ちょっとだけ、書いておこう。おカネでは、幸福は買えないという意見がある。
しかし、おカネで、不幸をさけられるのである。
おカネがないことで、どれだけの不幸がふりかかるか、まったくわからない人が「おカネじゃ幸福は買えない」と言うのだ。いやー。あんたは、おカネで幸福を買っているのに、それがわからないだけだ。
どれだけの幸福を買ってきたか、ぜんぜんわかっていないだけだ。
しかし、おカネでは愛は買えないとする。愛がもたらす幸福は、おカネでは買えないではないかということが言えそうだ。
これ関して言うと、おカネで買える幸福と、おカネでは買えない幸福があるだけなのである。おカネで買えると言うと、100%おカネで買えるということになるのである。おカネで買えないと言うと、100%おカネで買えないということになるのである。
特に、100%などと言葉を付けくわえなくても、そういう意味になってしまうのである。
おカネで買える幸福はあるし、おカネで買えない幸福もある。
だから、「買えない」とか「買える」と言っても、あまり意味がない。おカネがどれだけ幸福感に影響を与えるかということについては、個人が経験してきたことが、意見に影響を与える。
親が医者のような恵まれた親の元に生まれた子どもは、おカネが「たっぷり」あることが前提なので、おカネがなくてできないということを、あまり経験しないのである。おカネがあればできるのに、おカネがないからできないということを、経験しないか、あるいは、経験した回数が少ないのである。もちろん、親にカネがあっても、親の性格で、子どもにカネをかけないということがある。その場合は、親が金持ちでも、カネがなくてできないということを経験することになる。だから、親のカネがすべてだとは言わない。
しかし、親の資産や、親の収入は、成人するまでの様々な経験に影響を与えるのである。それなのに、くそボンボンは、それを無視してしまう。
そして、「おカネじゃ、幸福は買えない」と「おカネで買うことができない幸福」に焦点をあわせて、話をする。そこで取り上げられていることは、「おカネで買うことができない」「特殊な」「幸福」なのである。
ところが、おカネがあれば、回避できるさまざまな不幸があるのである。このおカネがあれば、回避できるさまざまな不幸というものが、子どものころから、カネに満ちている生活をしている人にはわからないのだ。
これは、ただ単に、わからないだけだ。
ほんとうは、おカネで回避できる不幸がたくさんある。しかし、それは、おカネがない状態で、意識にのぼることなのである。おカネがある状態で……たっぷりある状態で暮らしている場合、「おカネがないからさけることができない不幸」に焦点があうことがないのである。
もう、焦点があわないので、意識にものぼらないのである。
子どものころから、そういう生活をしていれば、「おカネがないからさけることができない不幸」を無視して当然なのである。
しかし、実際には、「おカネがないからさけることができない不幸」があるので、おカネは重要だ。
* * *
「モノよりも、体験におカネをかけたほうがいい」という話について、ぼくの考えを説明した。
「カヌー教室に、家族で参加した。子どもたちをカヌー教室に連れて行ってやったら、子どもたちが喜んでいた。体験にカネを使って、よかった。
よかったね。
でっ、どうして、おカネじゃ幸福を買えないと言っているのか?
おカネで幸福を買っているじゃないか。おカネで、子どもたちとの楽しい体験を買っているではないか。これだって、貧乏で、子どもたちをカヌー教室に連れていくことができなければ、買うことができない幸福なんだよ。なんで、これがわからないのか?
あっ、そうか。子どものころから、おカネに満ちた生活をしているから……「それが当たり前」……なんだね。だから、わからないだけか。なるほど。