2024年12月4日水曜日

ちょっと、前投稿はわかりにくかったと思うので、まとめておく

 法則性がありそうなこと(実際には法則性がないこと)→法則性があること(実際には法則性がないこと)の「例としての美談」→美談の主人公に成り立っている多数の条件については、語られない(無視される)(条件は関係がないことになっている)

美談の主人公のまねをして?どこかの一般人が法則性がありそうなことをした場合、どこかの一般人には美談の主人公には成り立っている多数の条件が成り立っていないので、美談の主人公のように成功しない。もともと、法則性があるように語られていることは、まったく法則性がないことだから、法則性がありそうなことをやっても、法則のとおりにはならない。

まず、こういうことを言いたかったわけ。

そして、みんなが知っているような話というのは、みんなが知るようにできている。ようするに、その話自体ではなくて、その話をささえるメディアの構造が成り立っている。ようするに、メディアが「横の宣伝」をするつもりなので、その話が、目立ったところに置かれるということだ。そして、さまざまな役割をもった人が、目立ったところに置かれた話を、「みんなが知っている話」にする。みんなが知っている話になっている時点で、メディアが、意図をもって「みんなが知っている話」にした可能性がある。

そしてさらに、美談の主人公が実在の人物である場合、その人の取り巻き連中がいるということだ。これは、情報商材の作者とアフィリエイターの関係とおなじだ。取り巻き連中がいると、取り巻き連中が「自分もうまくいった。法則性がある」ということを宣伝するので、あたかも、法則性があるような話になってしまうけど、その場合も、法則性はない。

もともと、法則性がないことなので、名も知れぬ個人であるあなたが、おなじことをやっても、うまくいかないということになる。ようするに、「XをすればYになる」と聞いたので、Xをしたのだけど、Yにならなかったということを経験することになる。

この場合、法則性がなかったということになるのだけど、メディアが「法則性がある」ということを、どこまでもどこまでも、宣伝する。

そうすると、「XをしてもYにならなかった場合は、個人に問題がある」ということにされる。ようするに、やり方がへたくそだから、ダメだったのだということになる。

実際には、法則性がないから、XをしてもYにならない場合があるのに、法則性がないからXをしても、Yにならない場合があるということを、認めない。法則性がないということを認めない。メディアにかかわっている人や美談にかかわっている人が認めないというとだ。「美談を話した人の信者」「法則性があると信じている人」ももちろん、かかわっている人のなかに含まれる。

 

2024年12月2日月曜日

鍋で炒り卵をつくったら、こげつきがすごい

 急に、長ネギのみじん切りが入った炒り卵を食べたくなって、つくったんだけど、鍋のこげがすごい。ほんとうは、フライパンを使うべきなのだけど、ちょっといろいろとあって、使えない状態になっている。油をたっぷりひけばだいじょうぶかなと思ったけど、だいじょうぶじゃなかった。油を「しく」なのか、油を「ひく」なのかについては、油を「ひく」が正解だ。

そういえば、高根の花なのか、高嶺の花なのかということについても、ちょっとだけ言っておくと、この場合は、どっちとも正解だ。個人的には「高嶺」を使いたいのだけど、どうも、最近の事情を考えると「高根」と書いたほうがいいみたいだった。なので、わざわざ、高嶺を高根に書き換えたときがあるのだけど、いまは、「やっぱり、高嶺のほうがいい感じがする」と思っている。あとで、見つけたら、書き換えておこう。

ともかく、まあ話をもどそう。鍋で炒り卵をつくったら、こげつきがすごい。これ、いま、お湯でふやかしているさいちゅう。けど、あんまりとれそうもないんだよな。

炒り卵は、じつは、醤油と砂糖を入れている。醤油と砂糖とネギのみじん切りを入れて、タマゴをといて作った炒り卵だ。これ、ときどき、食べたくなる。醤油、砂糖、ネギの絶妙な組み合わせ。うまい。けど、鍋は失敗だったなぁ。今度は、オーブントースターでつくろう。以前つくったことがあるのだけど、いちおう、うまくできた。これは、炒り卵じゃなくて、そこそこ、たいらな卵焼きみたいになる。

じつは、北側の工事で、昨日とおなじ作業をしていたので、昨日とおなじ騒音を経験した。はやく、終わってほしい。なんか、起きたあと、だるいんだよ。

 

