法則性がありそうなこと(実際には法則性がないこと)→法則性があること(実際には法則性がないこと)の「例としての美談」→美談の主人公に成り立っている多数の条件については、語られない(無視される)(条件は関係がないことになっている)
美談の主人公のまねをして?どこかの一般人が法則性がありそうなことをした場合、どこかの一般人には美談の主人公には成り立っている多数の条件が成り立っていないので、美談の主人公のように成功しない。もともと、法則性があるように語られていることは、まったく法則性がないことだから、法則性がありそうなことをやっても、法則のとおりにはならない。
まず、こういうことを言いたかったわけ。
そして、みんなが知っているような話というのは、みんなが知るようにできている。ようするに、その話自体ではなくて、その話をささえるメディアの構造が成り立っている。ようするに、メディアが「横の宣伝」をするつもりなので、その話が、目立ったところに置かれるということだ。そして、さまざまな役割をもった人が、目立ったところに置かれた話を、「みんなが知っている話」にする。みんなが知っている話になっている時点で、メディアが、意図をもって「みんなが知っている話」にした可能性がある。
そしてさらに、美談の主人公が実在の人物である場合、その人の取り巻き連中がいるということだ。これは、情報商材の作者とアフィリエイターの関係とおなじだ。取り巻き連中がいると、取り巻き連中が「自分もうまくいった。法則性がある」ということを宣伝するので、あたかも、法則性があるような話になってしまうけど、その場合も、法則性はない。
もともと、法則性がないことなので、名も知れぬ個人であるあなたが、おなじことをやっても、うまくいかないということになる。ようするに、「XをすればYになる」と聞いたので、Xをしたのだけど、Yにならなかったということを経験することになる。
この場合、法則性がなかったということになるのだけど、メディアが「法則性がある」ということを、どこまでもどこまでも、宣伝する。
そうすると、「XをしてもYにならなかった場合は、個人に問題がある」ということにされる。ようするに、やり方がへたくそだから、ダメだったのだということになる。
実際には、法則性がないから、XをしてもYにならない場合があるのに、法則性がないからXをしても、Yにならない場合があるということを、認めない。法則性がないということを認めない。メディアにかかわっている人や美談にかかわっている人が認めないというとだ。「美談を話した人の信者」「法則性があると信じている人」ももちろん、かかわっている人のなかに含まれる。