おカネがあっても、幸福とは、限らない。
しかし、おカネは、幸福感に影響を与えないわけではない。
おカネという条件とほかの条件をわけて考えなければならないのである。たとえば、おカネがあるのに、足が悪いので、登山に行けないとする。
この場合、おカネという条件と、足が悪いという条件について、考えなければならないのである。「おカネ」という条件は満たされているけど、「足が悪くない(足が普通に動く)」という条件は、満たされていないのである。
おカネがなくて、足が悪い状態ではないのである。足が悪いということが問題なので、足がよくなれば、登山をすることができるようになるのである。
ところが、「おカネじゃしあわせは買えない」と言う人は、「足が悪いと、おカネがあっても、登山に行けない……だから!!……おカネは(幸福感と)関係がない」と言ってしまうのである。
しかし、これは間違った推論だ。
おカネがなくて、足が普通に動く状態であるにもかかわらず、登山に行けないのであれば、おカネの問題になる。
足が普通に動く状態ではなく、なおかつ、おカネがない状態で、登山に行けないのであれば、おカネの問題と、足が普通に動かないという問題が両方ともあるということになる。
おカネの条件を満たすかどうか、足が健康かどうかという条件を満たすかどうかということが、重要なのである。
足が普通に動かないから、登山に行けない場合は、足の問題なのである。
おカネがなくて、登山に行けない場合は、おカネの問題なのである。
足も健康だし、おカネもあるけど、登山に行く気力がない場合もある。この場合は、気力がないという条件が問題になる。
足も健康だし、おカネもあるけど、登山に行く気力がない場合、「おカネがあるのに、登山に行けないのだから、おカネは関係がない」という考えは間違いなのである。
おカネがあるのに、やりたいことができないという場合、ほかの条件が問題なのである。
「おカネがあるのに、やりたいことができないのだから、おカネは関係がない」と考えることはできない。
条件なんて、いくらでもあるので、個人的な実情を考えるなら、個人的な条件について考えなければならないのである。
登山に行きたいのに……おカネがないから、登山に行けない場合、おカネがないということが、登山に行くという行動に影響を与えている。
この場合、おカネは関係があると言える。
やりたいことができることが、しあわせの一部であると考えるなら、おカネがあるから、やりたいことができるというのは、しあわせの一部に影響を与える。やりたいことができることが、しあわせの一部であると考えるなら、おカネがないから、やりたいことができないというのは、しあわせの一部に影響を与える。
あくまでも、「一部」なのである。
どうしてかというと、幸福感というのは、生活全体のなかで感じることだからである。
「なになにができる」ということは、「なになにができる」ということにおいて影響を与えるのである。
「なになにができない」ということは、「なになにができない」ということにおいて影響を与えるのである。
生活全体ではない。
一時的な幸福感ではなくて、「幸福な生活をしている」という実感がわくかどうかについては、もっといろいろな要素(条件)が影響を与える。
おカネがあっても、しあわせではない場合がある。
しかし、だからといって「おカネはしあわせであるかどうかに影響を与えない」とは言えない。
おカネがあっても、しあわせではない場合がある。
しかし、だからといって「おカネは幸福感に影響を与えない」とは言えない。
「おカネがあっても、しあわせではない場合があるのだから、おカネはしあわせな感じに影響を与えない」と考えるのは、間違っている。