2024年12月1日日曜日

起きたあと、白湯を飲んで、白湯を飲んで、鮭の刺身でご飯を食べた

 どうするべきなんだろうなぁ……………。目下のところ、からだがかゆいのが問題だ。からだが、かゆい。刺されたのか、寒冷蕁麻疹なのか、コーヒーアレルギーのかきこわしがかゆくなっているだけなのか、まるでわからない。まあ、ダニに刺されている可能性は否定できない。この部屋で、でかい袋に(洗った服を)入れて、とっておくと、服にダニについてしまうのかもしれない。熱湯消毒をしたあと、洗濯をしても、ダメな感じがすることがある。見かけはきれいなので、着て刺されるまで、わからない。この部屋は最後の砦だったのに、もう、ここまでくると、やっぱりダメな感じがする。ともかく、つかれはててしまったよ。親父→ネズミ→ネズミの糞→ネズミ対策工事失敗→ダニで、つかれた。もともと、長期騒音でつかれはてているところがあるので、いろいろとつみかさなると、きつい。竹、木、雑草関係もある。

ともかく、いろいろなことがつみかさなりすぎた。

引っ越しの準備はしているけど、超・鈍足だ。 

*     *     *

今日は、朝の8時30分ぐらいから、北側の工事をやっていて、暗くなるまでやっていた。丸鋸のようなもので、コンクリートを切るような音とでかい掃除機のような音が、ずっと鳴っていた。金属パイプをたたくような音は、なかった。で、まあ、「うるさいなぁ」と思いながら、眠った。ようするに、眠れたわけだ。けど、なんか、眠った感じがしない。ちゃんと眠りたい感じがする。

*     *     *

起きたあと、白湯を飲んで、白湯を飲んで、鮭の刺身でご飯を食べた。これは、なま食用の鮭だ。これ、鮭は「しゃけ」と言っていた感じがする。「さけ」とは言ってなかったんだけどな。まあ、いいや。養殖のさけじゃないよ。けど、悪い養殖とよい養殖があるらしく、よい養殖は、天然よりも、よいというようなことが、言われていた。今は、北海道産・天然鮭の切り身が手に入るので、それを食べている。

あー、なんか、眠たい。けど、いまは、眠れない感じがする。


「美談詐欺」

 たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは「あたえれば、しあわせになる」と言っている人だとする。Bさんは、Aさんが言っていることを信じて、ひとにいろいろなものをあげて、不幸になったとする。その場合、Aさんが、Bさんに、Bさんがほかの人にあげた分だけ、あげるかというと、あげないのである。Aさんは「あたえれば、しあわせになる」と言っただけ。言ったけど、実践はしてない。実行しない。けど、BさんはAさんの言葉を真に受けて、実行してしまった。そうしたら、ほんとうに、すべてのものをうしない、不幸なった。このとき、Aさんが、Bさんのことを知ってたとしても、助けてあげないのである。Bさんに、Aさんのもっているものを、すべてあげればいい。そうすれば、しあわせになる。Aさんもしあわせになるし、Bさんもしあわせになる。ところが、Aさんは「あたえれば、しあわせになる」と言っているだけで、実践しないのである。だから、信じたBさんがバカを見ておしまいだということになる。

だいたい、「あたえる」というのは、抽象度が高い言い方なのである。なので、具体的に、なにを、だれにあたえるかということについては、言及してない。ただ、あたえた場合のほうが、あたえなかった場合よりも「しあわせになる」ということを言っているのである。宗教的な美談とか、ビジネス本の美談というのは、「うまいぐあいにいったこと」しか、例として挙げない。うまくいかなかった場合については、闇に葬られるのである。これは、一種の「美談詐欺」で、抽象度の高いことを言って、それが、汎用的に成り立つようなイメージをあたえるけど、実際には、行動について具体的には示されていないということになる。美談のなかに出てくる「例」はあくまでも、ひとつの例だ。美談の締めくくりに、「ちょっとしたことでいいからあたえればいい」というようことを言うけど、真に受けてしまった人のことは、まったく考えられてないのである。ともかく、現実世界ではあたえても不幸になる場合があるのに、それについてふれないのはおかしい。そして、もっと言ってしまえば、現実世界ではあたえた「から」不幸になる場合だってあるのに、それについて、ふれないのはおかしい。


いつも読んでくださるかたに感謝しております



人気の投稿

ブログランキング・にほんブログ村へ