁ。だれかが、幸福論は幸福自慢と言っていたのだけど、たしかにそういうところがあるよなぁ。本人はかならず?と言っていいほど、否定するけど、わりとめぐまれた環境で育ってきている人なんだよな……幸福論とか語る人。
本人は、否定して、自分も辛いことがいっぱいあった……こういう苦しい環境だったというようなことを言うのだけど、やっぱり、こっちから見ると、めぐまれているんだよなぁ。精神病質的な親にずっとたたられていた人や、精神病質的な兄にずっとたたられてきた人は、やっぱり、幸福論なんて、語らない。
たとえば、貧乏なうちに生まれたけど、奨学金で、今の地位を得たという学者が、幸福論を語っても、俺は、賛成しかねるんだよな。うちも貧乏だったけど、それ以上に、長期騒音を鳴らす精神病質的な兄が問題だった。
しかも、他の人には、これがわからないのである。見えないのである。聞いても、想像の範囲が狭いからわからない。実際に体験してみないと、ほんとうのところがわからないという意味でわからない。どれだけ広範な範囲が阻害されるか、わからない。どれだけ、他のところに影響をあたえる毒素として機能するか、わからない……騒音が機能するかわからない。精神病質的な兄が機能するかわからない。
「どんなに、他人から見て不幸な環境にいる人も、幸福を感じることはできる」みたいなことを言う人が多いのだけど、どうかな?と思う。これは、他人から見た場合の客観的な幸福度と本人が感じる主観的な幸福度が違うということを言っているわけ。
それは、そのとおりなのだけど、違うと思う。
どこが違うかと言うと、そもそも、他人から見た場合の客観的な幸福度というのが、実際には、ないのではないかと思う。偏見の集まりなんだよね。こういう人は、このくらいの幸福度を感じているはずだという偏見の集まり。
だから、たとえば、ホームレスはあんまり幸福ではないという決めつけがまずあって、それでも、「ある」ホームレスは、幸福だと言っていたというような話になってしまう。『客観的』と言うけど、「ある」他人の主観なんだよね。
あるホームレスが(自分のことを)幸福と感じているか不幸だと感じているかは、わからない。ホームレスという架空の集合をつくってしまう時点で、失敗しているのではないだろうか。ホームレスという架空の集合の中には、ホームレスであるという属性を持った各個人がいる。各個人は、関係がないのである。
各個人のホームスレという属性は、同じなのだけど、それが、個人にとって保つ意味が違う。それは、その人がそれまでどういうふうに生きてきたかということにつながることだ。客観的な指標として?ホームレスは不幸であるというところから、出発しているんだよな……そういうことが語られる場合は……。
しかし、これは、本当に正しいのだろうか? そういう初期設定が間違っているのではないだろうか。要するに、ほんとうは、客観的な指標が、個人の思い込み……なのではないだろうか。非・ホームレスの人たちにとってのホームスレという属性をもった集団に対する評価なのだ……客観的な指標というのが。
けど、そんなものは、関係がないのではないかと思う。
この『どんな状況だって、幸せを感じることができる人は、幸せを感じることができる』と言ったタイプの挿話は、おもしろくない。おかしい。その一例が、すべての個別的な状況の象徴や代表として機能しているのだけど、本当に、それだけをとって『どんな状況だって』ということができるのかという問題がある。
そもそも、集団を構成してないものに、属性をあたえて、集団として見たあと、実はその集団に属する人でも、「しあわせなひとがいる」ということを言うのは、おかしい。客観的な指標として、属性を考えるというのは、そもそも、個々の物語とは関係がないことなのである。個々の物語というのは、本人が自分の人生をどのように解釈しているかという個々の物語のことだ。
関係がないものに、属性を与えて、架空の集合をつくり、一例をもってして、「だから、感じ方次第だ」といういい切るのはまちがっている。結論づけるな。
感じ方次第という問題と、客観的な属性の問題は違う。客観的な属性の問題ととりあえず、言ったけど、実際には、客観的な属性ではなくて、「言っている人」の中にあるイメージの投影にすぎない。最初から……。言っている人というのは、幸福論を語っている人のことなのだけど……。
その人のなかでは、最初から、不幸だと感じることではなかったのではないかと思う。その人というのは、客観的に見ると不幸そうな人のことだ。客観的に見ている人が?勝手に、不幸だと決めつけたことが問題なのではないか?
実際には、客観的ではないのだけど……。ただ単に、その人の中にある固有のイメージ……固有の属性イメージについて語っているにすぎないのだから、客観的ではないと思う。
けど、客観性をまとっているのである。どうしてなら、多くの人が、『ホームスレは不幸だ』と考えているからだ。ホームレスは不幸なはずだ……しかし、あるホームレスは、自分のことを幸せだと言っていた……だから、どんな環境でも幸せだと考えることができる……というような推論には、間違いがある。どこが間違いかと言うと、今まで語ってきたとおりだ。
たとえば、長男は不幸であるという属性イメージを持っている人がいたとする。この人をAさんだとする。
(1)長男は不幸なはずだ……しかし、ある長男は、自分のことを幸せだと言っていた……だから、どんな環境でも幸せだと考えることができる……という推論と次の推論を比べてみよう。
(2)長男は不幸なはずだ……ある長男は自分のことを不幸だと言っていた……なのでやはり、長男は不幸だ。
まず、長男は不幸だという決めつけに問題はないか?ということと、ある具体例……一例が……そうである場合と、そうでない場合があるので、ある一例をもってして、なんらかのことを決めつけるのは問題がないことなのか?ということだ。
ある人・Bさんが長男だとする。ある人・Cさんも長男だとする。けど、BさんとCさんは別の人間で別のことを経験していきてきたのだ。たまたま、長男であるという属性が一致しているだけだ。なので、『同じ集団だ』とみなしていいのかどうかという問題がある。
個々人が経験したこと……それに関する個々人の考えの集積というのが、その時点における(現在における)幸福感に影響を与えていると考えるのであれば、長男かどうかということは、幸福感とはそもそも関係がないことなのではないかということだ。
けど、語る人のなかでは、そういう構造ができあがっている。語る人というのは、他人の幸福感について語る人であって、そういう構造というのは、『長男ならば不幸なはずだ』という決めつけから始まる理論的な構造のことである。
なぜ、長男であるか長男でないかに注目して、その人たち(BさんやCさん)が個別に経験した出来事を無視してしまうのか? 個別に経験した出来事のほうが、幸福感に影響を与えていると思うけどなぁ。
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同じ事柄と言うけど、同じ事柄なのだろうかという問題もある。けど、これは、別の機会に述べるとしよう。この問題は、実は『感じ方の問題だ』という考え方と関係がある。この『すべては感じ方の問題だ』というような宗教的な?決めつけは多くの問題を内包していると思われる。
これは、ほんとうはでかい問題なのだけど、ほとんどの人が素通りしている。
同じことでも、人によって受け止め方が違うということとすべては感じ方の問題だということは、違うことなのだけど、あたかも、同じこととして語られる。……ことが多い。