そういえば、「モノよりも体験にカネを使うほうがいい」という話をよく聴くようになった。こういうのは、はやりすたれがある考え方で、なんだか知んないけど、みんながそういうふうに言いだすときがある。
高いモノを買っても、一時的に満足できるだけで、すぐに、あきる……。しかし、体験の場合は、「あのとき、こういうことをした」ということを思い出すと、満ち足りた気分になり、いい時間をすごすことができる。
ようするに、思い出すのは無料だし、何回も、思い出すことができる。だから、モノがもたらす一時的な快感よりも、体験がもたらす快感のほうが価値があるという考え方なのだ。
さらに、体験が「こころの栄養になる」というようなことを言う。
これだけ聴くと、たしかに、そんなふうな気分にもなるのだけど、「思い出は色あせない」という前提は間違った前提だと思う。基本、親友といろいろなところに、言って楽しかったとする。
けど、その親友と絶交したあとは、親友との楽しい思い出も、なんか、色あせたものになってしまうのだ。「そんなときもあったなぁ」とさみしい気分になってしまう。たしかに、そのときは、楽しかった。けど、ずっと、それが続くわけではない。
こういう話のなかに出てくる「モノ」というのは、高級時計だったり、高級な車だったりするのだ。ものを所有することで、得られる快感は、たしかにある。
これ「モノよりも体験にカネを使うほうがいい」という話をする人たちが、普通以上の家に生まれて、普通以上の所得がある人たちばかりなのだ。
恵まれた家に生まれたから「ない」ことのみじめさを知らないのだ。モノがないということが、もつ、ほんとうの意味を知らないのだ。
この人たちは、「高級なモノ」について考えている。
普通の人が奮発しないと買えないものだ。普通のモノは、持っている状態で暮らしてきたのである。どうしてかというと、「いいうちに生まれたから」だ。
たとえば、普通の子どもが持っているゲーム機というものがあるとする。子ども時代において、普通の子どもが持っているゲーム機をもっていないということが持つ意味を知らないのだ。「もの」がないということがわかっていない。
普通に、普通のものを持っている状態で、子ども時代をすごしてきた人たちなのだ。その人たちが、大人になって、自分で稼ぐようになり、「超」がつくほどの高級な腕時計を買ったとする。一時的に満たされるけど、快感は長くは続かない。
だから、「モノ」を所有する価値がないのかというと、そうではないのだ。この人たちは、学生時代も、標準的な腕時計は持っていたわけで、腕時計を持っていなかったわけではないのだ。あくまでも、「超」がつくほどの高級な腕時計を買ったときの話をしているのだ。
「モノ」よりも体験だという話の中で出てくるのは、そういう「モノ」なのである。
そして、体験のほうが重要だというけど、けっきょく、サービスを買っている場合がある。たとえば、カヌーを漕ぐ経験をするということを考えてみよう。カヌーの体験教室みたいなものに行って、カヌーを漕いでみるのだ。
たしかに、体験だ。
そして、カヌーは一時的に借りているだけであって、所有モノではない。しかし、その時間は、自由に、使えるのだ。カヌーがないわけではない。
そして、カヌーの体験教室に行くだけのカネがないわけではない。
ようするに、ものは、土台として、体験を供給しているのだ。
スキーに行くことを考えてみよう。自分のスキー板を買う場合もあるし、借りる場合もある。自分のものを買う場合は、当然モノを買うということになる。スキー用の服を買う場合も、スキー用の服を買うのだ。これは、「モノ」を消費しているということになる。
スキーをする体験にカネをかけると言っている場合も、土台としてのものに、カネがかかっている場合がある。
旅行に行く場合もおなじだ。旅行に持っていくものを買っている。モノが土台になっている。そして、移動費がかかる場合、移動費もかかっている。
これは、たしかに、自分の手元に残るモノではない。
だから、サービスを買っているということになる。サービス。けっきょく、「体験」にカネをかけたほうがいいというのは、ものを土台にして、サービスにカネをかけたほうがいいという話になる。
もちろん、カネがかからない割に、楽しい体験はある。たとえば、気の合った人と話すだけで、楽しい。子どものころ、カネがかからない遊びをしたこともある。あれは、いい体験だった。
けど、「カネを使うなら、ものよりも、体験に使ったほうがいい」という話なので、そもそも、カネを使う話になっている。そして、カネというのが、金額的に高いカネのことを意味しているのである。
ようするに、「モノよりも体験にカネを使うほうがいい」という話は、余裕がある人向けの話になる。高いモノを、ポイっと買える人たちの話なのだ。
そういう人たちが、「高級品を買ったけど、もう、あきちゃったな」と感じるので、「体験にカネを使ったほうが、いい」と言っているだけなのだ。