ちょっとだけ、言っておく。「私はオレンジジュース」という文について考えみよう。
私が、オレンジジュースなのかというと、そうではない。
喫茶店に入って、「私はオレンジジュース」と言うと、相手は「わたしの注文はオレンジジュース」だと解釈してくれるのである。
食堂で、あるいは、料理屋で「私はうなぎだ」と言った場合もおなじだ。
言った人が、私自身が、うなぎなのであるということを言っているのではなくて、言った人の注文は、うなぎ(料理)であるということを、相手は理解してくれる。
この場合、主語ということを考えてもむだなのである。文だけに注目して、主語と述語ということを考えてもむだだ。
「私はオレンジジュース」ではなくて「私は、オレンジジュースです」という文について考えてみよう。
言われた相手は、メタ認知が成り立っているので、相手は、相手(自分自身)がオレンジジュースであるということを言っているのではなくて、相手の注文がオレンジジュースであるということであると認識するのである。
「私は、オレンジジュースです」という文は「私の注文はオレンジジュースです」という文に置き換えることができる。
省略されている「注文」が真の主語なのである。
あるいは、「私は、オレンジジュースです」という文は「私はオレンジジュースを注文します」という文に置き換えることができる。
「私はオレンジジュースを注文します」という文の場合主語は、「私」になる。
「私は、オレンジジュースです」という文の場合、名詞のうしろなので「です」になっているけど、「私はオレンジジュースを注文します」という文の場合「注文する」という動詞の後ろなので「(し)ます」ということになる。
「し」は動詞の活用部分だ。「注文する」ということが、省略されているので、主語は「私」で問題がないということになる。
日本語の場合、じつは、場面によるメタ認知と、複数の文がつくりだす全体性のメタ認知によって、主語が決まるのである。主語というよりも、主体だ。
日本人は、複数の関連した文がつくりだす全体性から、主体を割り出して理解しているのである。しかし、表現によっては、うまく割り出せない場合がある。
その場合は、「主語はなんなんだ」ということが問題になるのである。