2024年12月1日日曜日

「美談詐欺」

 たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは「あたえれば、しあわせになる」と言っている人だとする。Bさんは、Aさんが言っていることを信じて、ひとにいろいろなものをあげて、不幸になったとする。その場合、Aさんが、Bさんに、Bさんがほかの人にあげた分だけ、あげるかというと、あげないのである。Aさんは「あたえれば、しあわせになる」と言っただけ。言ったけど、実践はしてない。実行しない。けど、BさんはAさんの言葉を真に受けて、実行してしまった。そうしたら、ほんとうに、すべてのものをうしない、不幸なった。このとき、Aさんが、Bさんのことを知ってたとしても、助けてあげないのである。Bさんに、Aさんのもっているものを、すべてあげればいい。そうすれば、しあわせになる。Aさんもしあわせになるし、Bさんもしあわせになる。ところが、Aさんは「あたえれば、しあわせになる」と言っているだけで、実践しないのである。だから、信じたBさんがバカを見ておしまいだということになる。

だいたい、「あたえる」というのは、抽象度が高い言い方なのである。なので、具体的に、なにを、だれにあたえるかということについては、言及してない。ただ、あたえた場合のほうが、あたえなかった場合よりも「しあわせになる」ということを言っているのである。宗教的な美談とか、ビジネス本の美談というのは、「うまいぐあいにいったこと」しか、例として挙げない。うまくいかなかった場合については、闇に葬られるのである。これは、一種の「美談詐欺」で、抽象度の高いことを言って、それが、汎用的に成り立つようなイメージをあたえるけど、実際には、行動について具体的には示されていないということになる。美談のなかに出てくる「例」はあくまでも、ひとつの例だ。美談の締めくくりに、「ちょっとしたことでいいからあたえればいい」というようことを言うけど、真に受けてしまった人のことは、まったく考えられてないのである。ともかく、現実世界ではあたえても不幸になる場合があるのに、それについてふれないのはおかしい。そして、もっと言ってしまえば、現実世界ではあたえた「から」不幸になる場合だってあるのに、それについて、ふれないのはおかしい。


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