だから、範囲の問題だと最初から言っているでしょ。
「なんでも」じゃなかったのだ。仕事以外なんでも」と言うべきだったのだ。しかし、ほんとうに、仕事だけなのだろうかというとそうではないのだ。たとえば、勉強とか。自由にやり始めることができるのかということと、自由に工夫することができるのかということが、問題なのだ。「裁量権」が問題だ。
引用開始
面白きなき世を面白く、なんでも面白いと言えたほうが得に決まってるんだから
引用終了
「なんでも」のなかには、仕事は入ってない。けど、ほんとうに仕事だけなのかというと、そうではないのだ。「工夫をすれば楽しくなる」とか、「見方を変えればおもしろくなる」というのは、じつは、よく言われることだ。 問題なのは、それがほんとうに、すべての範囲において成り立つのか? ということだ。
「なんでも」なのか「なんでも」ではないのか? それは、重要な問題なのである。
で、もし、「なんでも」ではなくて、除外される範囲があるのだとしたら、それは、なぜ除外される範囲になってしまうのかということが問題になる。そして、それは、人によって違うのか? 人によってちがわないのかということが問題になる。
たとえば、AさんとBさんがいた場合、Aさんが「工夫しても楽しめない」と感じる範囲と、Bさんが「工夫しても楽しめない」と感じる範囲がちがうとしたら、最初から「なんでも面白いと言えたほうが得に決まっている」ということは、言えなくなるということなのだ。「なんでも」と思える範囲がちがうのだから、ちがう。
けっきょく、「なんでも」という言葉は「すべての範囲において」ということを暗示しているどころか、明示している。なので、本人がその言葉を使うときに、「なんでもと言っても、仕事だけはちがうよ」と思っていても、そういうふうに言わなければ、「なんでも」という言葉を使った時点で、「頭の中にあること」と「言葉として出たこと」がちがう内容を持っているということになる。なので、「なんでも」という言葉を使う場合は、「まるまるは除外するけど」というような言葉がどうしても必要になる。
仕事の場合は、工夫をしても楽しめない。仕事を「楽しいと感じることはできない」ということが、最初に決まっているなら……その人の意見として決まっているのであれば、全体を楽しいと感じることはできないという人との差異は、本質的には「ない」ということになる。
言う前から、「きまっている」のである。最初に判断されている。最初に判断されて、除外されているものは、工夫をしても、楽しめないのである。もっと言ってしまえば、除外されているものは楽しく感じる工夫ができないことなのである。